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In the night that is not over yet  作者: Monstertune
いつも通りの最後の夜

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1/1

まだ終わらない夜の中で

時々、何の特別なこともない夜がある。


家族が同じテーブルを囲んで食事をする夜。

仕事から誰かが少し遅れて帰ってくる夜。

子どもたちの笑い声が家の中に広がる夜。


そんな夜は、どこにでもある。

特別なことなんて、何もない。


けれど、ときどき――

一番普通に見えるその夜が、すべてを変えてしまうことがある。


この物語は、どこにでもいる家族の話だ。


小さな家。

小さな食卓。

そして部屋いっぱいに広がるカレーの匂い。


彼らは特別な人たちではない。


けれど、お互いにとって、

それが世界のすべてだった。


そしてある夜、

その世界は静かに止まった。

その夜は、ただのいつも通りの夜になるはずだった。

青山家の小さなアパートには、出来立ての辛いカレーの匂いが静かに広がっていた。温かい香りはキッチンからゆっくりとリビングへ流れ込み、天井からぶら下がる黄色い電灯の光と混ざり合う。

リビングでは古いテレビが小さな音でついている。

お笑い番組の笑い声が流れていたが、誰も真剣に見てはいなかった。

それでも、その音が部屋に生活の気配を与えていた。

青山家のアパートは広くない。

壁も少し薄い。

それでも、この家はいつも温かかった。

キッチンでは青山美香が鍋をかき混ぜていた。

木のスプーンが鍋の底に触れるたび、小さな音がする。

カレーの湯気がゆっくりと立ち上り、部屋の空気を満たしていく。

キッチンの椅子には陽菜が座っていた。

小さな足をぶらぶらさせながら、鍋の方をじっと見ている。

「まだ?」

陽菜が言った。

「もうすぐよ。」

美香は鍋をかき混ぜながら答える。

「お腹すいた……」

「だったら、テーブルに顔を近づけないの。」

陽菜は素直にうなずいた。

しかし数秒後には、また鍋に顔を近づけてカレーの匂いを嗅いでいた。

テーブルでは結衣がスマートフォンを触っている。

少し不満そうな顔でつぶやいた。

「またカレー?」

しかし手にはすでにスプーンが握られている。

結局は食べるつもりなのだ。

ベランダから戻ってきた春翔は、部屋の空気を吸い込んだ。

「いい匂い。」

そう言いながら、何も考えずに鍋のふたを開ける。

コン。

木のスプーンが頭に当たった。

「手を洗って。」

美香が言う。

「味見だけ。」

「手を洗って。」

春翔は頭をかいた。

「はいはい……」

そう言って洗面所へ向かう。

リビングではテレビが相変わらずしゃべり続けている。

スタジオの笑い声が何度も流れる。

誰も見ていないのに、その音が家を静かに満たしていた。

カチャ。

玄関のドアが開いた。

「ただいま。」

青山健司が立っていた。

少し皺のついたスーツ姿。

いつもの帰宅の姿だった。

ドアが閉まるより早く、

「パパ!」

陽菜が椅子から飛び降りた。

小さな足でリビングを駆け抜ける。

「陽菜、走らない!」

美香の声がキッチンから飛ぶ。

しかしもう遅い。

陽菜は健司の足に抱きついていた。

健司は笑う。

「おっと。」

しゃがんで、陽菜を抱き上げる。

いつものように。

そしてそのまま高く持ち上げた。

「もう一回!」

陽菜が笑う。

健司は軽く空中に放り上げ、また受け止めた。

陽菜の笑い声が部屋に広がる。

健司には小さな習慣があった。

家に帰ると、必ず家族にキスをする。

特別なことではない。

ただ、毎日続けていることだった。

最初は陽菜。

頬にキスをする。

陽菜はくすぐったそうに笑う。

次にキッチンへ行く。

健司は美香の頬に軽くキスをした。

「ご飯ありがとう。」

