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跌打館という場所

香港には、ちょっと特別な場所がある。跌打館てったかんと呼ばれる治療所だ。捻挫、風濕(リウマチ)、訓黎頸(首のこり)、腰痛など、骨や筋の不調を訴える人々が訪れる場所。治療を行うのは「師傅しーふー」と呼ばれる職人のような存在で、西洋医学では鎮痛剤を出すことくらいしかできないような症状に、彼らは独自の手技で向き合う。


香港の人々、特に年配の方々は、薬や注射に対してどこか不信感を抱いている人が多い。でも、真っ黒な漢方の煎じ薬や、乾燥させたタツノオトシゴや虫の粉末が混ざった怪しげな薬湯を、何のためらいもなく口にするのだ。その姿には、合理性を超えた信頼が宿っている。


普通の住宅街なら、2〜3ブロックごとに1軒は跌打館がある。私が子どもの頃は、コンビニより多かった気がする。跌打とは文字通り「落ちる・打つ」という意味で、転倒や衝突による外傷のことを指す。でも「打つ=喧嘩」と解釈されてしまうと、外国人には少し奇妙に聞こえるかもしれない。まるで香港では毎日路上で殴り合いが起きているかのような印象を持たれる。


実際、この「打つ」とは武術の訓練や試合による怪我のことだ。1960年代の香港では、詠春や洪拳などの武術道場が街の至るところにあった。そこで教えられていたのは、技だけではなく、練習中に起こる怪我への治療法でもあった。80年代に入り道場が減っていく中で、多くの師傅たちはそのまま地域の跌打館へと姿を変え、治療の技術を受け継いでいった。


子どもだった私は、その場所に近づくことすら避けていた。数軒先からでも分かるほどの強い漢方の匂いが苦手だったし、サッカーや武道をやっていたわけでもなかったから、用事もなかった。最初に中へ足を踏み入れたのは、小学校低学年のとき、父に付き添って行った時だった。


父は尖沙咀の港湾ホテルで事務員として働いていたが、夜勤のときはよく台所から倉庫への物資の運搬を頼まれていた。何かしら食べ物を家に持ち帰ってくれることが多く、中でも豚足の骨が彼のお気に入りだった。左手で骨の先を持ち、右手の不自由さに構わず、ゆっくりと肉をかじっていく姿が印象に残っている。彼は十代の頃に脳卒中を患い、右手足に麻痺が残っていた。


ある夜、冷蔵庫室で脚立から転倒し、麻痺のある右脚を強く打った。翌朝、足首はまるで足そのものの大きさにまで腫れ上がっていた。なぜかその日、母も姉もおらず、父を近所の跌打館に連れて行ったのは私だった。


その治療所は、ブロック全体を占める車の修理工場の隣にぽつんと建っていた。広さはタクシー1台分ほどしかなく、師傅ひとりで診察、施術、調合、経理までこなしていた。中に入ると、まるで個人博物館のように、古びた証書や珍しい薬草、そして師傅の過去が無秩序に、しかし誇らしげに展示されていた。


壁には、色あせた中国医学学校の修了証が、黄ばみながら貼られている。その上には「妙手回春」「仁心仁術」といった、地元の団体から贈られた横長の赤い表彰札が飾られ、写真立ての中には、どこかで見たことのあるような地元の有名人や政治家と肩を並べる師傅の姿があった。だが、写真のガラスは黄色くくすみ、誰が写っているのか判別するのは難しかった。


ガラスの棚の中には、琥珀色の液体が入った瓶が並び、その中には卵、蛇、カエル、見たことのない植物が浸されていた。私はその瓶の中身が急に動き出すのではないかと、いつも内心びくびくしていた。棚の隅には、関羽や仏像の小さな陶器像が置かれていて、その隣には、子どもと同じくらいの大きさの人体骨格模型があった。テープで雑に貼られた骨名ラベルが風に揺れ、どこか滑稽だった。


私は肩を貸しながら、父を古い木製のベンチへと導いた。そのベンチには、青緑色のビニール張りの座面があり、父はその上にゆっくりと腰を下ろした。腫れた足を台の上に置いたとき、蛍光灯の冷たい光に照らされて、足首は風船のように膨れ上がり、血管の形すら見えなかった。


師傅は、くたびれた白いポロシャツと黒いアディダスのジャージ姿で現れた。スポーツというより、むしろ快適さを追求した服装だった。彼は老眼鏡を鼻の上にぐいと押し上げ、何の挨拶も診断もなく、突然治療を始めた。漢方オイルを塗りながら、テレビで流れる競馬中継に半分目を向けたまま、父の足首を円を描くように指で揉みはじめた。その動きはどこか祈るようで、見ているとまるで時間が巻き戻るような気さえした。


私は、ぼんやりとその動きを見つめていた。骨格模型は本物なんだろうか? もしそうなら、それは誰のものだったのか? 母が語っていた、飢えに苦しむアフリカの子どもたちの一人だったのか? そんな思考が頭をよぎったとき、施術は終わっていた。


師傅はすり減ったモザイクタイルの床を足音を立てて横切り、壁に掛けられた関羽像の後ろにある薬室へと消えていった。狭いその部屋は、彼の寝室も兼ねていた。私は父の様子をちらりと確認したあと、そっとその奥を覗いた。コンロの上には、焦げたような葉のようなものが入った鍋がぐつぐつと音を立てていた。部屋の中には、土と根を焼いたような苦く煙たい匂いがこもっていた。裸電球が一本、白いコードからぶら下がっていて、ベッドはシーツのないウレタンマットが、緑色の金属製収納棚のフレームの上に乗せられていた。マットには、誰かの体の跡がうっすらと刻まれていた。


競馬中継が終わる前に、薬は完成した。一枚の紙を魔法のように折りたたんで作られた箱に、ねっとりとした漢方薬が包まれていた。師傅は誇張された手ぶりでその使い方を説明したが、私はその手の動きの優雅さに見とれていて、説明は何一つ頭に入ってこなかった。父は、うんうんと頷きながら微笑んでいた。


父は香港の親たちの中では珍しく、よく笑う人だった。あまりに自然に、あまりに頻繁に笑うので、私は時々、それが何かを凌ぐための防衛反応なのではないかと感じていた。彼の人生には、笑顔だけでは受け止めきれないことが、きっとたくさんあったのだと思う。それでも、彼は笑っていた。

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