「先生の分かりづらいボケにツッコミしないと現実になる件」
始まりの異変
朝の教室は、まだ覚醒しきらない眠気が満ちていた。窓から差し込む春の光は、やけに眩しく、瞳を閉じるたびに、家で僕を呼んでいる布団の温もりが恋しくなった。生徒たちは皆、ぼんやりと机に突っ伏したり、窓の外を眺めたりと、新しい担任の先生が来るまでの静かな時間を過ごしていた。
「……新しい先生って……どんな人かな?」
僕、本多が何気なく呟いた言葉は、隣の席の中西の耳に届いたらしい。彼はうつらうつらとしながらも、顔だけをゆっくりと僕の方へ向けた。その目はまだ完全に覚醒していないものの、どこか含みのある光を宿している。
「ふっ、本多よ……噂に聞いたけど、恐ろしくボケているらしいぜ……」
中西の声は、まるで秘密を共有するかのように、少しだけひそめられていた。その言葉に、僕は思わず眉をひそめる。
「ボケてるって……おじいちゃん先生か?」
最近は若い先生が多いと聞いていたから、まさか定年退職間近の先生が来るのだろうか、と僕は首を傾げた。
「……いや、親と同じくらいの年みたいだぞ」
中西の言葉は、僕の予想を覆し、朝から不穏な予感を教室に漂わせた。親と同じくらいの歳で、恐ろしくボケている……それは一体どんな人物なのだろう。そんな疑問符が頭の中を駆け巡る。
見つめ合う僕と中西の間に、微妙な空気が流れる。その沈黙を破るように、ガラガラと教室のドアが開いた。僕たちの視線は一斉にドアへと集中する。
「よう、お前ら。今日からこのクラスを担当する、破戸先生だ。よろしくな」
入ってきたのは、親と同じくらいの年齢に見える、意外なほど若い男性だった。スーツはきちんと着こなしているものの、その表情にはどこか掴みどころのない飄々とした雰囲気が漂っている。彼は教壇に立つと、ニヤリと口角を上げた。
「はとぽっぽ~じゃないぞ?ガハハハッ!」
そう言って、先生は豪快に笑った。その瞬間、教室は一瞬にしてしんとなる。まるで時が止まったかのような沈黙。しかし、すぐに曖昧な空気の笑い声がパラパラと、まるで砂粒が落ちるように、まばらに起こり始めた。それは、どう反応していいか分からない生徒たちの戸惑いが混じった笑いだった。
「(小声)おい中西!……今の、ボケか?」
僕は思わず中西に小声で尋ねた。あまりにも予想外の展開に、頭の回転が追いつかない。
「(小声)待て!本多!!ボケに突っ込むツッコミ隊長の水篠が……静かだ……」
中西の声もまた、緊張感をはらんでいた。クラスの誰よりも、どんなボケにも鋭く突っ込むことで有名な水篠が、この状況で黙っているのは異常事態だ。
その時、斜め前の席に座る井ノ原が、小さく震える声で言った。
「(小声)見て!……水篠くん……ものすごく言いたそうにしているわ」
僕たちが水篠の方を見ると、彼は眼鏡の奥の目をカッと見開き、唇を固く結んで、まるで体の中から何かが湧き上がってくるのを必死に抑えているかのように、全身を震わせていた。
「むずむず」
水篠から聞こえるか聞こえないかくらいの小さな、しかし切迫した「むずむず」という声に、僕たちはゴクリと唾を飲み込んだ。
僕と中西、そして井ノ原とで交わされた、ごく自然な「内輪会話」。その話題の先にいたのは、まさに「ツッコミ隊長」の異名を持つ水篠だった。どんな些細な話題にも潜むボケや矛盾点を、彼は見過ごすことができない。一度スイッチが入れば、相手が誰であろうと遠慮なく突っ込むのが彼のポリシーだ。しかし、相手が大人である先生となると、さすがの彼も勇気が足りないのだろうか。その葛藤が、彼から発せられる「むずむず」という音に凝縮されているように感じられた。
