アリストテレス・ソクラテス・オナシス
VIPルームを出ようとしてる、その時
夏だというのに、赤いひざ掛けをした車椅子の老紳士と
黒縁のメガネをかけた赤いドレスのマダムが、入って来た。
…………オナシスのおじさまだ。モナコに来てたんだ。
「ちょっと、待っててジーザス。私、知り合いにご挨拶してくるから。」
私はかがんで、車椅子の老紳士の乾いた手を握り、耳元で大きな声で
ゆっくりと言う。
「ボンソワー!おじさま、わたしよ!おちびさんよ!
お元気そうでよかったわ!」
オナシスのおじさまは、もう耳が遠い。
目も弱くなってて、私がわかるかどうか、わからない。
跡取り息子のアレクサンダーを亡くして以来
生きながら、死んでしまったようにみえる。
「ああ。」
と、言ったっきり、私を見ることもしない。
いつも、強く握り返してくれた、あたたかい手には
もう、力がない。
一緒にいるのは、ジャクリーヌ・ケネディ・オナシス夫人じゃなく
マリア・カラス。
今日も、彼女は赤いドレスを着ている。
おじさまの好きな色だから。
「ボンソワー。マリア。久しぶりね。カジノを楽しんでね。」
って、言ったけど、マリアは愛想なしだ。
きっと、早く行ってくれって思ってる。
オルヴォワー、と言って、私はジーザスのところに戻る。
「今の人たち、知り合い?どこかで見た顔だけど思い出せないや。」
「私が小さい頃、ホテルのラウンジのピアノが弾きたくて、椅子をひきたくて
椅子をよじ登ってたら、助けてくれたおじさまよ。とても、優しかったの。
……二人をそっとしておきたいから、もう行きましょう。」
♥*♥*♥*♥*♥
アリストテレス・ソクラテス・オナシス。
ギリシアの海運王。子供の頃、ロテル・ド・パリのラウンジで友達になった。
そう………昔は、おじさまじゃとても陽気な人だった。
私を「おちびさん」と呼んで可愛がってくれた。
大きくなって、再会しても、相変わらず「おちびさん」だった。
小さい頃、ロテル・ド・パリのラウンジのピアノを弾くのを禁じられた
って言ったら
「そんなら、わしの船のピアノを弾くといい。」
って言って、毎日、迎えをよこしてくれた。
クルーザーに乗って、沖に停泊している白くて大きなクリスティーナO号に
遊びに行った。
船に着いたら、中を探検して回るのに忙しく、ピアノどころじゃなかった。
ホテルみたいに大きな船だったから、いつのまにか迷子になってた。
ベソをかいてたら、私を抱き上げて一緒にオナシスのおじさまを
探してくれたのは、ギリシアの大統領だった。
子供だった私も、船でのガラ(晩餐会)に招いてくれた。
おばあさまの横で、初めてガラに出席した時は、誇らしかった。
椅子にたくさん、クッションをおいてもらって、それでやっと
テーブルで食事できた。
銀の大きなお皿には、金の時計や、真珠の首飾り。宝石のついた指輪が
たくさん入っていて、好きなのをとってよかった。
私は、それをガチャガチャやって、美しいカメオのブローチをとった。
ギリシア神話の神様の姿が彫られていて、それを見ながら
空想して遊んだ。
船のデッキには、美しいモザイク画が描かれたところがあって
そこが開いて、海水が入り、プールになった。
私はライフジャケットを着せられて、そこで泳いだ。
空の青。海の青。泳いでいると、体が染まってしまいそうだった。
白く美しいクリスティーナO号。
船は相変わらず美しいのに、おじさまは変わってしまった。
愛する人の死は、おじさまの人生に亀裂を入れてしまったんだ………。
「お金で買えないものはない!」
が、口癖だったおじさま。もう………言わない。
生命はお金では買えないって、教えるために、おじさまから息子の
アレクサンダーを奪ったのなら、神様は残酷だ。
気が滅入った私。
でも、ジーザスは、これからどこへ行こうか?なんてのんきに聞いてくる。
なぜか、そののんきさに救われる。
この人も愛する人の死を経験してる。でも、ちゃんと生きてる。
生きながら、自分を葬ったりしてない。
それでは、私は………………?
