トゥオネラの白鳥
J・G・クライスト………ジーザス・クライストと私が憶えてた少年と五年後、モナコで
再会したけど、彼は昔の面影はなかった。
見かける度に、酔っていた。
ビーチでブロンド美人とバカ騒ぎして、昼からほとんど泥酔していた。
現役のプロテニスプレイヤーが、いくらバカンスとは言っても、毎日、あんなに飲んで
大丈夫なのかしら………?
彼には昔のはにかむように笑う少年の面影はなくて、どこか捨てばちな印象を受けた。
ある日、ラウンジでピアノを弾いている私に彼がリクエストしてきた。
珍しく酔ってなかった。
「これは………無理よ。この場所ではひけないわ。」
「どうしても聴きたいんだ。あなたの演奏で………。」
彼の持ってきたメモには、このラウンジににつかわしくない、暗く、沈鬱な曲ばかり書いてあった。
「家に招待するわ。夕食をすませてから、ガールフレンドといらっしゃい。弾いてあげるわ。
ただし、シラフできたならね。」
彼があまりに真剣で、曲に負けないほど暗い顔をしてたので、つい言ってしまった。
いつもはそんな親切なことはしない。
数年前は、明るく幸せそうに笑っていた少年は
私が見るかぎり、幸せそうには見えなくなってた。
たくさんの人に囲まれて、笑ってはいたけれど………
幸せなら、どうして毎日、昼から泥酔するほど飲むのだろう?
指定した夜の時間に、彼は一人で来た。
モナコ王室御用達のショコラと、白いバラ…ロイヤルハイネスの花束を持って。
「ありがとう。お花はいただくわ。でも、ショコラは持って帰って。食べないから。」
「ショコラ………嫌いだった?」
「ううん。ブロンデルのしか、口に合わないの。」
ショコラを断られて、彼は少ししょげていたが、すぐに笑顔になった。
「すぐに弾いてあげるわ。」
と、私が言ったから………。
二階の音楽室に通して、彼のリクエストの一番上にある「トゥオネラの白鳥」を弾く。
トゥオネラ………黄泉の国の白鳥。
もともとは交響曲だけど、ピアノ曲に編曲した楽譜を持っていた。
悲痛で美しい………彼の故郷の北欧の国のシベリウスの曲。
暗い鈍色の………北欧の空のようにテンポは重く、旋律はせつない。
毎日、彼が泥酔してる理由がなんとなく、わかってしまう。
誰か………愛する人を失ったのだ。
黄泉の国に流れる河に浮かんでいる白鳥は………一体誰なんだろう?
同じ曲の響きの中にいて、今、私たちは音楽でつながれている。
彼のひどい悲しみが、伝わる。
八分以上の長い曲を終えた。
彼が拍手をするのを制して、続けて次の曲を弾く。
ラフマニノフの前奏曲「鐘」
これも暗く重く、絶望を音にしたような曲。
絶望的な運命の宣告に恐れ、逃げ惑う人々。
特定のパッサージュ(音符)には、スフォルツァンド(他の音を消してしまう最強の音を示す)が付く。
圧倒的な運命の力を表すかのように………。
ジーザス・クライスト………まだ若いあなたが、運命にうちひしがれているというの?
一体、何があったの?
私の知ってる少年は、希望に満ちて、それは幸せそうだったというのに………。
最後の曲はベートーヴェンの「月光」
湖上を照らす月。はるか遠くからの嘆きを、せつせつと訴える主題。
ところどころに明るいメロディが現れるが、かすかな望みのように、それもはかなく崩れ落ちる。
暗い水面の揺らぎのような重低音が、絶望の闇を暗示している。
普通はこんな重い曲をたてつづけに弾きはしない。
でも、私は彼の悲しみにとりつかれたように弾く。
すべての曲を弾き終わると、疲れて立ち上がれない。
手をのばして、小さなティーテーブルの上に置いておいたショコラをかじる。
バイオリンでも、ピアノでも、演奏はとても体力を消耗する。
人によっては、演奏前にお砂糖をひとつかみ、食べる人もいる。
私はブロンデルのショコラ。
演奏後、胃が受けつけるのが、これだけだから………。
ジーザスが、ポツリと言った。
「僕のママンが死んだ。スキルスだった。半年間、闘病して………亡くなった。
僕の家は裕福だったから、ママンを助けるために、お金はいくらでも用意できた。
でも、救えなかった。………………僕は何もできなかった。たくさん、延命治療をして
ママンの苦しみを、いたずらに引き延ばしただけだった。………………ママンが死んで
僕も死んだ。………僕の愛も幸福も何もかも死んだ。テニスで勝って、チャンピオンになったって
優勝カップを持って帰っても、喜んでくれるママンがいない。もう闘ったって、意味はないんだ。
………テニスはやめることにしたんだ。」
青ざめて死人のような顔色の彼。
「そう………お気の毒に………。」
私はそれしか言えなかった。
愛する人の死………。その悲しみを、どんな言葉で慰められるというんだろう。
「今日は、僕のためにコンサートをありがとう。やっぱり思ったとおり、素晴らしかったよ。
ラウンジなんかで弾いてるのが、もったいないよ。」
「私はあそこで弾くのが好きなのよ。あそこで、幸せな人たちのBGMを奏でるのが好きなの。
あなたのママンも幸せそうな人だったわ。………私は憶えてる。あなたと同じ、金色の髪で
青い瞳の美しい人で、笑うとエクボができたわね。優しそうな人だった。
お別れは早く訪れたけど、こんなにも、あなたに愛されて逝ったのよ。きっと、天国でも天使
たちに愛されて、幸せに暮らしてるわ………。」
「うん………そうだね。僕も………そう思うよ。」
全然、そうは思ってない言い方だった。
無表情なその顔は………相変わらず、死人のようだった。
あの明るくて人なつこい少年の笑顔は、もう見ることができないんだろうか………。
ママンがいない。
それが、これほどの悲しみなら、遠い日本にいる私の息子たちは………。
胸がしめつけられた。