「まあ、仲良くやろうぜ。燃えるように熱い日差しだが頑張って、ファイヤー!」
ハト先生は、そんな僕たちの様子など気にも留めず、再び満面の笑みで言った。その言葉は、まるで火に油を注ぐかのようだ。
一瞬の沈黙。その直後、けたたましい音とともに、天井に設置されたスプリンクラーから勢いよく水が噴射された。水しぶきが舞い上がり、教室内は一瞬にして霧に包まれる。そして、僕たちの目の前には、信じられない光景が広がっていた。
先生は、本当に火だるまになっていたのだ。
「燃えるぜー!!!」
炎に包まれながらも、先生はなぜか嬉しそうに叫んでいる。そのシュールな光景に、生徒たちは皆、呆然と立ち尽くすばかりだ。
「いや、もう燃えてっからぁぁぁ!!!」
ついに、ツッコミ隊長の水篠が口を開いた。彼の叫びは、教室の混沌を切り裂くような、有無を言わせぬ響きを持っていた。その言葉には、これまで抑え込んできたツッコミへの衝動が爆発したかのような、圧倒的なエネルギーが込められていた。
水篠のツッコミと同時に、少しの静寂が訪れる。そして、啞然とする他の生徒たちの視線が集まる中、教室にスプリンクラーの水が再び勢い良く噴射し、先生を鎮火させた。幸いにも、大惨事には至らなかったが、先生は全身びしょ濡れで、髪の毛からは湯気が立ち上っていた。
「あの先生……炎タイプなの?」
誰かがポツリと呟いた。その言葉に、僕も中西も井ノ原も、心の中で深く頷いた。
「冗談は先生だけにしてほしい」
中西が真顔で言う。
「まったく同感だね」
井ノ原がそれに続いた。
「それにしても、さすがにツッコミを抑えられなかったのね……水篠くん」
井ノ原は、水篠のツッコミをまるで偉業を成し遂げたかのように称賛する。
「ツッコミしない水篠くんはただのメガネだよ」
中西は、水篠の存在意義を簡潔に表現した。
「まったく同感だね」
再び井ノ原が同調する。
「ねぇ……きみたち、酷くない?」
水篠は、眼鏡を押し上げながら、少しだけ不満げな声を漏らした。しかし、その表情には、どこか満足げな笑みが浮かんでいるようにも見えた。
新任のハト先生とのホームルームは、文字通りクラス全員がびしょ濡れになるという、前代未聞の事態で幕を閉じた。
その結果、クラス全員が一時帰宅となり、学校には消防車がサイレンを鳴らしながら到着。今日の授業はすべて中止となり、まさかの休日となった。
……これが、すべての始まりだった。僕たちの、そしてハト先生の、奇妙な日常の幕開けだったのだ。
奇妙な法則
帰宅後、暇を持て余した僕は、クラス全員が参加しているグループラインを覗いた。そこは、ハト先生の話題で持ちきりだった。
「あんなもの見せられたら普通だよな」
僕は、スマホの画面に表示されたメッセージを読みながら、うんうんと頷いた。原因不明の人体発火という異常事態に、驚きを隠せないのは僕だけではなかった。クラスメイトたちは、それぞれが混乱と興奮の入り混じった感情を吐露していた。そして、いつの間にか、その原因究明をすることになった、という流れになっていた。もちろん、僕もその一員として巻き込まれる形だ。
翌日、普通に現れたハト先生に、クラスメイトは皆、昨日以上の驚愕の表情を浮かべていた。先生はケロッとした顔で、まるで何事もなかったかのように教壇に立っている。その先生の姿を見た途端、クラスメイト全員の視線が一斉に僕に集中した。
「だからってなんで俺なんだよ!?」
僕は思わず叫んだ。なぜ僕が原因究明の代表者になってしまったのか、全く理解できない。
「まぁまぁ本多よ、クラス1位の成績が選ばれるのはおかしくないって」
中西は、僕の肩をポンと叩きながら、得意げに言った。
「あれよ、有名税ってやつじゃない?」
