赤い花模様の向こうに
香港の公営住宅では、一人あたり七平方メートルの居住空間が標準とされていた。けれど、それはあくまで紙の上の話で、実際には四人家族が二十五平方メートルにも満たない部屋で肩を寄せ合って暮らすのが普通だった。隣の家族の咳払いが壁越しに聞こえ、深夜に誰かが目覚ましを止め損ねた音が、目を閉じていても耳に届いた。プライバシーという言葉は、ただの理想にすぎなかった。
うちのアパートも例に漏れず、長方形の一室にすべてが詰め込まれていた。バスルームとキッチン以外には仕切りがなく、寝るときにはマットレスを敷き、朝になるとそれを立てかけて日常を取り戻す。その反復に、生活の輪郭が刻まれていた。
バスルームは、畳一枚ほどの空間にトイレとシャワーが並び、狭さの中で互いに押し合って存在していた。シャワーを浴びると、壁のタイルがぬるりと温かくなり、湿気が鏡を曇らせた。吊るしていたタオルも、トイレットペーパーも、否応なく水を吸い込み、日が落ちても乾ききることはなかった。濡れたタオルはリビングの端に引っかけられ、その湿った布地から漂う、少し酸味のある匂いが、夜のテレビの音に静かに混じっていた。
窓は一面だけにあり、風はほとんど通らなかった。多くの家庭にはエアコンがあったけれど、電気代を考えると、スイッチを入れることは月に一度あるかどうかだった。だから私たちは、昼間は玄関のドアを開け放ち、風が部屋の奥まで届くのを願った。
その玄関の外には、「鐵閘」と呼ばれる、重い折りたたみ式のゲートがついていた。格子状の鉄の棒が縦横に組まれていて、内側から見ても外側の光景が透けて見えた。その鉄は、真夏には熱を吸い込み、手を触れるとじりっと皮膚を焼いた。開け閉めのたびに、ぎしり、と金属が軋む音がして、その音の重たさに、私はいつも身構えた。取っ手を両手でつかみ、体の重心をかけてスライドさせる。その感触は、今でも手のひらの奥に残っている。
鐵閘の音には、人の気配が宿っていた。誰かがゲートを開けると、その音の速さや響きで、誰なのかをなんとなく察することができた。隣のおばあさんの音は、ひとつひとつの動作が慎重で、やさしい音だった。中年の男性の音は、無遠慮で短く、まるで日々の苛立ちがそのまま鉄にぶつけられているようだった。子どもたちの音は、軽やかで、音が転がるようだった。
私たちのようにドアを開けて暮らす家々では、ささやかなプライバシー対策として、鐵閘の上部に薄い布を張る習慣があった。その布は、視線を遮るには十分でも、光を遮るには足りなかった。夕方、部屋に灯りをともすと、布の向こうに人影が透けて見えた。誰かが髪をとかしている気配や、首を傾げてテレビを見ている様子が、にじむ光の中に浮かんだ。
覚えているのは、向かいの家が使っていた布の模様だ。芝生のような緑の地に、赤いデイジーの花が散っていた。風が通ると、その花がゆっくりと揺れ、まるで布の向こうに本物の草原が広がっているように見えた。私はよく、ドアの脇に座り込んで、その揺れる赤い花をじっと眺めていた。風が強くなると、布がふわりとめくれ、隙間から向かいの部屋の蛍光灯の光がこぼれた。
不思議なことに、自分の家で使っていた布の柄は思い出せない。毎日目にしていたはずなのに、記憶の中では空白になっている。なのに、向かいの赤い花だけは、今も鮮やかに思い出すことができる。
それはきっと、あの夏の暑さの中で、唯一風にゆれていたものだったからだと思う。