恐怖の一夜
夜半を過ぎた頃、ミィは自分の寝床から抜け出した。
(なんだろう……、嫌な感じがする。お昼もあそこで、変な気がしてたんだけど……)
自分用のドアから出て、人気のない廊下を進む。そして足跡を立てずに和室に到着すると、なぜか無人の筈の室内から声が聞こえてきた。
「いい加減にしなさいよ!? 毎年毎年、若い女に色目使いやがって!!」
「痛たたたっ!! ちょっと止めて、禿げるから!! それに色目なんか使ってないし! 相変わらず髪が綺麗だなって、見ていただけじゃないか!」
「はぁあ!? 私にはそんな事、一言だって言ったことはないわよね!? それのどこが浮気じゃないって言うのよっ!!」
「そんな事言われても! 横に並んで座ってるんだから、後ろ姿なんて見えるわけないし!」
「愛があるなら見える!!」
「無茶を言うな!」
「相変わらず激しいですね……」
「まあ、それだけ若いって事じゃろ。放っておけ」
「毎年毎年、飽きずに良くやるわ」
「本当に後ろから凝視してるの? 気持ち悪いんだけど」
「暇を持て余した男って、タチ悪いわよね」
(え? 何? ここで何が起きてるの?)
襖に足をかけ、慎重に引き開けたミィは、僅かな隙間から室内を覗き込んで途方に暮れた。その瞬間、髪を振り乱して絶叫していた女が勢い良く振り返り、ミィと視線が絡み合う。
「そこ! 何をコソコソ覗いてやがる、このケダモノがっ!! とっとと失せろ!!」
「みぎゃあぁぁ––––––––っ!!」
(何あれ!? 怖いよぅっ!!)
さながら般若の形相で凄まれたミィは、生まれてから最大の恐怖に襲われた。そこで悲鳴を上げて自分の寝床に逃げ帰った彼女は、毛布に潜り込んでブルブル震えながら恐怖の一夜を過ごしたのだった。
※※※
「ミィ。皆がミィに会いたいんだって。引っ掻いたりしないで、いい子にしててね?」
日差しが差し込む昼下がり。そんな台詞と共に抱き上げられたミィは、寝不足も相まってうつらうつらしながら運ばれて行った。しかし到着した先が、昨夜恐怖の体験をした場所だと気がついた瞬間、物も言えずに固まった。
「みゃっ!?」
「ほら、まだ子猫だし、大人しいでしょ? 抱っこして撫でても大丈夫だよ?」
「うわぁ、本当に可愛い~」
「本当にピクリともしないよね。ぬいぐるみみたい」
「こういう子だったら、私も欲しい」
同年代の少女達にこぞって構われながらも、ミィは時折部屋の奥の気配を窺いながら恐怖と戦っていた。
「でも綾ちゃんのうち、やっぱり凄いよね」
「今時、七段飾りのお雛様を飾っている家なんて珍しいんじゃない?」
「私のは一段飾りだよ」
「私なんか持ってないし」
少女達は楽しげに笑いながら軽食やお菓子を食べていたが、ミィは全く気が休まらないまま少女の膝の上で丸くなっていた。
「それにしてもあのお雛様、美人だよね」
「私も一目見てそう思った」
「人形の顔でも、一切手抜きしてない感じが凄いと思う」
「うん、上品だよね」
「私も大きくなったら、あんな風になりたいな」
(それだめ! あんな怖い人になっちゃったら、だめだよっ!)
「みゃうっ! にゅわっ! にゃっ!」
「え? ミィ、どうしたの?」
必死に叫ぶミィに少女達が視線を向けた瞬間、ひな壇の方から怒気と殺気が膨れ上がり、ミィの居る方に襲いかかってきた。それを察知した瞬間、ミィは全身の毛を逆立てて全速力で逃走する。
「みっ、みぎゃあぁぁぁ―――っ!!」
「あ、ミィ!? ちょっと待って!!」
「どうかしたの?」
「う~ん、知らない人ばかりで、緊張が振り切れちゃったかな?」
「そう? 悪い事しちゃったね」
そんな呑気な少女達の声を無視し、ミィは一目散に自分の寝床に逃げ帰った。
その後、和室が空になるまで、ミィはその部屋に再び足を踏み入れることはなかった。