消えた火の記憶
中秋節は、香港で育った子どもにとって、何よりも特別な祭りだった。
旧正月のように、親戚の家に何時間も座らされ、大人たちに決まりきった祝詞を唱える必要もなかった。そのかわりに、中秋節は、親戚でもなく、学校でもない、もっと自由な関係の友だちと夜に遊べる、めったにない機会だった。
この日、学校はいつもより早く終わった。
教室の空気は、いつもよりどこか軽かった。
美術の先生が黒板の横に立ち、竹ひごと薄紙を使った提灯の作り方を、静かに、丁寧に教えてくれた。紙を折る音、糊を指でこする音、乾いた笑い声――子どもたちの手元からは小さな工夫が生まれ、それぞれの心がこもった提灯が、午後の日差しの中で半透明に光っていた。
できあがった提灯を、まるで宝物のように抱えて家に帰ると、夕暮れを迎える空がだんだんと深い藍色へと沈んでいった。家のベランダからは、隣のビルの壁に映る夕陽がじわじわと形を変え、風に揺れる洗濯物の隙間から、夜の気配が忍び寄ってきた。
夜の7時か8時になると、近所の子どもたちは思い思いの提灯を手に、公園の隅に集まり始めた。
薄明かりの中、提灯の形や色が少しずつ浮かび上がってくる――折りたたみ式の円筒型、顔のついた月型、そして四つ足で引っぱるウサギ型。暗がりの中を、色とりどりの灯りがふわふわと移動していく様子は、まるで見えない糸で繋がれた星々のパレードのようだった。
ウサギ型の提灯は特に人気があった。
体の中にロウソクを灯しながら歩くその姿は、ペットというより、小さな精霊のように見えた。私はいつも、他の子どもが持っている大きな提灯よりも、掌に収まりそうな小さなものを選んでいた。ロウソクの炎が、その狭い空間を通り抜けていく様子――あばら骨の影を通って、腹の奥の暗い場所へと、ほのかに染み込んでいく。その色のグラデーションは、静かな呼吸のように揺れていた。
私は地面に10本、あるいは20本のロウソクを並べて火をつけ、風に揺れる炎をじっと見つめていた。地面は夕方の陽をまだかすかに残していて、肌に触れるとほの温かかった。ロウソクの火は、炎というより、小さな命のように見えた。すぐそばで、姉が私の様子を見守っていた。火遊びをしすぎないようにと、静かに目を光らせていた。
年上の子どもたちは、もう少し過激な遊びに夢中だった。
煲蠟と呼ばれる、月餅の缶を使った炎の儀式。ロウソクを何本も立てて火をつけ、溶けたロウが真っ赤に煮えたぎると、その中に水を注ぐ――その瞬間、巨大な火球が爆発し、あたりの空気が一気に熱くなる。目を閉じていても感じられるような熱風が顔に当たった。火が舞い、空気が震え、そしてすぐに夜の静けさに戻る。その一瞬の高揚と静寂が、今も記憶の奥で交互に鳴っている。
けれど、それはあまりに危険だった。
火傷をした子どもが何人も出た年、政府は「煲蠟」を正式に禁止した。火遊びの祭りは、静かに終わりを迎えた。
90年代の終わり頃から、提灯はロウソクから電球に変わっていった。
プラスチック製のものには、小さなスピーカーが仕込まれていて、音楽が流れるようになった。どこかで買った電池式の提灯が、「エリーゼのために」を唐突に鳴らし始めても、誰も不思議には思わなかった。提灯の形はますます多様になり、ハローキティやジュウレンジャーが中秋節を歩く風景が、どこかで当たり前になっていった。
2000年代の初めには、もう誰もロウソクを地面に並べなかった。
芝生の隅でゆらめいていた小さな火たちは、音もなく、まるで命の終わりのように消えていった。
秋の夜風の中に混じる、焦げた甘い匂い。
指先に残っていたはずの温もり。それはもう、現実のものではない。
でも私は今でも時々、それをふと思い出す。
それは、かつての香港にほんのりと灯っていた、消えてしまった火の記憶だ。
誰にも気づかれずに消えたその光が、今でも私の中に、静かに燃え続けている。