ショコラ・オ・ムース
私には、時折むしょうに食べたくなるものがある。
それは、ショコラのムース。
だから、今日のデジュネは、久しぶりにロテル・ド・キャップ・エデン・ロックに行く。
ジーザスと一緒に。
モナコから車ですぐのコートダジュールのアンティーブ岬にあるそのホテルは、昔、おばあさまと来て以来、お気に入りの場所。
天井も床も柱もみんな真っ白。壁には淡い水墨画。まるで色がない世界に、ソファだけが、鮮やかなレモンイエローのロビー。
レストランに入れば、右手にはカンヌのヨットハーバー。
左手には、白い大型客船が停泊してる紺碧の地中海。
真っ白な詰め襟のギャルソンが、一番見晴らしのいい席に、私たちを案内してくれる。
ギャルソンが、「レディ」と私を呼ぶので、ジーザスが不思議そうな顔をする。
「レディって?あなた、貴族なの?どうして教えてくれなかったの?教えてくれれば、僕もレディって呼んだのに。」
「おばあさまが、オーストリア・ハンガリー帝国の伯爵家の出身よ。でも、オーストリア・ハンガリー帝国は、もうない。日本の華族制度も廃止されたわ。だから、私は貴族じゃないわ。でも、名前だけ残しておくのよ。こういうところに来たときに、いやな思いをしないようにね。」
「いやな思いって。」
無邪気なジーザス・クライスト。きっとこの世は善意で、満ちあふれてると思ってる。私も、そう思っていたかったわ。
「ジーザス、私の国とあなたのお国とは、戦争しなくて良かったわ。でも、ここは違う。日本は敵国、ドイツの同盟国だったわ。それに、東洋人ってだけでも、差別する人はいる。いくら、お金を持ってても、一段低く扱われるときがあるのよ。
身分なんか、誇りにしてない。だけど、レディの称号があると、そういう人たちには、便利なのよ。マダム・ケンザキの名前で予約をいれると、いくら、見晴らしのいい席がたくさん空いてても、キッチン近くの通路とか、ろくな席をあてがわれないわ。
でも、レディ・クーデンホーフ・カレルギーで、予約をすれば、最高の席に案内される。世の中って、そんなものよ。
本当の友人には、レディなんて呼ばせない。もちろん愛する人にもね。」
「じゃあ、僕もレディって、呼ばない。」
「それより、メニュウを決めましょうよ。お腹がすいちゃったわ。ワインは私が決めていい?プロヴァンスの若い地ワインばかり飲んでるから、たまには熟成したワインを飲みたいわ。」
「あなたに任せるよ。僕はワインなんか、からきしだから。」
私は、ソムリエも呼ばずに決める。好きなものは、わかってるから。
「シャンパーニュは、SALONを。赤は、シャトー・ラトゥールの1961年があるかしら。それから白はモンラッシェを。お料理は、ワインに合わせて、シェフに任せるわ。ただ、デザートは、ショコラ・オ・ムースと、シャトー・ディケムにして。」
「僕も同じでいい。」
「あなたは、ワインもメニュウも決めるのが早いね。僕がフランス人と食事して、驚いたのは、ワイン一つ決めるのに、ものすごーく時間をかけることだよ。その上、僕の意見も求められる。めんどくさかったな。でも、あなたといると、何もかもスムースだ。」
「ワインとメニュウを決めるのに、話し合うのも、食事の一部なのよ。でも、私は違う。席に着いたらさっさと食べたいのよ。」
「僕も同意見。僕たち気が合うね。」
そう………。ひとまわりも年が離れているのに、ジーザスと私は共通点がたくさんあった。
たとえば、好きな画家。カバネルにルノアール。クリムトにモネ。シャガールは嫌いで、一番好きなのは、ミレーの晩鐘っていうのまで。
フレスコ画も好きで、ヴァチカンのシスティナ礼拝堂の天井を首が痛くなるほど、見てたとか。私もそうだった。それは、天才ミケランジェロが、聖書の「創世記」を描いたもので、あれを見るためだけに、私は時々、ヴァチカン市国に行くくらい。
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アミューズは、ジロンド産の牡蠣に小さなソーセージを添えたもの。
「夏に牡蠣?」
ジーザスは、不安そうに言う。牡蠣はたいてい、秋から冬しか食べないから。しかも、緑がかって小さい。見慣れないんだろう。
