2 陽春(2)
銀杏の大木の先に、緑の館がある。
その玄関先には、いま複数の生徒が集まっていた。
「なんだろう」
先を行く良司がつぶやく。
生徒たちの顔ぶれは、見知った同級生もいれば、そうでないひともいた。学年はバラバラで、とくに上級生は、友も連れずひとりで来る者が多かった。
みな館に入ろうとはせず、なにかを確認すると、すぐに引き返していく。
「坂本」
日に灼けた男子生徒がふたり、こちらに来る。
良司は軽く手をあげてみせた。
「おまえも見に来たの?」
「何を?」
「え、ちがうんだ。――ああ、執行部様だもんな」
塔子を見て、納得したように男子生徒が言う。やめろよ、と良司は簡単にいなした。
「で、なんなの」
「あれ」
短髪の男子が親指でしめす。
その先を追い、塔子はあっと小さく声をあげた。
「――なるほど」
良司が感心した声をだす。
彼が指し示したのは、緑の館の玄関扉だった。その木製の扉に、取り付けられたものがある。昨日まではなかったもの。今日取り付けたもの。
風にひらひらと翻る、緑。
――緑の校旗がそこにあった。
『はたして伝言は滞りなく遂行されたのか? ――翌朝、審判がその判定を報告する』
塔子は詩織の言葉を思い出した。
『緑の館の玄関扉に、緑の校旗がかかっていたら、わたしたちの勝ち。王国は守られる。けれどもし、赤の校旗がかかっていたら。そのときはわたしたちの負け』
王国は終わる――。
眼前の校旗は、緑。
塔子は固唾をのんだ。
――昨日の伝言は成功したんだ。
「なんかふしぎな感じだな」
良司があごに手をやる。
「まあ、そうだよな。昨日は生徒全員、緑だらけだったっていうのに、教員だってなにも気づかなかったんだから。成功するわけだよな」
「だな。――ということで、じゃあな」
男子ふたりはあっさりと背を向けた。
「え、もう行くの」
「見たかっただけだから」
ひらひらと手をふってみせる。
さっさと去っていくふたりを見て、良司は苦笑した。塔子に顔を向ける。
「あいつら、同じ部でさ」
「……陸上部?」
「そう」
仲が良いのだろうな、と塔子は思った。
言葉少なな会話なのに、ぜんぶ通じている。
「――面白い伝統だよな」
彼がしみじみとつぶやく。
塔子はそれに応えることは出来なかった。
沈んだ気持ちで、周りに集まる生徒へ視線をもどす。
旗の色をたしかめると、帰っていく生徒たち。
とくに上級生は、十秒足らずで確認し、そしてすぐに館を背にする。何も言わず表情も変えず、わざわざひとりでやって来て、そして去っていく。
ぼんやりと眺め、塔子はハタとわれに返った。
「……変だ」
ぽつりとつぶやく。良司は首をかしげた。
「え、なにが?」
塔子は腕をかかえた。
――この反応、おかしい。
ゲームの結果がわかったのに、しかも勝ったっていうのに。みんな、なんでこんなに冷静なんだろう。まるで興味がないみたいにみえる。それなのに――。
なんで緑の館に来るんだろう。
なぜわざわざ、結果を確認しに来るんだろう。
深い濃緑の校旗が、威風堂々と翻る。
春の風にあおられて、やわらかにはためく。
その旗の中心に、校章の獅子がいる。しかしよくよく見ると、それは校章の本来のデザイン――向かい合う二頭の獅子――ではなかった。
そこにいる獅子は、一頭だけだった。
左向きに踊り上がる、金獅子。
塔子はふと胸元を見やった。胸ポケットに留めている、校章の獅子。こちらも本来のデザインではない。一頭の獅子がいるだけだ。こちらは――
右向きに躍り上がる、金獅子。
――入寮式の日、ふしぎに思っていた。
『この片割れの獅子は、いったいどこに消えてしまったのだろうか』と。
うすら寒くなりながら、塔子は答えを得た気がした。
ああ、そうか――。
片割れの獅子は、ここにいたのか。
*
「やあ、来たね」
榊葉がのんびりと声をあげた。
「きみたちを待っていたんだ」
白い格子窓から穏やかな陽光が射している。緑の館の一階、瀟洒なリビングルームを思わせるその部屋で、五人の役員が塔子らを待ち受けていた。
会長である榊葉直哉、副会長の荒巻志津香、鷹宮柊一。
そして見知らぬ生徒が二人。革張りのソファに座りこちらを窺っている。
塔子と良司はひっそりと目を見交わした。榊葉、荒巻をのぞく役員たちのまなざしは、けっして温かいものではない。異分子を迎え入れるときに生じる、独特の抵抗感が部屋に満ちていた。
