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プレリュード

 1960年代 モナコ



私はモンテカルロのビーチホテルのラウンジで、ピアノ弾きをしていた。



午後の二時から五時まで。適当に休憩を入れながら。


この仕事は、昔なじみのドミニクに紹介してもらった。




ドミニクは私が小さい頃、モナコ一の名門ホテル……ロテル・ド・パリのスイートに、おばあさまと滞在していたときの、客室係だった。


今は、総支配人をしている。


たいていのことは、彼を通せばなんとかなる。頼もしい友人だ。




おばあさまは、ガラ(晩餐会)に出席なさるときは、いつもお昼寝をしてらした。


私も一緒にお昼寝するように言われてたけど、眠くなんかない。いつもこっそり、抜け出して、赤い絨毯がひかれたホテルの階段を、上ったり下りたりして、遊んでた。


それに飽きると、磨き抜かれたマホガニーの手すりを、すべりおりて、夢中で遊んだ。


それを見つけたドミニクが、慌ててやめさせるまで………。





フロアで会うドミニクは、たいてい大きな銀のお盆を持っていて、どこかへ持っていく途中の、焼きたてのプチパイとか、粉砂糖のかかったイチゴとかを、私の口の中にほうりこむ。


モグモグしながら、メルシーと言うと、レディが口に物を入れたまま、しゃべってはいけません!と、気取って注意した。


手すりをすべるのを止められた私は、ホテルの中を探検して回った。


おばあさまが、寝ている最上階のお部屋から、階段をたくさん駆け下りて、ラウンジのピアノを見つけた。




誰も弾いてない………。




ざわざわとおしゃべりをする紳士淑女の間を通って、ピアノの前まで行く。


椅子にほとんど、よじ登るようにして座るけど、座面が低すぎて、鍵盤に手が届かない。仕方なく、立って弾こうとするけど、今度は、椅子が後ろにありすぎる………。


一体何をやってるんだろう?と不思議そうに見ていた老紳士が、椅子を前にずらしてくれて、座面もちょうどいいように、直してくれた。そして、スタンウェイのピアノの重い蓋を開けてくれる。



私はメルシー!とニッコリ笑ってお礼を言う。



この国の人達はみんな優しい。みんな親切!誰も私をアイノコとか、混血児ってののしらない………なんて、素敵!



ペダルに足は届かないし、重い鍵盤も小さな指では押さえきれない。


でも、私はおかまいなし。深呼吸して弾き始める。


モーツァルトのキラキラ星を………。




曲が終わると、みんなブラボーと言って、拍手してくれた。


私は椅子の上に立ち上がって、スカートをつまんで、習ったばかりの西洋式のお辞儀をした。そして、弾き続けた。


私がいなくなってるのに気づいて、青くなって探しにきたおばあさまに、腕を引っ張られて、退場するまで………。


ショパンの子守歌、トロイメライ………みんな耳で聴いて憶えた大好きな曲たち。




勝手に部屋を抜け出してはいけない!ラウンジのピアノに触ってはいけない!


………と、怒られたけど、私は度々抜け出しては、ピアノを弾いて得意になってた。



気難しい支配人さえ、私のことは大目に見ていた。


モナコ一の名門ホテルの一番贅沢な部屋の、チャーチル・スイートにひと夏も滞在する東洋人。しかもレディ(貴族の称号)を持つ小さな子供が珍しかったのか………それとも、あきれて物が言えなかったのか………。



おばあさまのご実家は、オーストリア・ハンガリー帝国の伯爵家。クーデンホーフ・カレルギー家。


私は、日本人女性にして伯爵夫人となった、レディ・ミツコの末裔と言うことになる。




それにしても、格式高いロテル・ド・パリのラウンジのピアノを弾くということ………。それが、どんなに恐れしらずなことか幼くてわからなかった。


今では、恥ずかしくて冷や汗が出る。


小さいのに、あんなに多くの人の前で、いっぱしのソリスト気取りでピアノを弾いていた私………。


世界は輝いていた。



1940年代の終わりの………私の黄金の子供時代。

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