五年後のモンテカルロで
私は、相変わらず庭のバラの世話と、ホテルの仕事をちょっぴり。
週に一度は、愛車のフェラーリ・ディーノを飛ばして、ミラノまで行き、プロのピアニストのプライベートレッスンを受けている。
夏が終わったら、パリのエコールノルマル学院の高等過程に編入して、本格的にピアノを学ぶことが決まっていた。
ラウンジの仕事が終わると、ビーチクラブの緑と白のストライプのテントの中で
ビーチチェアを倒して、ピナコラーダを飲みながら、本を読む日々。
その日もそうしてたら、不意に読んでいる本の上に影が落ちた。
見上げると、ゆるくウェーブして、肩にかかるブロンドに、ブルーアイズのセクシーな青年がのぞきこん
でいる。
鍛え上げられた、たくましい筋肉。
微笑するだけで、女をモノにする典型的なカサノヴァ(女たらし)タイプだ。
「僕のこと、憶えてる?マドモアゼル。」
そのセリフも聞き飽きた。この国には美しいカサノヴァは、たくさんいるから………。
いつものように、フランス語がわからない振りをして、追い払う。
「フランス語、わからないのよ。」
日本語で、そうそっけなく言って、そして、また本に目をやって、二度とそちらを見ない。………で、たいていあきらめる。
でも、しつこい。
「ねえ、マドモアゼル、僕だよ!本当に憶えてないの?大人になったから、ファンサイユを申し込みに来たのに、つれないなあ………。」
その言葉で、本から目を上げる。
青年は、あの時の少年だった。
ジーザス・クライスト………?本名は………忘れた。
いつだったか、全仏オープンで、優勝した男子の選手がクライストって名前だったけど………
あまり確かめもしなかった。
J・G・クライスト………思い出した。彼だ。
私は起き上がって、慌てて言った。
「すっかり、立派な青年になってしまったから、わからなかったわ!また会えるなんて、うれしい!プロ入りしたのよね。おめでとう!ご両親は、お元気?」
ひととおりの社交辞令を言うと、もう話すことはなかった。
私が黙ると、代わりに彼が話す。
バカンスで、ガールフレンドとモナコに来ていること。
まだ、私があのラウンジで、ピアノを演奏していたのが、うれしくて声をかけたこと。
今は、父親のスポーツクラブの経営を手伝っていて、それなりの成功をしていること………。
そして、あなたは、変わってない。相変わらず、きれいだ………と言ってくれた。
「ありがとう。バカンスを楽しんでね!グランカジノは、もう行った?ガールフレンドのお買い物は、見張ってないと、大変なことになるわよ!」
………と、私はありきたりな…観光客へのアドバイスを口にした。
じゃあ、邪魔したね………と、彼は手をふってラウンジの方へ去って行った。
若くして、成功している美しい青年………女達が放っとかないだろう。
それとも、彼の方が首ったけなのかしら………?それなら、ちょっと妬けるわね。
テニスのことは何も言ってなかった。
スポーツクラブの経営の方が本業なのかもしれない。
彼の言ったスポーツクラブの名前は、欧州に、たくさんの支店持つ有名なスポーツクラブだったから………。
ビーチで夕日を見ると、私はモゲネッティ地区の家に帰る。
広大な敷地を持つ日本の実家とは、比べようもない小さな庭がついた家。
それでも、庭付きの邸宅に住めるだけ、良かった。
皇居の二倍ほどの大きさのモナコ公国では、たいていがマンション住まいで、庭がある家に住めるのは、かなり幸運だった。
私一人で、世話をするには十分な大きさのバラ園と、高台からの素晴らしい眺め。
地中海の港見下ろすこの家は、とても高価な買い物だった。
私が出かけている間に、通いのメイドのアンナがお掃除をして、夕食を作っておいてくれる。
彼女には不満が多々あるけど、料理の腕がいいのでクビにできない。
プロヴァンス地方のあたたかい家庭料理は、捨てがたかった。
一人で、夕食を温めて食べて、紅茶に庭のバラで作ったジャムを入れて飲む。
そして、二階の完全防音の音楽室で、好きなだけピアノを弾いて、シャワーを浴びて
ノリのきいたシーツにくるまって、眠る。
見ててくれた?あなた………私は今日も、頑張って生き延びたわ。