井ノ原は、まるで他人事のように冷やかしの言葉を投げかける。
「違うわ!アホ!!」
僕は思わずツッコミを入れた。まったく、この状況で何を言っているんだ。
「やるしかないのか……」
僕は頭を抱えた。逃げ出したい気持ちでいっぱいだが、クラス全員の期待の視線が突き刺さる。僕に憐れみの視線を送る井ノ原と中西。しかし、その中で一人、水篠くんだけは、まるでこれから始まる冒険にでも出発するかのように、ワクワクとうずうずが止まらない様子だった。
場所は移動して校庭。ハト先生は、まるで体育教師のように腕を組み、広い校庭を見渡しながら言った。
「よし!じゃあみんな~今日は体力測定!でもこの学校、山の上にあるから気圧低くて皆ふわふわ浮いちゃうかもな!ガハハ!」
先生の言葉に、再び教室に沈黙が訪れる。水篠は、昨日と同じように、ピクリとも動かない。その様子に、僕の胸には嫌な予感がよぎった。
誰も突っ込まず、様子を伺っていると、本当にクラス全員が数センチ、ふわっと地面から浮き始めた。僕たちは、まるで綿毛のように、ゆらゆらと宙に漂っている。
「いや、浮くんかい!!」
ついに水篠が動いた。彼の叫ぶようなツッコミと同時に、ふわっと浮いていた全員が、まるで糸が切れたようにストンと地面に落ちた。その衝撃で、僕たちは皆、尻もちをついた。
「本多よ……もしや……?」
中西が、恐る恐る僕に問いかける。その顔には、一抹の不安と、奇妙な納得が入り混じっていた。
「うーん……まさかね?」
僕も、まだ信じられない気持ちで答えた。しかし、心の中では、ある仮説が頭をもたげていた。
「そのまさかね……?」
井ノ原が、僕たちの言葉を繰り返すように呟いた。そして、僕たち三人の声が、重なり合った。
「「「ツッコミが無いとボケが現実になる……?」」」
僕たちは、顔を見合わせ、ゴクリと唾を飲み込んだ。それは、あまりにも奇妙で、しかしこれまでの出来事を完璧に説明できる、恐ろしい仮説だった。
放課後、僕と中西、井ノ原、そして水篠の四人は、作戦会議を始めた。場所は、誰もいない教室の隅。夕焼けの光が、教室をオレンジ色に染めていた。
「もしかしたらだけどさ……ハト先生のボケ、突っ込まないと現実になるのかも」
僕が恐る恐る仮説を口にすると、水篠は顔をしかめた。
「いやそんな訳あるかいな!」
「どうやらマジっぽいのよ」
井ノ原が、今日の空中浮遊の件を説明すると、水篠の顔から血の気が引いていく。
「隊長……頼りにしてるぜ!」
中西が、水篠の肩を叩き、期待のこもった視線を送る。
「え?うえ?!じゃあ今日残ったのって?」
水篠は、ようやく自分たちの置かれた状況を理解したかのように、焦りの色を見せた。
「先生のボケにツッコミを入れてほしい」
僕がはっきりと告げると、水篠は顔を真っ青にして首を横に振った。
「む、むりだよ!」
「大丈夫だ!いけるいける!!」
中西が、根拠のない自信満々の言葉で励ます。
「そんなノリで行けるわけないよ」
水篠は、僕たちの無責任さに呆れたように言った。
「大丈夫だ、俺たちも援護するから」
井ノ原が、優しく、しかし力強く言った。その言葉に、水篠の表情に少しだけ安堵の色が浮かんだ。
何とか水篠を説得した僕たち三人は、重い足取りで家路についた。明日の授業が、一体どうなるのか、不安でたまらなかった。
ツッコミ隊長と奇妙な日常
次の日。翌日の授業で、ハト先生はまるで昨日の出来事を忘れたかのように、いつもの調子で言った。
「明日からプール開きだからな~。ワニが出るらしいが気にすんな!ガハハ!」
