記憶の盗人
記憶とは、まるで盗人のようなものだ。
時折、不意に忍び込み、最も予期しない瞬間に心を奪っていく。
コンビニでお菓子を手に取っているとき、夕暮れの鳥のさえずりを聞いているとき、電車の窓から外の風景を何気なく眺めているとき。
その記憶の盗人は、心を人質に取り、こちらが十分に注意を払うまで解放してくれない。
そして、その過程が終わるのは、数分、数時間、あるいは数日後のこともあるかもしれない。
なぜその記憶が今なのか、自分でもわからないまま、思い出の中に取り残されるような時間が始まる。
朝食の後、私はいつも母に付き添って、近くの街市――生鮮食料品を扱う市場――へ出かけていた。昼食や夕食の食材を買いに行くのが目的だった。
香港の街市は、公共図書館やスポーツ施設、安価な食堂(熟食中心)などが併設された市政ビルの中にあることが多い。
私たちがよく通っていたのは、保安道市政大廈という名の場所だった。
4階建てのその建物は、象牙色の壁にベージュのアクセントが施され、正面にはいくつもの巨大な円柱が並んでいた。
少し離れた場所から見上げると、それは要塞のようで、どこか近づきがたい雰囲気をまとっていた。
その巨大で無骨な建物は、何百メートルも続いているように見え、どこが入り口でどこが終わりなのか、子どもだった私にはわからなかった。
朝の空気がゆるやかに温まり始めた頃、母と私はゆっくりと通りを歩き、その建物の反対側にある入口を目指していた。
私は母が押していた赤い金属製のメッシュカートの取っ手を、小さな手で握りながら進んでいた。
母は片足が不自由で、片手でカートに体を預け、もう一方の手で杖を使ってバランスを取っていた。
そのため、私は他の母子のように、母の手を握って歩くという感覚を、知らずに育った。
握る手の代わりに、私はいつも母に話しかけていた。
最近テレビで見たアニメやそのキャラクターのこと、「となりのトトロ」に出てくる不思議な生き物、日本の森や草原のこと――心の奥では、母が「いつか日本に行こう」と言ってくれるのを、どこかで期待していた。でも、そんな日が訪れないこともまた、子どもなりにわかっていた。
街市での旅は、いつも「濕貨」の売り場から始まった。
ここでは、生きた鶏や魚などの家畜が並べられていた。
地下に降りるエスカレーターに近づくと、すでに少し酸味を帯びた、羽毛と生の肉の混ざったような、むっとする匂いが漂ってきた。
このフロアは通常、最も広く、数百の屋台が所狭しと並んでいた。
どの屋台もエレベーターほどの小さなスペースで、それが隙間なく積み上げられたような印象だった。
まるで屋根のある祭りのような熱気と音がそこにはあった。
鶏たちは天井近くまで積み上げられたケージに閉じ込められ、無力な様子で周囲を見つめていた。
お客は指をさして鶏を選び、少し時間を置いて戻ってくると、処理されたその鶏を受け取る。
その場で解体される光景は、子どもには残酷に映ったが、そこには確かに儀式めいた厳粛さがあった。
分厚い木製のまな板に包丁が打ち込まれると、その音が市場全体に重く響いた。
まるで本を何冊も重ねて、一度に床に落としたかのような音だった。
魚は水槽で泳いでいるものもあれば、氷の上に並べられているものもあった。
その鰓は、最後の息を求めるようにかすかに動いていた。
特に、生きたまま皮を剥がされる場面に出くわすと、私はその場に立っていることすらできなかった。
しかし母は、濡れて滑りやすい床を、慎重に歩かなければならなかった。
私はただ、母の動きを見守りながら、心の中で「早くここを通り過ぎてほしい」と願っていた。
茶色いタイルの床には水が跳ねており、生きた海産物がぎっしりと並んでいた。
価格は白い発泡スチロールの切れ端にマーカーで書かれ、水槽の縁に浮かんでいた。
それが「海鮮價」――値段が日によって変わるという、広東語の言葉の由来だった。
母が買うのはいつも紅衫魚だった。赤みがかった体に、銀色の光が腹に向かって移り変わっていた。
母は値段交渉が得意ではなかったので、店主はすぐに他の客に目を向けてしまった。
母はそのまま静かに店主を見つめ、やがて何も言わずに諦め、カートの取っ手を握り直し、次の屋台へと進んでいった。
生鮮エリアを抜けて乾物売り場に入ると、空気が一変した。
潮の香りが静かに漂い、空間はしんと静まり返っていた。
干しエビやホタテ、イカの山の中で、年配の女性たちが扇子をゆっくり揺らしながら座っていた。
彼女たちの目は、どこか遠くを見ていた。
この場所が、私は一番好きだった。
静かで清潔で、音も匂いも穏やかだった。
時間の流れが止まっているように感じた。
それでも、耳の奥ではまだ、濕貨のフロアからの喧騒が、かすかに届いていた。
街市を通り抜ける時間は、まるで一曲の交響曲のようだった。
地下に降りると、序曲が始まり、肉売り場で力強いクレッシェンドに達し、
そして乾物売り場で、静かな楽章へと移り変わっていく――そんなふうに感じていた。
ある日、私は母に訊いた。
「どうして足が不自由なの?」
母は少し考えてから、私の知らなかった彼女の幼少期の話をしてくれた。
五歳のある日、高熱が出て、それが数日続いたらしい。
末っ子で女の子だったこともあり、祖母は麻雀に夢中で、病院に連れていくことすらしなかった。
一週間後、ようやく診断されたのはポリオだった。
でもそのときには、すでに手遅れだった。
母の足は、二度と自由に動かなくなった。
子どもだった私は、その話に込められた重さを十分に理解することができなかった。
どう感じればいいのかも、わからなかった。
そして、今日に至っても、私はその答えをまだ見つけられずにいる。