1 緑の王国
潮騒のような葉擦れの音に、篠崎塔子はふと手をとめた。
ガランとした下足場に緑の風が吹き込んでくる。おろしたてのセーラーカラーがひるがえった。風がはらんだ、清々しい香気が鼻をつく。塔子は思わず目を閉じ、それを深く吸いこんだ。ふくよかな土のにおい、水気を含んだ若葉の香りが胸一杯にひろがる。
春の香りだ、と思った。
山あいの春を告げる、芽吹きの香りがする。
梅や桜ばかりが匂い立つのではないと、それは静かに教えてくれるようだ。
塔子は新鮮な驚きを感じながら目を開いた。澄んだ春の空気に、身体じゅうが浮き立つような気がした。
風の吹き込む玄関扉に目をやれば、その向こうには針葉樹林が広がっている。鬱蒼と茂る木々のその根元には、木漏れ日が降り注いでいた。風が吹くと枝葉はしなり、軽やかな響きを立てる。
塔子は暗がりの下足場で、それらをまぶしげに見つめた。みずみずしい風の吹くこの緑の世界は、美しいがまだ見慣れない。
ただ、遠いところに来てしまった、という実感がインクの染みのように広がり、胸苦しくなる。
塔子はかすかに顔をしかめ、視線を上げた。苦笑混じりの笑みが顔に浮かび、すぐに消える。
「緑の学園、か」
森に抱かれたこの学園の愛称を、複雑な想いを込めてつぶやいた。
ふと後ろから、にぎやかな声が聞こえてわれに返る。女子の一群がちょうど下足場に降りて来るところだった。
塔子はあわてて上靴をしまい、ローファーにつま先を通す。肩口で切りそろえた髪がさらさらと落ちるのを、うっとうしく梳きやった。
彼女たちはにぎやかだった。
周囲に塔子しかいないと見て、格好の良い同級生や先輩について、高い声で口々にさえずり、厳しい評価を下す。ほこりを立て乱暴に靴を放りながら、ひとりが鷹宮柊一の話を切り出すと、ますます熱のこもる議論が交わされた。
鷹宮柊一とは、入学式に新入生総代を務めた秀才だ。その涼やかな容姿から女子の視線を一身に集める青年だった。一年の間ではいまや、その名を知らぬ者はいない。
塔子もたびたび耳にしていたが、ことさら興味があるわけではなかった。聞き流して外へ出ようとすると、ひときわ大きな声で笑っていた少女のカバンがぶつかり、よろめく。
「あっ、ごめん……なさい」
カラフルなヘアゴムで髪を二つ結びにした少女だ。塔子と目が合うなり、浮かべていた笑みをさっと消し、声を落とした。塔子はあわててうつむき、いえ、と小さな声を発する。コンプレックスのつり目をかくすように、目を伏せた。
妙な間が空いた。不躾な視線を感じてじわじわと顔に血が集まる。しびれを切らした少女のひとりが、行こ、とつぶやくと、彼女達は足早に通りすぎていく。
「何なの、あれ」
「……ねぇ?」
去り際に、聞こえるか聞こえないかの音量で交わされた会話は、塔子の耳にしっかりと届いていた。塔子はつま先を見つめたまま、ゆっくりと息を吐き出す。
笑いさざめく少女達の声が、春の光のなかに遠く溶けていった。
「いやあ、こわいね、女って」
立ちつくす塔子の背後で、突然のんきな声が響いた。ぎょっとして振り返れば、下足場の上り口から、ひょっこりと顔を出した男子生徒の姿がある。
高い背に、長い手足、日に灼けた肌。乱れた短髪から、ひょうきんそうな瞳がのぞく。その見知った顔を見て取り、塔子はまたうつむいた。今度は恥ずかしくて顔を上げられなかった。
「普通、あんな大きな声で男の評価する? 俺あわてて隠れちゃったよ」
彼は笑い混じりに声を上げ、こちらへ歩いて来る。どんどん近づいて来るので思わず後ずさりすると、目の前にある靴箱から悠然とスニーカーを取り出した。
「俺達でも、流石にこんな大っぴらに話したりしないよ。こういうのはこっそりやるから面白いんじゃない。ちょっとは慎みを持ってほしいものだよね、篠崎さん? って、俺の名前覚えてる?」
そう言って顔をのぞきこむものだから、塔子は戸惑った。返答を待つ沈黙に視線を持ち上げる。興味津々といった様子でこちらを見つめる彼の目とぶつかる。あわてて視線を落としながら、塔子はつぶやいた。
「……坂本、くん」