先生の言葉に、クラス全員の視線が水篠に集中する。僕、中西、井ノ原に加えて、他のクラスメイト全員が、まるで「突っ込め!!ツッコミを入れろ!!」と叫んでいるかのような、熱い視線を水篠に注いだ。プレッシャーが水篠にのしかかるのが、空気を通して伝わってくる。水篠は、眼鏡の奥で目を泳がせながら、少しだけ躊躇した。しかし、やがて彼は意を決したかのように、大きく息を吸い込んだ。
「いや、ワニ出たら泳げないじゃないですか!」
ナイスツッコミ~!!水篠の声が教室に響き渡ると、クラスメイト全員から、まるでコンサート会場にいるかのような称賛の視線が送られた。安堵の溜息が漏れ、僕たちもホッと胸を撫で下ろす。
「ガハハハッ!!冗談だ、冗談」
ハト先生は、水篠のツッコミに満足げに笑った。その笑顔は、どこか子供じみた無邪気さを感じさせた。
翌日、プールにはワニはいなかった。僕たちは、この奇妙な法則を乗り越えられると、一瞬、希望の光を見た。
しかし、その日の帰り道、井ノ原がぽつりと呟いた。
「……ねぇ、もし明日、ツッコミできる人がいなかったらどうなるんだろう」
その言葉は、僕の胸に重くのしかかった。僕たちは、水篠に頼りすぎているのではないか。そんな不安が頭をよぎる。僕は空を見上げた。空は、やけに静かだった。まるで、嵐の前の静けさのように。――その夜、天気予報がこう告げていた。「明日の天気は全国的に大荒れ。嵐になるでしょう」
翌日の朝、僕の予感は的中した。水篠くんは学校を休んだ。昨日のプールではしゃぎすぎて、風邪をひいたらしい。
「……よりによって今日!?」
僕は朝の教室で頭を抱えた。今やこのクラスの命綱、いや、世界のバランスすら担っているかもしれない水篠のツッコミ力が、まさかの不在なのだ。クラスメイトたちも、皆、不安そうな顔で僕の顔を伺っている。その不安は、教室全体に重くのしかかっていた。
そして、その不安は、現実となった。
「よう、お前ら~。昨日プールで泳いでたやつら、背ビレ生えてきてねぇか?ガハハハハ!」
朝イチから全開のハト先生に、教室は静まり返る。誰もツッコミを入れない。いや、突っ込めない。沈黙が、教室を支配する。その沈黙が、まるで何かを招き入れるかのように、僕たちの背筋を凍らせた。
ザシュッ……。
まるで、何か鋭いものが体を突き破るような音が、教室に響き渡る。その音は、僕たちの耳に、そして心臓に、直接響いた。
「う、後頭部が……かゆ……いや、背中か!?え?なにこれ……ヒ、ヒレ!?」
クラスの何人かが、悲鳴をあげた。彼らの背中には、まるで魚のヒレのようなものが、ニョキニョキと生えてきていた。それは、あまりにも異様で、あまりにも現実離れした光景だった。
「……ヤバいって、マジで……!」
中西が、震える声で言った。僕たちの顔は、皆、恐怖に引きつっていた。このままでは、クラス全員が背ビレを生やした人間になってしまう。
「やるしかない!!……せ、背ビレはフカヒレにして食べちゃいました~アハハ……」
僕が、震える声で、絞り出すようにツッコミを入れた。その言葉は、自分でも何を言っているのか分からないほど、支離滅裂だった。しかし、先生のボケを打ち消すには、これしかないと思った。
「ガハハハッ!!中々やるな!本多!」
ハト先生は、僕のツッコミに満足げに笑った。その瞬間、クラスメイトの背ビレは、まるで幻だったかのように消え去った。
本多は赤くなってそれ以降、ツッコミをしなくなった。
ホームルームが始まってから先生のボケは止まらない。一つボケるたびに、何かしらの奇妙な現象が起こり、それを僕が必死で打ち消すという、地獄の始まりだった。
「今日はかなり雨に風が強いから傘も飛んでいくくらいだぞ!ガハハハッ!!」
