灯火
鬼の纏う黒い衣が風を受けて翻る。上から下まで黒で染められた姿の中で、唯一の紅が嗤った。
距離は決して近くないのに、囁くような声が頭に響く。
――さあ、今度はどうする?
あのとき、ためらわなければ。
深琴は何度も何度もそう思った。
あのとき、たった一度冷酷になればよかった。
一度だけ、心を殺してしまえばよかった。
けれど、出来なかった。そして、それは今も出来ない。
この国には異形がいる。人ではないモノ。それは時に、人を攫い、人を傷つけ、人を脅かす存在となる。そんな異形から人を守り、異形を退治するのが巫女の役目。
深琴もそれを胸に巫女として生きてきた。
妖を祓い、滅し、人を守ること。
しかし、深琴が妖を殺すことはなかった。
それは決して力が弱いためではない。むしろ、その力は当代の巫女の中でも五指に入ると言われている。
それゆえに、深琴は妖を殺さない。強い力をもって、妖を滅し続ければ、やがてその力は深琴へ返るだろう、と師匠が言ったからだ。
また、殺す以外で異形から人を守る術があるのならそれを選ぶ、と言ったのは深琴自身だ。
そうして、多くの妖を封印し続けてきた。力があるのだから、その封印にも隙はなく、これまで破られたことは一度もなかった。
そう、あの鬼に出会うまでは。
恐ろしい妖がいる、という噂を聞いた。
それを深琴に伝えたおよそ害のない小さな異形はずっと震えていた。
あれは、恐ろしい。何をしたというわけじゃない。ただ、その気になれば決してためらわず何をもしてしまうから恐ろしい。巫女、助けて。
集まって来た異形たちは口々にそう告げた。
縮こまる異形たちを哀れに思い、深琴はその妖の元へと向かった。
今思えば、そこからが間違いだったのだろう。何もしないのなら放っておくべきだった。――けれど。
人里から遠く離れた僻地にいた鬼は燈夜といった。黒を纏った、美しい鬼。確かに異形たちが言うように、黒の中に目立つ紅の瞳は何をしでかすか分からない危険な色を帯びていた。
けれど、深琴はその瞳から視線を逸らすことが出来なかった。
静寂を破られたのを不快に思ったのか、鬼は深琴と共にいた異形を簡単に傷つけた。
それを見た瞬間、我に返った深琴の瞳に灯がともった。何かに傷をつけたら、もうそれは祓いの対象となる。
深琴の術を受け、鬼は初めて彼女を見た。
危険な紅が自分を見つめるのに、ざわりと背筋が震えた。
その感覚を薙ぎ払うように、次々と術を放った。それを相手は容易くかわす。
逆に深琴ばかりが攻撃を受け、気付けばぼろぼろになっていた。正面に立つ鬼ははじめと変わらない、涼しい顔をしていた。
「…もう終わりか?」
そう言って深琴を見下ろす。
落ちてしまいそうな意識の中で、着いてきた異形たちの声が聞こえる。巫女、と自分を呼びながら泣いている。
ここに来たのは、怯えているあの子たちを助けるためだった。
そして、鬼と対峙して気がついた。
この鬼は、危険だ。何もしないけれど、気まぐれで何かを傷つける。それも大きな傷を。それだけの力がある。このままにしておくわけにはいかない。
ふらふらとした足取りで今にも倒れそうな深琴に飽きたのか、鬼は背を向けた。
深琴への興味を一切無くしたような態度が悔しかった。気に入らなかった。
「逃がさない…!」
残る力を振り絞り、もう一度術を放つ。
まさか、まだ戦うとは思っていなかったのだろう。攻撃をまともに受けた鬼は深琴を見て、何故か笑った。
そして、鬼の封印は成功した。そのはずだった。
時をおいて、美しい鬼は自らの力で封印を破り、再び深琴の前に現れた。愕然とする彼女を見て鬼は嬉しそうに笑う。
容易く追いつめられ、至近距離で見た鬼の紅い瞳に映る自分の姿に茫然とした。
なんて、表情をしているんだろう。これでは、まるで――。
深琴の胸に渦巻いていた感情を、おそらく鬼も読み取ったのだろう。鬼はゆっくりと、彼女を更なる絶望へ突き落す言葉を囁いた。
深琴自身も気付いていた。
あの瞳に魅入られてしまったことも。あのとき鬼が笑ったことも、施した封印が破られたことも。――あれから何度対峙しても、何を傷つけられても、あの鬼を殺せないことも。
その理由に気付いていて、知らないふりをしている。
あの鬼もまた、全てを知っている。知っていて、深琴に執着し、追いつめる。
けれどもうどうしたらいいのか分からないのだ。
分からないまま、それでも止まれず、深琴は目の前の妖に向かって術を繰り出す。
――さあ、今度はどうする?