「うわ、覚えててくれたんだ! なんかすげー嬉しい」
おおげさに驚く彼に、塔子は内心首をひねった。まだ入学式から一週間と経っていないとはいえ、となりの席の男子の名くらい覚えていないはずがない。
おまけに、坂本良司はその明るさで、クラスの中心的存在になりつつある人物だった。そんな人を、さすがに忘れたりはしないだろう。
かすかに眉をひそめると、それを良司は目ざとく見つけ言い訳した。
「あ、他意はないんだよ。篠崎さんって、周囲のことに興味ないのかなって、思ってたからさ」
「え」
「お嬢様育ちでしょ。違う?」
塔子は怪訝な顔した。いったいどうしてそんな結論になるのか。
首を振ると、ふうん、と気のない返事が返って来る。良司は小首をかしげ、汚れたスニーカーを履いた。
「まあいいや。じゃあ、行こうか」
「え、あの」
「帰るんじゃないの? 歓迎テスト終わるまで部活できないし」
そう言うと返答を聞かず外へと歩き出す。塔子はあせって学校に残る理由を考えたが、すぐには考えつかなかった。良司がこちらをふり返るので、押し出されるように前庭へ出る。
それでもと未練がましく振りかえり、校舎に目を走らせた。
大正時代に建てられたというその木造校舎は、高くそびえる鐘楼を持つ瀟洒な建物である。
外壁はクリーム色に塗られ、屋根付きの玄関ポーチの上に、春の陽がたっぷりと射し込む大きな光取り窓がある。その両翼に教室棟が続き、等間隔に配された格子窓からは、ひと気のない廊下の様子が垣間見えた。
塔子はそれらを見回しため息をついた。いくら観察しようと、そのどれもが今は何の役にも立ちそうにない。
「行くよー」
呆然とした塔子の背に、良司の呑気な声が響いた。
*
二人が帰る先は、他でもない、学生宿舎である。
私立松風館高等学校は、大正から続く伝統ある寄宿学校なのだ。
自主自律の精神を養うために、生徒は皆――たとえ近郊に住まいがある者でも――共同生活を送ることが義務付けられていた。
その寄宿舎は、山麓に広がる松風館の敷地のなかでも山頂側に位置しており、裾野にある一学年校舎までずいぶんと距離がある。だから新入生は、山道を延々と登って帰らねばならず、これがなかなかの苦行であった。
良司は機嫌良く、塔子はうろたえながら、校舎前の並木道を過ぎ、勾配のある狭い山道に入る。
赤松や樅が林立し、低木まで豊かに葉を広げるその場所は、まさに緑のトンネルといった風情だった。
入った途端、むせ返るほどの青葉の香りが立ち込める。身体中が澄み切り、新緑に染まってしまいそうな気がして、塔子は思わず手の平を見つめた。
病的なほど白いその手は染まることはなかったが、指の上で葉影が淡く揺れて儚い。
それにしても、と前を歩く良司が呟き、われに返る。
「歓迎テストなんて無ければいいのに。終わるまで部活に入部すらできないなんて最悪だよ。自主練もダメなんだぜ? 一日でもなまけるとタイムが落ちるってのに、事の重大さを分かってくれないんだから」
と首をふり愚痴をこぼす。戸惑いながらそっと見上げれば、ほがらかな茶の瞳とぶつかった。
「あ、言ってなかったよね。俺陸上やってるんだ。結構いい線までいくんだよ、これでも 」
良司は自慢気に口角を上げると、真新しい学ランの袖をまくり、筋張った腕を出して伸びをした。
「といっても、自慢できるのはそれしかないんだけどね。勉強は全然。ここに受かったのが不思議なくらい。篠崎さんって勉強できそうだよね。教えてもらおうかな」
てらいのない、清々しい笑みでこちらにふり向く。塔子は思わずまじまじと彼を見つめた。
松風館は県内でも有数の進学校だ。入試も推薦の類は一切行わず、筆記試験のみで選抜をおこなう厳格なスタイルを取り続けている。
だからこそ、各中学校で優等生といわれる生徒達が顔をそろえる訳だが、良司はどこか毛色がちがうように思われた。
最初から自分をさらけ出し、そのことにおびえがない。自分が人より劣ってはいやしないか、あるいは自分より優秀な存在がいやしないか探るような、優等生特有の卑屈さがない。
学力や魅力といった物差しでなく、自分自身を大らかに肯定して揺るがない雰囲気がある。