先生の言葉に、教室の窓から見える景色は、まさに嵐の様相を呈していた。そして、次の瞬間、僕たちの傘が、まるで意思を持ったかのように、窓から勢い良く飛び出していった。
飛んで行った傘たちを追いかけて、クラスメイト全員が、雨がザァーザァー降る校庭に行く羽目になった。僕たちは皆、びしょ濡れになりながら、必死で傘を追いかける。その姿は、まるで奇妙なパレードのようだった。
「傘が飛ぶなんて変なこともあるもんだなぁ!これには目から鱗ってか!!ガハハハッ!!」
先生の言葉と同時に、クラスメイト全員の目から、本当に鱗が落ち始めた。それは、まるで目から魚の鱗が剥がれ落ちるような、奇妙で不快な感覚だった。僕たちは皆、目を擦りながら、その異常な現象に戸惑った。
「やべ……コンタクト外れた」
中西が、焦った声で言った。彼の目は、鱗が落ちた影響か、ぼんやりと焦点が合っていない。
中西は視力を失った。
そして午後の授業。ハト先生は、まるで体操教師のように腕を組み、教室を見渡しながら言った。
「よ~し、今日はみんなで“脳内体育祭”やるぞ~!走れ走れ、イメージでな!ガハハ!」
……その瞬間、全員の体が勝手に走り出した。教室の中を、僕たちは意味もなく走り回る。まるで、見えないトラックを走っているかのように、僕たちの体は勝手に動いているのだ。
「うわあああ!?止まれない!!」
「こ、これが……脳内100メートル走……!?」
バタバタとぶつかり合う生徒たちの中で、僕は必死で体を制御しようとしたが、全く動かない。このままでは、本当に大惨事になってしまう。
「誰かが止めなきゃ……ならないんだ!!」
僕は、自分の胃がキリキリと痛み始めているのを感じながら、大きく息を吸い、叫んだ。それは、これまでのツッコミの中で、一番大きな声だった。
「脳内で体育祭は**脳無い!**でぇぇぇぇす!!!」
僕の魂を込めたツッコミが、教室に響き渡る。その瞬間、全員の動きがピタリと止まる。まるで、巻き戻しボタンを押されたかのように、僕たちの体は元の位置に戻っていた。
ツッコミの効果は、あった。いや、ボケにボケを重ねて打ち消したとでも言うべきか。とにかく、僕たちの危機は去ったのだ。
「……やった……」
「ツッコミが……効いた……!」
僕たちは、皆、へたり込むように床に座り込み、安堵の溜息を漏らした。僕の胃は、痛みで悲鳴をあげていたが、それでも、この危機を乗り越えられたことに、心底ホッとした。
ツッコミ隊、結成
放課後、帰宅前の下駄箱の前で、中西と井ノ原が僕の肩を叩いた。水篠は、まだ下駄箱には来ていない。
「おつかれ、本多……まさかあんたがツッコミ役をやるなんてね」
井ノ原が、僕の顔を覗き込むように言った。その表情には、尊敬と、そして少しの戸惑いが混じっていた。
「俺、絶対やらないって思ってた」
中西も、僕の意外な行動に驚いているようだった。
「マジで感動した。俺たちも、次はがんばるよ……」
彼らの言葉に、僕は少しだけ胸を張った。だが、すぐに現実が頭をよぎる。
「でもさ……」
僕は、ぼそっと言った。
「これ、水篠が帰ってこなかったら、マジで俺の胃が終わるんだけど……」
僕の言葉に、中西と井ノ原は、苦笑いを浮かべた。確かに、僕一人のツッコミ力では、この先生のボケを捌ききれる自信はなかった。
その夜、グループLINEに水篠から「明日行く」というメッセージが届いたとき、全員が心の底から安堵したという。僕の胃も、ようやく一息つけた気がした。
翌朝、教室に元気な水篠が戻ってきた。
「うぃ~」
彼の病み上がりの声でも、教室中は不思議と明るくなった。やはりこのクラスのツッコミ隊長の不在は、みんなの不安の種だったのだと、改めて実感した。水篠はまだ本調子ではなかった。顔色は少し悪く、咳も少し出ていた。