美香はため息をつく。

「また遅い。」

「少し残業。」

「いつもそう言う。」

しかし口元には小さな笑みがあった。

それから結衣のところへ行く。

頭にキスしようとする。

「やめて!」

結衣が顔を隠した。

「なんで?」

「恥ずかしい。」

健司は笑う。

「昔は嫌がらなかったのに。」

結衣は顔をそらす。

「もう子供じゃない。」

最後に春翔を見る。

ほとんど同じ身長になっていた。

だからキスはしない。

ただ肩を軽く叩く。

「今日はどうだった。」

「普通。」

健司は言った。

「お母さんを心配させるな。」

春翔はため息をついた。

「はいはい。」

それから家族は夕食を食べた。

小さなテーブル。

四つの皿。

真ん中に湯気の立つカレー。

陽菜は一番しゃべる。

結衣はカレーが辛いと文句を言う。

春翔は一番早く食べる。

美香は「静かに食べなさい」と注意する。

健司はただそれを見ていた。

時々笑い、時々静かに微笑む。

彼にとって、それだけで十分だった。

電話が鳴った。

突然だった。

美香が立ち上がる。

「もしもし?」

数秒後。

彼女の顔が変わった。

「……お母さん?」

電話の向こうの声は早口だった。

母親の容体が急変した。

病院で危篤だという。

美香には兄弟がいない。

父親ももういない。

母親は唯一の家族だった。

健司はすぐ立ち上がる。

「今行こう。」

美香はうなずく。

急いで準備をする。

鍵を取る。

バッグを取る。

陽菜が袖を引く。

「ママどこ行くの?」

美香はしゃがんで抱きしめた。

「おばあちゃんが病気なの。ちょっと病院へ行くね。」

「大丈夫?」

美香は答えなかった。

ただ強く抱きしめた。

健司は玄関で振り返る。

三人の子供を見る。

健司は一人っ子だった。

両親はもういない。

この家族だけが、彼のすべてだった。

「家を頼む。」

春翔はうなずく。

「うん。」

ドアが閉まる。

それが、

彼らを見た最後の瞬間だった。

夜の道路を車が走る。

街灯がフロントガラスに映る。

美香はスマートフォンを握っていた。

「間に合うかな……」

健司はハンドルを強く握る。

「間に合う。」

しかし交差点で、

突然トラックのライトが現れた。

まぶしい光。

近すぎる距離。

健司は一言だけ叫んだ。

「美香!」

次の瞬間、

夜は光と衝撃に飲み込まれた。

数時間後。

青山家のアパートで電話が鳴る。

静まり返った部屋で、その音だけが響く。

春翔が受話器を取った。

「青山家ですか?」

病院の声は冷静だった。

落ち着いた声だった。

しかし、たった一つの言葉がすべてを変えた。

事故。

その夜から、

青山家の時間は止まった。

そして三人の子供にとって、

その夜は終わらない夜の始まりだった。

あの夜から、僕たちは朝を知らない。

ここまでこの物語を読んでくださり、本当にありがとうございます。


青山家の物語は、とても小さな日常から始まります。

家族で囲む食卓。

何気ない会話。

仕事から帰ってきた誰かの「ただいま」という一言。


それらは、当たり前のようにそこにあるものです。


けれど、人はそれを失って初めて、

その当たり前がどれほど大切だったのかに気づくことがあります。


この物語は悲しい出来事から始まりますが、

それは決して「悲しみ」だけの物語ではありません。


家族のこと。

後悔のこと。

それでも前に進もうとする人たちのこと。


そして、終わらない夜の中でも、

人は誰かのために生き続けるということ。


もしこの物語を読んだあと、

あなたが大切な誰かのことを思い出したり、

家族に少し優しくなれたなら――


それだけで、この物語には意味があったと思います。


もう一度、

この物語を読んでくださってありがとうございました。

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