塔子は彼に痛いほどの羨しさを感じた。
「……俺、何か悪いこと言った?」
良司が静かに声をかけるので、われに返る。にらみつけるように、じっと見つめてしまっていたらしい。慌てて視線を落とし首を振る。
良司はその反応に一瞬いぶかしむような間を空けたが、それでもゆっくりと歩き出す。塔子もうつむきながら後に続いた。
踏みしめる石畳みの道には、木漏れ日と共に青い松葉が落ち、道のりを鮮やかに彩っている。
辺りに人影はなく、葉擦れの音と、鳥のさえずりだけが静かに響いていた。林全体が微睡みのなかにいるような、おだやな時が流れる。
その音を聞きながら、二人はゆっくりとゆるやかな勾配の坂を登る。息を上げる塔子と反対に、良司は軽い足取りで山道を進んでいく。たしかに健脚の持ち主であることは間違いないようだ、と彼を追いながら塔子は思った。
「そういえば」
「え?」
良司がこちらをちらりと見やる。
「篠崎さんって実家はどこなの」
都内の区を小さく呟くと、彼は大仰に驚いた。
「え。県内じゃないんだ。都心じゃん。何でわざわざこんな山奥に来たの?」
塔子は沈黙で返した。物言いたげに瞳は揺れたが、それだけで顔を落とす。
「あー、俺の場合はね」
気を遣って良司が言葉をつないだ。ぽりぽりと頬を掻く。
「三つ上の兄がいるんだけどさ。その兄が松風館に入って、すっごく楽しそうに過ごしてたから、いいなって思ったんだ。ここのこと、緑の王国って呼ぶんだぜ? 大げさだよな。でも気になって――その影響」
照れた笑みを顔に浮かべ、王国、と呟いた塔子にうなずく。それで、君は? と言外にうながされ、塔子は口を開きかけて閉じた。長いためらいのあと、伝えることをあきらめて、首をゆっくりと横にふる。
良司の顔は見ることが出来なかった。気まずい沈黙が降りる。
木漏れ日の射す林道に、暮れゆく日を告げる、冷涼な風が吹く。
あのさぁ、と良司は切り出した。道の真ん中に仁王立ちしたまま、塔子を見下ろす。
「もしかして、俺のこと嫌いなの」
塔子は戸惑って彼を見上げた。乱れた短髪を更にかき乱しながら、彼は自嘲気味に笑う。
「それならそうと早く言ってくれないかな。俺、必死に話そうとして馬鹿みたいじゃん。さっきからすごい目つきで睨むし、嫌そうに人の話聞いてばっかでさ」
「そんなこと……」
「違うの? 俺にはそう見えたけど。じゃあどうして? 」
「…………」
「言えないんだ。意味わかんないよ。じゃあ、何なの。自意識過剰なの?」
「違う」
うわずった声が出た。良司が当てずっぽうに放った言葉が胸をえぐる。否定したが図星であることは否めなかった。
良司は、わからない、という風に首をふる。
「口があるんだから、自分の言いたいことくらいはっきり言いなよ。そんな調子だから、友達が一人もいないんだよ」
ストレートな物言いだった。全身がカッと熱くなる。入学してからこちら、上手く友達をつくれていないのは事実だった。隣の席の彼が、それに気付かないわけがないのだ。
そんな自分を見てひそかに笑っていたのだろうか。それともあわれんで声をかけたのだろうか。どちらにしても居たたまれず、苦しくて、視界が徐々に潤んでいく。
「…………ごめん、なさい」
「べつに、そんな言葉が聞きたいんじゃないよ。そういうところ、改善したらって言ってるだけ。でも、もういいよ」
塔子が顔を上げると、良司が肩をすくめる。
彼の表情のどこにも、後ろ暗いものは見当たらなかった。本心からの発言であり、しかも良かれと思って言っているところがなお悪かった。
素直であることは、残酷なことだと、初めて思う。陰口を叩かれるより、痛い。
塔子はうつむいた。
それが羞恥なのか、怒りなのか、悲しみなのか、自分でもよくわからない。踵を返す音がして、良司がここから去ろうとするのが分かる。
思わず顔を上げて、彼の背を見た。行ってしまうのだ――。そう思うと何故かたまらなくなって、追い立てられるように、気づけば言葉を発していた。
「…………って」
「え?」
良司が、声に振り返る。
「待って」