「無理はさせられないか」
本多が井ノ原と中西に相談する。水篠の体調を気遣う僕たちに、彼は苦笑いしながら言った。
「俺も完全復活とはいかないけど、みんなに迷惑かけたくないんだ。だから、今日は無理しない程度にやる」
その言葉に、僕たちは安堵した。そして、井ノ原と中西も、意気込みを見せた。
「俺たちもツッコミ役、手伝うぜ!」
中西が、力強く言った。
「これからはみんなで分担していこう!」
井ノ原も、笑顔で頷いた。こうして、クラスのツッコミ隊は僕、中西、井ノ原、そして水篠の4人に増え、少し安心感が生まれた。
「これで先生のボケに立ち向かえる……はず!」
本多が拳を握りしめる。僕たちの決意は、固かった。
その日のハト先生は、いつも通り絶好調だった。朝のホームルームから、彼のボケは止まらない。
「昨日は夜空にUFOが飛んでてな……ああ、もちろん見間違いだ!ガハハ!」
だが、クラスの誰もツッコミを入れなかった。水篠は、「そんなわけあるか!」と口を開くが、どこか言葉に力がない。病み上がりで、まだ全力が出せないのだろう。すると、次第に雲の中から、円盤のようなUFOが見え始めた。それは、まるで先生のボケが、現実世界に侵食してきているかのようだった。
意識を戻して、本多と井ノ原が声を合わせてツッコミを入れた。
「絶対違うだろ!」
「先生、冗談はほどほどに!」
僕たちのツッコミが、UFOに届いたかのように、さっきまで見えていたUFOは、まるで幻だったかのように消えていた。
その後もハト先生のボケは止まらない。次々と繰り出される奇妙なボケに、僕たちは四人で協力してツッコミを入れていく。
「今日のラッキーアイテムはコーヒーらしいぞ!!蛇口から出ると良いな!!ガハハ!!!」
先生の言葉に、僕は思わず顔をしかめた。蛇口からコーヒーなんて、想像するだけで恐ろしい。しかし、すぐにツッコミを入れなければ、本当に蛇口からコーヒーが出てきてしまうかもしれない。
「いやコーヒーだけにブラックジョーク!!」
僕は、持ち前の知識と機転で、何とか対抗した。横では中西が、僕にすべてを任せるかのように親指を立てている。その中西を、井ノ原は冷ややかに見ている。寒すぎて凍えるハト先生のボケに、今日もクラスメイト全員がヒヤヒヤ、ドキドキする。僕たちは、まるで綱渡りをしているかのような緊張感の中で、授業を受けていた。
ボケロナミンGの真実
お昼休み。給食の時間になった。いつもなら担任のハト先生も一緒に給食を食べるはずだが、今日はいない。そのことに気づいたクラスメイトたちは、安堵の表情を浮かべて給食を食べ始めた。普段は「いただきます」などと言わない男子生徒も、今日はなぜか感謝の気持ちを込めて「いただきます」と言っていた。その異様な空間に、僕はいてもたってもいられなくなり、手早く給食を食べて職員室へ様子を見に行くことにした。
職員室のドアの前まで来ると、中からひそひそ声が聞こえてきた。
「分かっているね?」
「はい……今日中に、必ず」
「……それでいい」
教頭先生とハト先生が二人きりで話している。ひそひそ話で内容ははっきりとは聞こえなかったが、この異常現象の鍵になる話をしていたはずだ。僕は、その緊迫した空気に、思わず息を潜めた。
下校する時、僕はコッソリとハト先生を尾行しようとしたが、既に先生はいなかった。僕は、悔しさと不安を抱えながら、諦めて帰ろうとした矢先、再びハト先生が教頭先生と対面しているのを見つけた。
ハト先生は、教頭先生から封筒を受け取り、代わりに何かの箱を渡している。その光景に、僕の頭の中で一つの疑念が膨らんだ。
あれは!?もしかして……ヤバい薬なんじゃ!?
