愛の夢~リーベ・シュラウム~
ジーザスは小さい頃、ママンにピアノを習ってたらしい。朝食のとき、少し弾いてみたいと言ってきた。楽譜も簡単なのなら、読めると言う。
私は、彼がトレーニングに出かけた後、音楽室で彼にも弾けそうな、やさしい楽譜を探した。でも、いいのはなかった。
仕方がないので、一曲、楽譜に起こす。
これなら簡単だからきっとジーザスも弾けるわ!
夕食後、一緒にピアノを弾こうと誘った。
「ヘンデルの〈涙流るるままに〉よ。オペラのアリアだけど、私がピアノで弾けるように、楽譜を書いたわ。易しい曲だからきっと、あなたも弾けるようになるわ!」
何度か弾いてあげて、ジーザスに右手の運指を憶えてもらう。
「ね、カンタンでしょう?」
「うん、じゃあ、あなたは左手を弾いて。」
椅子が一つしかないので、並んで鍵盤の前に立つ。そして、一緒に弾いた。
「涙流るるままに」
こんな題名の曲だけど、ピアノでゆっくり弾くと、とても優しい曲になる。彼は一曲、右手のパートを弾くことができた。
「上手よ!ジーザス・クライスト!じゃあ、今度は左手を………。」
場所を交換しようとして、彼に軽くぶつかる。
「パルドン………。」
よけても、ぶつかる。右側に移動したいのに、ふざけて彼が通せんぼしてる。
「何よ!どいてよ!」
笑いながら、彼の顔を見上げると、私を見つめて言う。
「アイシテマス。」
「そんな日本語いつおぼえたの?」
彼はそれには答えず、私に口づけた。私はよろけて、鍵盤に手をつく。不協和音が、音楽室に響いた。
大切なベヒシュタインの鍵盤の上に腰かけて、私は彼のキスを受け入れている。
リストの「ため息」が聴こえる。
抱きしめられること。
キスをすること。
忘れていた愛の記憶。
私はうっとりと目を閉じている。
すべては流れゆくエクリチュール。
遠い昔に、こうなることが定められた物語の中の出来事。
♥*♥*♥*♥*♥
眠ってしまった小さな女の子を、抱き上げるように
彼は軽々と、私を抱いて寝室へと連れて行く。
愛し合うために。
性愛の喜びによって、押しだされるため息は、音符。
旋律のない音楽で寝室は満たされる。
新しい恋の熱は、悲しみで凍てついた時間を動きださせる。
「グラマラスなブロンドが好みじゃなかったの?」
「あれは、あなたを油断させるための嘘。本当はずっと、こうしたかった。僕の初恋は、茶色の髪の女の人。15歳の時にファンサイユしてって申し込んだ。ピアノが上手で、大人しそうなのに怒るとこわい大和撫子………。」
朝、目覚めると、彼を起こさないように、ベッドを抜け出してお庭のバラに水をあげに行く。
それから、紅茶にジャムを入れて、音楽室で飲みながら、幸福な朝にふさわしい曲の楽譜を探してる。
リストの「愛の夢」
私は知ってる。わかってる。
これはひと夏だけの恋。
こんな幸福な朝は、長くは続かない。
それでもいい。
私は彼に恋してしまってる。
今朝はこんなにも、幸せ。
私は弾く。
夏が終わって、あなたが去っても、この幸福な朝を思い出せるように。
喜びをこの胸に刻みつけるために。