夏の終わりの嵐
カッポーニ宮から、コスタ・ディ・サン・ジョルジョの狭くて急な坂道を登りきる。
フィレンツェ郊外の丘の上に建つサンタ・マリア要塞は、その素晴らしいパノラマゆえに、美しい眺め《ベルヴェデーレ》要塞と言われている。
入り口のルネッサンス門には、メディチ家の巨大な紋章。
中庭に通じる扉を開けると、彼方にオレンジ色のレンガ造りの花のドゥオーモの丸い屋根に、ジョットの鐘楼。
東側には、オリーブ畑と糸杉の濃い緑が広がっている。
「ね、きれいでしょう。ここから眺めるフィレンツェが、一番好きよ。あなたにも、見せたかったの。」
「本当だ………。すごく…フィレンツェだ。」
すごく、フィレンツェ…。ジーザスの言い回しがおかしくて、笑ってしまう。
城塞の周りは、城壁がぐるりと一周していて、その上を歩くことができる。
「城壁の上の古い砲台小屋があるところからの、眺めもきれいよ。行ってみましょうよ。」
「うん…。でも、その前に、君、僕に言うこと…ない?」
「?」
私を、ずっとあなた、と呼んでたジーザスが“君”って、呼んだ。
「あるはずだよ………。」
じっと見つめられると、吸い込まれそうなジーザスの青い瞳。
この旅が終われば、もう見つめられることも…、声を聞くことも………。
私は、目をそらすこともしないで、ペラペラと、しゃべる。
決定的なことは、たとえ、数秒先でもいい。後にしたいの。
「一体何かしら?私があなたを愛してるってこと、今日はまだ言ってなかった?それとも、この後、スカラー通りのサンタ・マリア・ノベッラって薬局で、アーモンド石鹸を買って、あなたには、ヴィスコンティと同じ香水をプレゼントしたいなって思ってること?」
「ごまかさないで。君が自分から話して欲しいんだ。」
「………隠してることが多すぎて、何から話したらいいか、わからないわ。」
ジーザスの聞きたいことは、わかってる。知ってしまったんだ。
「じゃあ、僕が言うよ。パリに引っ越すんだって?なんとかっていう…コンセルヴァトワールじゃない音楽院に、行くんだろ?」
「コンセルヴァトワールじゃない音楽院で、悪かったわね。あそこは年齢制限があるのよ。私みたいに年くった学生は、入れないのよ!」
「僕に、何も言わないで行っちゃうつもりだったんだろ。アンナが、もう自分はお払い箱だから、僕に会えなくなるって、嘆いてたよ。」
「嘘だわ!私は彼女に一緒にパリに来てって頼んだのよ。でも、プロヴァンスより、いいところなんかないから、お断りだって、言われたんだから。」
「アンナが教えてくれなかったら、ストックホルムから、君のいないモナコに来て、すっぽかされるところだったよ。」
「………帰ればきっと、あなたは忙しくなるだろうし、私のことも思い出さなくなるだろうとおもったのよ。頃合いをみて、手紙を書くつもりだったわ。お別れの手紙を…。」
「僕は…君が幸せなら、いつだって身をひくつもりだった。でも、そうじゃないじゃないか!君には、僕が必要だよ。………君は夫に愛されてなんかない、忘れられた奥方だ!」
西から強い風が吹いて来て、私の髪をめちゃくちゃにする。
空が曇って、急に暗くなる。
金色の亀裂が見えて、しばらくしてから、雷の音が聞こえる。
夏の終わりの嵐だわ。
めちゃくちゃになった髪を、おさえながら、私は少し、ふてくされたように言う。瞳孔がすぼまり、自分に対して、残忍な気持ちになってる。
「ひどいこと、言うのね。その通りだけど、そんなの不幸でもなんでもないわ。夫なんて、少しも愛してないもの。私が不幸だとしたら、私には子供がいる、でも会えない。恋人は…子供の父親は死んだわ。もう、会えない。愛のない結婚からは、自由になれないってことだわ!」
雷の音が、近づいてきて、私は大きな声になる。ほとんど、怒鳴って言う。
「あなたを、いくら好きでも、未来なんかないってことよ!」
空は真っ暗になり、大粒の雨が降ってきて、私たちの前からフィレンツェの美しい景色は消えた。
私は、目の前の愛人の顔しか見えない。それすらも、涙で曇る。
