最後の晩餐
トレーニングで、ジーザスは忙しかったけど、私たちは週末には小さな旅行をした。
プロヴァンスのラベンダー畑。グラースのジャスミン。
ルノアールの絵を見に、チューリッヒへ。
海に浮かぶモンサンミッシェル。カルカソンヌの月。
13世紀に造られた天空の街、コルド・シュル・シェル......
たくさんの素晴らしい思い出。
大好きなあなた。
あなたが去っても、私はきっと、幸せでいれるわ。
だって、麦の穂を見ただけでも、幸せ。あなたの髪の色を思い出すから。
夏が終わろうとしていた。
彼がモナコを去る日が、すぐそこまで来ていた。
「ママンを亡くして、半分死んでた僕に、あなたは生命と愛とを与えてくれた。だから、今度は僕の番。あなたに勝利を捧げるよ。優勝カップを持って、ここへ戻ってくるから、しばらく待ってて。」
私は、それには答えず、その前にもう一度だけ、旅がしたいと言った。
「ベルヴェデーレの要塞から、フィレンツェの街が見たいわ。あなたと一緒に......。しばらく、お別れなら、今夜は私がディナーを作るわ。」
私が料理をするのは、数年に一度。よほど特別なことがないと、しない。
特別なこと......たとえば、別れの晩餐とか。
♥*♥*♥*♥*♥
赤いシルクのテーブルクロス。
19世紀の銀の燭台には、赤いキャンドル。
テーブルに飾るのは、深紅のクリムゾン・グローリーと、赤いアネモネ。
私のソワレも深紅。デコルテを飾るのは、ピジョン・ブラッドのルビー。
ワインは、キリストの血のようなシャトー・ペトリュス。
食器は赤い小花模様を散らしたヘレンド。
アペリティフは、ペタル・デ・ローズ《バラの花びら》のシロップをシャンパーニュで、割ったもの。
アミューズは、プティトマトのキャラメリゼ。
スープは、パセリとジャコウ草を煎じたポタージュ。
アントレは、羊の脳みそのソテー。脳みそは、氷で冷やしてかたくして、それからパン粉をつけて、エシャレ産のバターで黄金色に焼き上げる。
グラニテは、ブラッドオレンジのソルベ。
「これは何?」
「羊の脳みそのソテーよ。」
ギョッとして、ジーザスは吐き出しそうになる。でも、無理して食べてくれる。
メインは、ウズラのトリュフ詰め。
ねっとりとしたウズラの肉の中に、黒いトリュフが塊のまま、埋まっている。ナイフを入れると、トリュフの芳ばしい香りが溢れ出す。
デザートは、ガトー・ショコラ。
デザートワインは、琥珀色にどろりと濁る百年物のシャトー・ディケム。
「ごちそうさま。全部、美味しかったよ。」
「本当に?」
私はいたずらっぽく、笑う。
パセリとジャコウ草のポタージュは苦いし、脳みそのソテーは、気持ち悪かったに決まってる。ソルベは酸っぱかったし、ガトー・ショコラは、ふくらんでなかった。
でも、仕方ない。私はこれしか作れないんだもの。
最後の晩餐。
......私の血を飲み…肉を食べなさい。......永遠の生命が得られるだろう。......
そう言って、ワインとパンとを弟子たちと、分かち合ったキリスト。
そのかたわらには、マグダラのマリア。
永遠の生命なんて、いらない。マグダラのマリアに、私はなれないもの。
赤いペトリュスは、私の血。
ウズラに埋まった黒いトリュフは、私の心臓。
私の血を飲み、肉を食べて……。そして、私をあなたの一部にして。
噛み砕かれ、小さなかけらとなり、あなたの中に永遠に棲みついてしまいたい。
「ねえ、僕を待っていてくれる?仕事もたまってるし、しばらくストックホルムから出れないんだ。 出来たら、試合を観に来てよ。」
私は用意していた言葉を言う。
「私…結婚してるのよ。約束できないわ。でも、試合は観に行くかもしれないわ。夫が急に帰って来たりしなければね。」
ジーザスは、がっかりしたように、肩をすくめる。
「あなたのラヴィアンローズを壊すつもりはないよ。でも、僕のことも忘れないで。」
本当は、待っていたい。試合も観に行きたい。そして、あなたを独り占めしたい。でも、私には、そうする資格がない。
愛のない……形式だけの結婚でも、結婚には違いない。
私は、将来のあるあなたには、ふさわしくない。
ジーザス・クライスト......…
あなたには、ママンに似たブロンドの青い瞳の女の子が、よく似合うわ。
あなたと結婚して、あなたの子供を産んでくれる、若くて明るい女の子が......。
私は......違う。
婚姻の呪いに縛られ、子供をとりあげられ、追放されてここにいる。
そんな、孤独でみじめな女。
あなたに、それを悟られるのは、死んでも嫌だわ。長くつきあえば、隠しきれない。幸福そうな私の姿だけ、憶えていて。
あなたの記憶に、優雅なレディとして、生きていたいから。