「大丈夫よ。お腹をこわしたりしないわ。ここの牡蠣は、一年を通して食べられるの。こうすると、おいしいのよ。」
私は牡蠣をシャンパーニュを流して洗う。そして、殻から外して、手のひらにのせて、不安そうなジーザスの口元に持っていく。
「食べてみて。」
私の手のひらから、牡蠣を食べる彼。
牡蠣の数だけ、手のひらにキス。それが私の素敵なアミューズ。
洗練され、ワインとのマリアージュを計算されつくしたお料理。
ワインを開けて、私たちはすっかりいい気分になる。
そして、デザートのショコラ・オ・ムース。
ゆるいショコラで、グラッサージュをほどこされて、艶やかに光る。
金のスプーンを埋める瞬間、いつも胸がときめく。
「ねえ、僕にも一口。」
「あなたは、自分のがあるでしょう。私の楽しみを邪魔しないでよ。」
ことが、このムースに関しては私は、誰にも邪魔されたくない。たとえ、可愛い愛人にでも。そのくらい美味なの。
「あなたのスプーンで、食べさせてもらいたいんだよ。僕もあなたに食べさせてあげるから。ね。いいでしょ。」
「そんなティーンエイジャーみたいなこと………恥ずかしいから。いや!」
「いいじゃない。恋人同士っぽくて。周りみてごらんよ。誰も僕らのことなんて、見てないよ。」
「たしかに………。」
レストラン「エデン・ロック」は、魔法にかかったように、どこの席も恋人同士が見つめあってる。美味しいお料理に、美しい景色がそうさせるのかしら………。
「あなたときたら、ショコラのムースが来たら、僕のことなんか、忘れてたでしょう。」
「あ…あら、そんなこと………。わかったわよ。食べさせてあげる。はい、ぼうや、あーん。」
ジーザスは、ちょっとムッとしてた。一口ムースを私に食べさせてもらうと
「今度は僕。口を開けて、目をつぶってごらんよ。」
私は、ジーザスの機嫌を損ねないように、言われるままにそうする。
最初に、舌に触れるのは、純金のスプーンの冷たさ。
しだいに口に広がるムースの味。
彼の手から与えられるそれは、直接に私の官能を刺激した。
目をつぶっているので、感覚が鋭敏になっているせいだ。
性的なことは、何もしてないのに、淫らな気持ちにさせられる。
ショコラは媚薬。
そういえば、催淫の効能があると聞いたことがある。
そのために、かつて神にささげられた神聖な食べ物だと………。
その力を、今、はっきりと感じる。
彼に与えられる、ひとさじひとさじが、私をとろかす。溺れさす。
接吻も、抱擁も、愛撫もなしで。
テーブルの上で、私に一指も触れもせず、彼は私をうっとりさせる。
ショコラに私は感じてる。
グラッサージュがしたたって、唇を汚すと、彼がそれをすくいとって、自分の口に入れる。
それは、テーブルの上で、繰り広げられる情事。
欲望で死に。欲望で生き返る。
声も、吐息さえも許されない、こんな場所で………。
ショコラをみんな食べ尽くしてしまって、私は目を開ける。
彼の青い瞳の中に、私が映っている。
ずっとその中にいたい。ずっとずっとその中に、いたい。
「私………あなたの分まで、食べてしまったの?」
「だって、あなた………気持ち良さそうだったから。僕を食べさせてる気分だった。今度は、僕にあなたを食べさせてよ。」
それは、愛しているという言葉よりも、甘く、私の鼓膜をふるわせる。
誓いの言葉も、永遠の愛もいらない。
ただ、私を欲しいと言って。
欲望は、聖書の御言葉よりも、ずっと尊い。
「ジーザス、あなたが、ただの女たらしのカサノヴァだったら、良かったのに…。」
「どうして?………あなた遊び人が好きなの?もっと、あなたを上手にエスコートできるから?」
「ううん。そんなんじゃないの………。」
女たらしのカサノヴァなら、恋の甘いところだけ、舐めていられた。
愛してしまえば、つらいだけ。
始まったばかりの、この恋の終わりが、私には見えているから………。
私は苦いカフェノワールを飲んで、気を取り直す。
誰も確かな未来なんて、ない。
今を生きるの。それだけよ。
レストランのシーンは、ちょっと続きがありますが、性的な表現があるので、ムーンライトの方に、UPしときます。読まなくてもあんまり、ストーリーには影響ないと思います。