恐怖感に腰を抜かした僕は、思わず物陰から出てしまい、ハト先生と教頭先生にバレてしまった。僕の心臓は、激しく鼓動を打っていた。
「おやおや……こんなに早くバレるなんてねぇ?」
教頭先生が、にこやかに言った。その笑顔は、僕には悪魔のように見えた。
「ガハハハッ!!さすがうちの生徒ですな!」
ハト先生も、いつもの調子で笑っている。僕の体は、恐怖でガタガタと震え始めた。
「ひっ……ひぃぃ!!」
僕は、情けない声を上げて後ずさる。
「怖がる必要はない、さっきから見ているこれが怪しく見えたんだろう?」
教頭先生は、僕の目の前で、先ほどハト先生に渡した箱を開けて見せた。中には、無数の小さな錠剤が入っていた。
「これはボケロナミンGなんだよ」
教頭先生の言葉に、僕は思わず「は?」と間の抜けた声を出してしまった。ボケロナミンG?一体、何なんだそれは。
「教頭先生のご実家は薬を作っていてね、口下手な私にもクラスメイトとなじめるようにと開発してくれたんだ」
ハト先生が、照れくさそうに説明した。口下手な先生が、生徒と打ち解けるために、わざわざボケる薬を飲んでいたというのか。そのまさかの事実に、僕は呆然とするしかなかった。
「おかげで隣りのクラスからは苦情が多いですがね」
教頭先生は、苦笑いしながら言った。
「ガハハハッ!!面目ありません!!」
ハト先生も、申し訳なさそうに頭を下げた。
「じゃ、じゃあハト先生は……口下手でそれを?」
僕が、震える声で尋ねると、ハト先生は満面の笑顔で頷いた。
「あぁ!!その通り!だが、もう必要ないみたいです、教頭!」
「うんうん、そうだね。1週間くらいだけどみんな気軽にツッコミしてくれるようになったじゃないか」
教頭先生は、ハト先生の成長に満足げに頷いた。
「はい!!これも全て教頭のおかげです!!」
ハト先生は、教頭先生に深々と頭を下げた。
「ははは……良いのさ。今度飲みに行こうか」
「ぜひ!」
僕が終始呆然としている中、教頭先生とハト先生は、まるで旧友のように談笑していた。僕の胃は、これまでのツッコミから解放されるという事実に、心底ほっとした。この奇妙な日々が、ようやく終わりを告げるのだ。
新たなツッコミ隊長
次の日。教室のドアが開くと、ハト先生がいつものように満面の笑みで入ってきた。
「ガハハハッ!!今日から入った臨時教員のタカ先生だ!!みんなあいさつを!」
ハト先生の言葉に、僕たちは一斉にドアの方を向いた。そして、そこに立っていた人物を見て、僕たちは戦慄した。
「おはようございます、皆さん。ハト先生よりも滑らないボケをするのでよろしくね、ハートにずっきゅん♡」
入ってきたのは、見るからに濃いメイクを施し、キラキラと輝く瞳でウィンクを飛ばす、オカマの先生だった。そのあまりにも強烈なキャラクターに、クラス全員が言葉を失った。
「今度のボケはオカマが相手なのか!?」
僕たちは、心の中で叫んだ。ハト先生のボケにツッコミを入れるだけでも大変だったのに、今度はオカマの先生のボケにツッコミを入れなければならないのか。それは、想像を絶する戦いになるだろう。
しかし、その中で一人、水篠だけは、ワクワクとうずうずが止まらない様子だった。彼の顔には、新たなツッコミの相手を見つけた喜びが、隠しきれないほどに表れていた。
「……いよいよ、俺の出番だな」
水篠は、眼鏡をクイッと上げ、ニヤリと笑った。僕たちの新たなツッコミの日常が、今、始まる。果たして、僕たちはこの新たなツッコミを乗り越えることができるのだろうか。僕の胃は、早くも痛み始めていた。