鬼の問いかけに、今度こそ、終わりにすることを願いながら。
――今度こそ、あのひとの手で終わらせられることを祈りながら。
あるとき、異形を殺さない巫女がいるのだと風の噂で聞いた。
どんなに人を脅かす妖であろうと、殺すのではなく封じてしまうのだと。
愚かなことだ、と思った。
異形の力が強ければ強いほど、永遠に続く封印を施すのは難しくなる。半端な封印を施すよりも、完全に滅してしまう方が容易いこともある。
その巫女にどれほどの力があるかは知らないが、そのうち封印をといた妖にあっさり殺されてしまうだろう。噂を聞いたときはそんな風に考えていた。
けれど、巫女は何者にも殺されず、燈夜と出会った。
巫女は、鬼にも殺されることはなかった。いつまでも立ち続けた。
何時間も対峙して、巫女はぼろぼろになっていた。幾多の攻撃を受けて、裂かれた衣と肌。鮮やかな赤に染められて、それでも尚、彼女の心は折れていなかった。
「逃がさない…!」
喘ぐような声で、巫女は言った。
そのときの射抜くような眼差しの美しさ。それが忘れられない。
あのときから、深琴に心を奪われたのだ。
真っ赤になって、それでも捨て身で挑んだ深琴は、やはり燈夜を殺さなかった。自らの名をもって封じる儀式で、その名前を知った。封印を施され、暗闇で眠る間、何度もその名を呼んだ。あの激情を秘めた眼差しを忘れないために。
そしてあるとき、封印が弱まり、己の力で破れることに気がついた。
深琴の封印は完璧だった。それが何故、破ることが出来たのか。
その答えは、再び深琴と対峙したときに分かった。
封印を解かれたのは本当に初めてだったのだろう。茫然として、燈夜を見つめた。
前回と同じように式神を放つも、心の揺れは隠せなかった。式神は容易く燈夜に倒された。
ようやく我に返った深琴の術は、どうやっても鬼に届かない。
膝をついた彼女へ近づき、顎を掴んで上向かせる。そこでもう一度、燈夜の心はこの巫女に囚われた。
殺さなければ。殺したくない。
深琴の瞳に揺れる2つの感情を、燈夜は正確に読み取った。こみ上げる笑みを抑えることが出来なかった。深琴の感情。その後者は、恋情から来たものに違いなかった。
あのとき、燈夜が深琴に心を奪われたように、深琴もまた燈夜に囚われていた。
だから、深琴の封印は破られた。心の奥底でも、彼女が封印した鬼のことを想ってしまったから。
「深琴」
心の内で何度も呼んだ名を、初めて言葉にのせる。
「お前に俺は殺せない」
そのときの絶望に染まった瞳。それは、初めて会ったときよりも美しかった。
――そ、れでも、貴方をそのままには絶対に、しない!
感情を振り切るように叫んだ彼女に燈夜はもう一度封印された。
しかし、結果はまた同じ。燈夜は封印を解いた。
3度目の邂逅は、彼女からやって来た。正確には、燈夜がおびき寄せた。
とある村で怪異を起こせば、それを解決しに必ず深琴はやってくる。
巫女として真面目に鍛錬をしているのだろう、戦う度に強くなっていた。1度目のときのように燈夜の方が本気で追いつめられたのだ。それでも、燈夜を殺せない。とどめを刺そうと思えば刺せる、その寸前で深琴の手は必ず止まった。
このとき、燈夜は村人を殺すまではしなかったもののぼろぼろに傷つけた。深琴は決してそれを許さないだろう。
人を傷つけた鬼。このままにしておけば必ずまた誰かを傷つける妖。
それなのに、殺すことが出来ない。
その泣きそうな表情に、ますます愛しさが募る。愛しい巫女の頬に触れ、きっと自分は微笑んでいただろう。
そして、燈夜はまた封印された。
これで果たして何度目になるだろう。
式神は既に地に伏している。衣を風に遊ばせている鬼を深琴は真っ直ぐに見つめている。
その瞳には、絶望と、しかし初めて会ったときと変わらない激情が潜んでいる。いや、変わらないどころかその激情はむしろ強くなっている。
深琴は燈夜を殺さない。殺せない。しかし、その思いを断ち切るかのように燈夜への術は苛烈さを増していた。
前回の攻防では、封印を施され、時間を止められることがなければ、そのまま死んでいたかもしれなかった。
燈夜は笑った。
深琴の中で膨れていく燈夜への憎しみはそのまま恋情に変わる。それを感じるのが心地よい。恋情に比例する絶望を目の当たりにして、ますます燈夜は深琴に恋い焦がれる。
「深琴」
決して自分と相容れることはないだろう存在。愛しい巫女。
まるで愛を囁くように。
「さあ、今度はどうする…?」
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