終点、蘇屋邨
映画『トワイライト・ウォリアーズ』の冒頭では、香港特有の二階建てバスの中で、陳洛軍と王九が激しい格闘を繰り広げる。
巨大な車体が渋滞を巧みに縫って走るさまは、まるで古い香港映画のワンシーンのようにノスタルジックだ。
窓外には幾重にも重なるネオン看板がきらめき、その瞬間だけ時間が止まったような感覚に陥る。
バスの走る道は日常の一部にすぎないが、そこで繰り広げられる派手なアクションは、隠された世界への入り口を垣間見るような不思議さを帯びていた。
この作品で登場するバスの路線は「1号線」。
1933年、九龍バス(Kowloon Motor Bus, KMB)のフランチャイズが始まった当初に開設された最初の路線であり、今年で91年目を迎える。
開業当初は、尖沙咀のスターフェリー乗り場と九龍城を結んでいた。
華やかなビクトリア・ハーバーに面した尖沙咀と、雑然とした活気あふれる九龍城。
両者は、まるで香港の「陰」と「陽」を体現しているかのようだった。
長い歴史の中で多くの路線番号が再編されてきたが、この1号線だけは他の路線に転用されることなく、その存在を守り続けている。
新旧がせめぎ合う香港の街並みの中で、その細い糸のようなバス路線は、過去と現在を静かにつなぎとめている。
そんな1号線とは別に、私が幼い頃もっとも頻繁に利用していたのは「2号線」だった。
こちらも同じく尖沙咀のスターフェリー乗り場を起点とし、蘇屋邨までを結ぶ。
蘇屋邨は深水埗地区のはずれ、尖山の麓に広がる住宅地だ。
最寄りの地下鉄駅までは徒歩で30分近くかかるため、自然とバスが生活の足となっていた。
家からバスターミナルまでは、15分ほどの道のりだった。
子どもの頃の私にとって、尖沙咀とはきらびやかな商業地区だった。
家族にはとても手が届かない高級ブランドのショーウィンドウがずらりと並び、街全体が異世界のように感じられた。
だが同時に、この地区は香港全体の祝祭行事の中心でもあった。
クリスマスには街路やビルの壁面にきらめくイルミネーションが灯り、旧正月にはビクトリア・ハーバー沿いで花火が打ち上がった。
貧富の差を超え、この祝祭感にひたるひとときこそが、多くの家族にとっての共通の楽しみだったのかもしれない。
私は小心者だったので、旧正月の花火大会のように数十万人が押し寄せる大混雑にはあまり気が進まなかった。
花火はわずか25〜30分ほどで終わるとはいえ、その短い間に群衆に押しつぶされるような感覚を思うと、少し息苦しさを覚えた。
それでも父には、理由をうまく説明できないほどの「花火への愛情」があった。
音の響きや火薬の匂いが放つ興奮を、胸に刻みつけるかのように、父は毎年少なくとも2回は私たち家族を2号線のバスに乗せ、尖沙咀へ向かわせた。
あの車内に満ちる微かなガソリンのにおいと、人々の熱気が入り混じる空気。
それは不思議な高揚感を伴い、今でも記憶の中で鮮やかによみがえる。
2号線の終点、蘇屋邨バスターミナルは1960年代初頭に建設された。
私が子どもだった頃には、すでに年季が入り、白と赤に塗られたコンクリートの建物は、どこか無骨で、しかし不思議と親しみやすかった。
小学校からは徒歩3〜5分ほどの距離にあり、放課後にはその一角を横切って家路につくのが日課だった。
車寄せは弧を描くように6〜8車線ほど並び、その両脇を尖山の斜面が抱き込むように迫っていた。
夏の午後、尖山から吹き下ろす風が榕樹(バニヤン)の枝葉を揺らし、湿った樹液の甘い香りを運んできた。
雨上がりには、その香りはさらに濃くなり、わずかにカビ臭さを帯びることもあった。
そのなかで、駅員の小さなラジオから流れる広東ポップスと、蝉の声とが微かに重なり合い、幻想的な合奏を奏でていた。
じっとしていると、時間の流れが止まったように思える。
それでも、容赦なく照りつける夏の太陽に、私の体はじわじわと汗ばんでいった。
香港では、多くの施設が本来の設計意図を超えて、さまざまな機能を担うことがある。
このバスターミナルも例外ではなかった。
日陰を求めるお年寄りたちは、折り畳みの簡易テーブルを広げ、象棋(中国将棋)に興じていた。
待合客の列のそばで交わされる勝負は、まるで自宅の縁側の延長のようだった。
そこにいた誰もが、自然にその空間を共有していた。
さらにバスターミナルの一角には、捨てられた観音像や如来仏像が榕樹の根元に寄り添うように置かれていた。
木々が雨風から守るかのように像たちを包み込み、ときおり、バスに乗る前にそっと手を合わせる人の姿もあった。
公共空間と私的な祈りが、ごく自然に共存する。
そこには、香港という街の懐の深さが、静かに息づいていた。
バスターミナルは、公共と個人、出発と到着、休息と労働、理性と信仰といった、相反するものすべてを受け止める場所だった。
生き生きとした生活の気配を帯びながらも、どこか静謐な時間が流れていた。
思えば、あの場所は私にとって、香港という街そのものの縮図だったのかもしれない。