「ピアノを弾くためだけに、生きてるのよ。でも、時折、死に魅入られる。自殺未遂もしたわ。バラ色の人生なんて、嘘よ。あなたに、そう思って欲しかった。そうじゃないって、死んでも知られたくなかったわ。それから、ついでに教えてあげる。
………あなたを失うくらいなら、心臓に、蛇みたいに絡みついて、殺してしまいたいって思ってるわよ!………
さあ、もう全部言ったわ。もう、終りよ。空港まで送って行くわ。ストックホルムにお帰りなさい。」
「どうしてさ?今日は僕たちヴィラ・サンミケーレに泊まるんだろ?ストックホルムに帰るのは、明日さ。」
「バカね。年上の女に少しは情けをかけてちょうだい。こんなに手の内をさらして、まだ、あなたと一緒にいれるほど………強くないのよ。ヴィラ・サンミケーレには、私一人で、泊まるわ。そして、明日、一人でモナコに帰るわ。」
「君は、今、僕に熱烈な愛の告白したってのに、僕を追い出すってわけ?君の人生から?わけがわからな
いよ!予定通り、ヴィラ・サンミケーレに行くよ。でなきゃ、今、ここで、あなたを辱めるよ。」
「何考えてるのよ!変態!………あなたを解放してあげようと、してるんじゃないの。私は、あなたの苦手な、独占欲の強い、ヤキモチやきの女なのよ。ずっと、大人のふりしてただけ。子供も産んでるし、結婚もしてる。………そんな女とつきあうのは、あなたのためには、ならないわ。私を少しは憐れむ気持ちがあるなら、このまま立ち去ってちょうだい。お願いよ!」
「……僕のため?嘘だ!君が臆病なだけだ!年の離れた僕に夢中だから、僕に心変わりなんかされて、失うのが怖いんだ!だから、自分から捨てちまおうってしてるだけだよ!」
「………そうよ。そういうの耐えられないわ。みじめだもの。」
「本当に勝手だな。君はもう、僕の心臓に絡みついてる。追い出そうったって、そうはいくもんか!君の結婚がバラ色じゃないってことぐらい、なんだってんだよ!夏中、僕はいたのに、君のご主人は、たったの一度も帰ってこなかったし、電話もなかった。アンナなんか、君を自分と同じ未亡人だと、思い込んでたよ。
僕たちがつきあうには、好都合なだけじゃないか!君の恋人が死んだ?それすらも僕には、福音だよ。生きてたら、君とつきあえなかった。」
「もう、それ以上言わないで。つらくなるだけよ。私の気持ちは変わらない。だまらないと、ハラキリして、死ぬわよ!ストックホルムに帰って!」
「Non予定通り、ヴィラ・サンミケーレに行く。君と一緒に。そして、明日はストックホルムに帰るけど、また君に会いに来る。今度はパリで会おう。蛇みたいな君と一緒にいたいんだ。ストックホルムから、お土産に尾を噛んだ蛇の金の腕輪を買ってくるよ。僕も、おそろいのを買おうっと。」
「ふざけないで!サンミケーレには、行かない。空港に送って行くわ!」
「ねえ、僕はさっき、警告したよね。あれ………冗談だと思ってる?君は、ひどいよ。黙って消えるつもりだったんだろ?僕が怒ってないと思ってる?今、この場で、君をひどい目にあわせようかって、思ってる………。
嵐のせいで、誰もいない。雨の中で犯されたいの?そういうのが、好み?」
ジーザスの手がのびてきて、私の喉にからみつく。そして、ゆっくりと私の首を締める。
「死に魅入られてるって?君が魅入られてるのは、この僕。そうでなきゃ、許さない。蛇は、僕の方さ。どうしても、君が別れるっていうなら、このままここで、殺してあげてもいい……。」
ジーザスが、私の首を締める力はゆっくりと強くなって
私は彼によって、命のくびきから逃れられる瞬間を待ってた。
恋人が死んだという知らせがあってから、ずっとずっと、生きてることは、呪いに他ならなかった。
生きててなんになるの?
あの人がいないのに。子供達もいないのに……。
よってたかって奪われた私の人生。私の幸福。
返ってこないなら、死んだ方がましなのよ。
「君は僕のもの。生きるも死ぬも、勝手には許さないよ。」
ジーザスの狂気の愛。
私の首を締めながら、ジーザスは、私にキスした。
この後、性的な表現があるので、ムーンライトにUPします。