枝葉の揺れるさざめきが聞こえ、戸惑う彼の気配を感じた。
「り、理由もなく謝ったわけじゃないの……。不快にさせたなら、謝りたかった」
膝が笑いそうになるのをこらえて、良司の目を見つめる。彼の反応を待ったが、良司は怪訝な顔をして見つめるばかりだ。塔子は真っ赤になりながら、必死に声を押し出した。
「……わたしの、悪いところ。――暗くて、何考えているかわからなくて、誤解されやすいところ。自分でも、よくわかっている。な、直そうとしているの、これでも。……直すために、ここへ来たの。親元を離れて、ひとりで……一からやり直そうって、思ったの」
遠巻きに見つめるクラスメイト。揶揄される自分。言葉が意味を成さない、空虚な世界。思い出したくもない記憶が頭をかすめる。塔子は目をギュッとつむった。
「でも簡単にはうまくいかなくて。はなしかけようにも、声が出なくて。……自分のこと伝えられなくて」
唇を噛んでこらえ、声を押し出す。
「……失敗、してばかり。今日だってそう。坂本くんに嫌な思いさせたけど」
「……」
息を呑む彼をゆっくりと見上げる。視線が交わされるとどうしようもなくなって、手が、声が震える。それでも止まらなかった。
「でも……こんなだけど。それでもあがいているの。変わろうって、努力しているの。――今はなにも結果を出せていないけれど。改善、する気持ちだけはあるから。それだけは……わかってほしくて」
無自覚であることと、そうでないことはまったく違うと思うから、ただそれだけのために言葉を尽くす。
こんなにはっきりと物を言ったのは初めてで、自分のことながら戸惑いが広がる。なぜ言わずにはいられなかったのだろうか。良司はどう思ったのだろうか。われに返ると恥ずかしくてたまらなくなり、顔が上げられない。
妙な間があいた。全身から汗が噴き出す。
「そ、それだけだから。じゃあ」
沈黙に耐えられず、塔子はもと来た道を戻ろうとふり返った。帰り道を逆行することになるが、いまはもうどうでもいい。逃げた方がましだった。羞恥で真っ赤に頬を染め、足早に立ち去ろうとした塔子の背に、静かな声がかけられた。
「待って」
ぴくりと足が止まる。彼はもう一度、待って、と言った。
これではさっきの再現だ。塔子は破裂しそうな心音を聞きながらそう思った。恐る恐る振り返れば、まじめな顔つきの良司と目が合う。視線が絡み、それだけで塔子は硬直した。
「あのさ」
良司が呟く。不安がつのり、塔子は唇を噛んだ。恐れと警戒をこめた視線に根負けしたのか、彼は後頭部をがりがりと掻く。
「あのさ。うまく言えないんだけど」
「……」
「ごめん」
「……え?」
「がんばっている人に対して、酷い言い方だったよな」
「……」
「おれ、思ったことはっきり言うから、時々とんでもないヘマするんだ。気をつけているつもりなんだけど――特に女の子には注意して喋ってるんだけど、さっきみたいにイラっときたらすぐ地が出る。篠崎さんを詳しく知りもしないのにね」
何も言えずにいる塔子に、良司は潔く頭を下げた。
「ごめん――無神経だった」
塔子は目を見開いた。
言葉も、声も、態度も、全てが真剣そのもので、誠実に許しを乞うているのがわかる。
いつまでも頭を下げる彼に塔子は焦ったが、見ているうちにこみあげるものがあった。気づけば頬に熱い雫がすべり落ちている。混乱しながらそれを触り、何度も頬をぬぐった。
とめどなくあふれてくるのが不思議だった。
異変を感じて、良司が顔を上げる。塔子の顔を見てぎょっと目を見開いた。
「…………って、泣いてるの!」
「……ごめん」
「ごめんは、おれだから!」
予想以上にオロオロとする彼に、塔子は何度も首をふった。
身体のこわばりが解け、呼吸がふいに楽になる。思ったよりもずっと緊張していたのだと、はじめて気が付いた。
良司が申し訳なさそうにこちらを見やる。どうにかして涙を止めようとするけれど、うまくいかないのがもどかしかった。
目元を押さえながら、ゆっくりと息をする。緑の空気が肺に広がる。
「……ありがとう」
心配そうな彼の瞳に、泣き笑いの自分の顔が映りこんだ。