♥*♥*♥*♥
「ねえ、どうしたの?マダム。気分が悪いの?もう、送って行こうか?」
「ううん………ただ………ただ、お腹がすいたなあって。そうだ!
ホットドッグ食べない?この近くに深夜営業のウイーン風のホットドッグの
スタンドがあるのよ。」
「ええっ!そのソワレでホットドッグ食べるの?やっぱりアンナの言う通りだ。
見張ってないと、そんなことしてるだろうって。だから、僕を見張り役に
つけたのさ。」
「なら、アンナには内緒にしててよ。ホットドッグのスタンドまで
エスコートして!」
「仕方ないなあ。………じゃあ、アンナには内緒でホットドッグを
おごってあげるよ。その代わり、今夜はあなたの家に泊めて。」
「なんですって!イヤよ!
明日の朝、アンナが来て、あなたを見たらいらぬ誤解を招くでしょう!
それに、あなた………男性だし………。」
「マダム………まさか、僕があなたの寝室をノックしに行くとでも?
そんな度胸ないですよ。あなたが強いってことは、あのキャットファイト
見てよおくわかってますから。
僕はただ、別れた彼女の寝てる部屋に戻りたくないだけ。
それに………僕の好みは青い瞳、ブロンドのグラマラスなマドモアゼル。
あなた、すごーく安心していいと思うけど。
あ、それからアンナがゲストルームに新しいタオル出しといてくれるって。」
「ジーザス・クライスト…あなたって、本当に憎たらしいガキね!
アンナも何を考えてるのよ。いくら、あなたを気に入ったからって、私に
黙って、勝手になんでも決めて………ホント…腹立つわ!」
「ねえ、いいでしょう?早くスタンドに行こうよ!ウイーン風のホットドッグ
ってどんなの?」
「わかったわよ!あなたのホットドッグには、たっぷりチリをかけてやるから!」
♥*♥*♥*♥*♥*♥
「僕はともかく、あなた浮いてるね。ソワレ着て、立ってホットドッグなんて
食べてる御婦人…………あなただけだよ。」
「気にするもんですか!私はね、ハナッタラシの頃から好きなようにやってきた
んだから、人がどう思うかとかしったこっちゃないのよ!」
「ハナッタラシって………汚いなあ。あなた、フランス語の発音はきれいだけど
時々、とんでもない言葉遣いしてるよね。」
「ジーザス、あなたもアンナみたいにお説教する気?大きなお世話なのよ。」
「いや、ただ、どこで憶えたのかなあって………。」
「口が悪いのは、生まれつきよ。それから人ごみの中で、よく耳をすませて
いろんな人の言葉を聞いてるせいだわ。一番面白いのは、娼婦たちの言葉よ。
いろんなののしり言葉があるなあって、関心するもの。」
「娼婦って………!」
「モナコでは、どこにでもいるのよ。淑女とほとんど見分けがつかないわ。
あなたが気づかないだけ。私の趣味は、そんな淑女のような娼婦にダマされてる
紳士を哀れみをもって、見守ること………。」
「あなた、単に面白がってるだけでしょう!僕の時みたいに、文庫本のカゲに隠れて
盗み聞きしてさ………まったく、ひどい趣味だよ!」
「だって、本当に面白いんですもの。」
ジーザスと話しているうちに、なんだか滅入った気分は、吹き飛んでた。
ウイーン風のホットドッグは、ヴルスト(ソーセージ)をパンにはさむんじゃなくて
突っ込む。
お上品な食べ物じゃないけど、とっても、おいしい。
でも、今日は特別おいしいみたい。どうしてかしら………。
「何考えてるの?マダム。」
「別に…ホットドッグおいしいなあって。」
「マダム!口にケチャップついてる!ソワレにつけないでよ!」
「うるさいなあ。ジーザス・クライスト。あなた、アンナみたいよ?」
食べ終わると、口の周りのケチャップを拭って、パンくずを落とした。
「ジーザス、次はナイトクラブ行きましょう!モンテカルロの
夜はこれからよ!」




