上九一色村
「今…なんて…?」
「一歳の双子のあなた達と本当の父親と、一緒に暮らしてたわ。貧しかったけど、とても、幸せだったわ。私は夜、ジャズクラブで、ピアノ弾きをしてたから、あなた達をお風呂に入れたり、寝かしつけたりは、あの人がやってくれてたわ。おぼえてないでしょうけど…。」
「……ずっと、捨てられたと思ってた。あなた達は、兄がいるから、私はいらないんだと思って…。」
「そんなことないわ。養子に出したのは、夫が勝手にしたことよ。私達は本当に一緒に暮らしてたの。
わずか半年の間だったけれど。見つかって、連れ戻されたの。夫は、恋人を誘拐罪で訴えたわ。
その訴えを、取り下げてもらうために、わたしは財閥の権限を夫に全て譲って、実家を去ったのよ。
その後、すぐに、あなたは、また養子に出されたの。守りたかったけど、守りきれなかったこと、謝りたかった。
ずっと、後ろめたくて、会えなかった。でも、今は、許してもらえなくてもいい。あなたを愛してること、伝えに来たのよ。」
「………おぼえてますよ。お母さん。あなたの匂いだと思うけど、白粉と香水とお酒の匂い。ジャズクラブで、働いてたって聞いて、思い出しましたよ。
養い親の母は、香水をつける人ではなかったのに、どうして、香水の匂いの胸に抱かれてた記憶があるのか不思議だった。
許してもらうのは、僕の方だ。捨てられたって、思いこんで、正直に言うと、あなたを恨んでましたよ。」
......*......*......*......*......*
濃い化粧。安い香水。バーボンとウイスキーの匂い。
ペラペラした化繊のドレスは、足も胸元も露わで、ひどい格好だった。
ジャズなんて、ろくに聞いたこともないくせに、弾けるって嘘をついて、雇ってもらった、横浜のジャズクラブ。
来る客は、下士官以下の米兵ばかり。当時、飲む場所も、黒人と白人では違ってた。
そして将校たちと、下士官以下の兵たちでは、はっきりと区別されていた。高級将校に顔を知られている私も、下士官以下の米兵の出入りする所では、新顔だった。だから、選んだ職場だった。
黒人の下士官以下の米兵のたまり場。
そこで、私は、ジャズをおぼえた。ラジオで流れる曲を聞いて、そのままそっくりコピーして、弾いていた。セロニアス・モンクにビル・エヴァンスにキース・ジャレット……etc。
そのうち、ピアノの曲じゃなくても、アレンジして弾ける様になっていた。
黒くて、南部訛りの英語を話す客たちに、怖気づいて、ピアニストがいつかなかった、そのジャズクラブ。初めの頃は、野次と卑猥な言葉ばかり、浴びせかけられた。
その上、演奏中に触られて、キレた私は、彼らと同じ南部訛りで、男をののしった。
「さわんじゃねえ!ぶっ殺されてえのか?このXXX野郎!大和撫子をなめんじゃねえ!」
「ソ…ソーリー。」
黒い肌の大柄の男はあっさりと謝った。以後、演奏中に邪魔しようとする者を、止めてくれるようになった。
私は、生活がかかってた。それに、異人は小さい頃から慣れてる。
ひどい言葉遣いだと思ってたスラングにも慣れてくると、みんな優しかった。
酔っ払って、私に絡む客は、常連客がおっぱらってくれる。
しつこく口説く客に、夫も子供たちもいるのよ、と言ったら、それ以来、呼び名が「マム」だ。多分、私に、変な気を起こさないようにと、牽制する気遣いも、ふくまれてた。
「マム、あれを弾いてくれよ。マイルス・デイビスのフラメンコ・スケッチ…。」
自分より年上の息子たちに囲まれて、毎日、楽しかった。
新しくて、心地いい音楽。オンボロだけど、我が家に帰れば、あの人がいて、息子たちがいて…。
でも、その生活は唐突に、終わりを告げた。
白人は、絶対に、入って来ないその店に、進駐軍の総司令官が、現れてこう言った。
「探しましたよ。姫君家に帰るのです。」
......*......*......*......*......*......*
「わかってくれて、うれしいわ。本当のお父さまそっくりなのよ、あなたは。養い親のあの方を思う気持ちはわかるけど、私と一緒に脱出してくれない?ここは、危険な匂いがするわ。」
「確かに、臭いけど。」
「違うわ。すごくとんでもない危険なことを、しそうな予感がするのよ。お願い。一緒に逃げて。」
「無理だ。お母さん。四カ所の検問所は抜けられない。たとえ、抜けたとしても、僕は父を見捨てられない。」
「……わかったわ。今日のところは、帰るわ。」
私は、案内役の男について、帰った。でも、こんなことで、私……あきらめないから。
最終回まで、あと少し、おつきあいください。