「ようこそ、緑風会執行部へ。きみたちを歓迎する」
ソファから立ち上がり、榊葉は笑みをつくる。おろおろと目を伏せた塔子に対して、良司は毅然と顔をあげた。
「違うんです」
そうきっぱりと彼は告げる。
「今日来たのは、役員になるためじゃありません。辞退しに来たんです」
「……おやおや」
榊葉は眉をはねあげた。
「それは篠崎さんもなの?」
「そうです。おれたちふたりです」
良司が首肯する。塔子は口を開いては閉じた。何も知らない彼の手前、どう言えばいいかわからなくなる。
榊葉のまっすぐな視線を感じて、さらに縮こまる。
「ふうん? 篠崎さんには、了解を取っていると思っていたんだけど」
「それは本当に彼女の意志ですか」
「きみは篠崎さんの保護者なの?」
良司は鼻白んだ。
「他人事じゃないと思うからです。なんでおれや篠崎さんなんですか? 役員をやりたい人は、ほかに沢山いるっていうのに」
「きみたちが適任と思うからだよ」
鷹揚に榊葉が返す。ソファを離れ、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
榊葉をのぞく役員たちは、なりゆきを静観していた。柊一などは塔子をひややかに見つめてくる。
“この期に及んで、何を言っているのか。人の影に隠れて恥ずかしくないのか”
――いまにも彼の声が聞こえてきそうだった。
塔子は、頬に血が集まるのを感じた。柊一の視線が、ほかのだれのものよりも突き刺さる。
「適任? だったらもっと穏便に説得すればいいのに――」
「穏便に運ぼうとしたさ。でもきみは逃げたろう」
良司は少し詰まり、それでも反論した。
「だからといって、強引に事を進めるのはどうかと思います」
「きみが子どもじみた真似をするから、こちらも同じ対応を取らせてもらっただけだけど」
ああいえばこう言うとはこのことだった。
榊葉はすっと前に進み出て、良司を見下ろした。良司も長身だが、榊葉は彼よりも背が高い。威圧され、明らかに良司はいらだった。
「ふざけないでください」
「ふざけてなどいないよ。きみは総司先輩とは違うなと思うだけ」
良司が目を見開く。塔子はハッとして彼を見た。びり、と空気がふるえた気がした。
「……そうです」。歯を食いしばって良司は返した。
「――おれは兄貴じゃないし、兄貴の代わりもできない。だから嫌だと言っているんです」
うなるような良司の声。
「わかってるよ」。榊葉が静かに応じた。
「それが問題なんだろう、坂本」
落ち着き払った態度を見るに、良司を煽ったことは明白だった。
でもね、と彼は続ける。
「きみを選んだのは、総司先輩の弟だからという理由だけじゃない。おれはきみを買っているんだ。きみが思うよりずっとね」
「うそだ」
「うそをつく理由がないだろう」
良司は押し黙った。しばしの間のあと、低い声をだす。
「……おれのどこが。兄貴より、よっぽど劣っているのに」
塔子は驚いて良司を見つめた。
その沈んだ表情を、その感情の名を塔子はよく知っている。
劣等感。
良司にも劣等感があるのだ。
いつも朗らかで自信にあふれている彼だから、そんな感情は抱かないだろうと思っていた。それがうらやましくて仕方がなかった。
けれど違ったのだ。良司でさえも劣等感を抱くことがある――。それは衝撃の事実だった。
「比べる必要はないさ」
榊葉が声をあげる。
「きみにはきみの良さがある。ふだんのきみは、それをよくわかっているはずだろう?」
「……」
榊葉は少しの間彼を見つめ、そしてついとこちらに目をやった。目が合い、塔子はひどくうろたえた。
「――それとね、坂本。きみを選んだ理由はもうひとつあるんだ」
え、と良司が怪訝な顔をする。榊葉はにこりと笑み、塔子を見つめた。
「彼女――篠崎さんを手助けしてほしくてね」
「篠崎さんを?」
心臓が跳ねる。塔子は呆然として榊葉を見返した。
良司が眉をひそめる。
「そもそも篠崎さんは、役員になることを望んでいないでしょう」
「いいや、やるよ」
「だから彼女の意志じゃないって――」
「でも、彼女はやる。やらなければいけないから」
榊葉はすこし寂しそうにわらう。
良司はさらに顔をしかめ、塔子にふり向いた。
「どういうこと?」




