届かない光の部屋で
二十五平方メートルという限られた空間でも、人は驚くほど多くのものを詰め込むことができる。小さなL字型のアパートの中で、両親は、私と姉の勉強机、ベッド、リビングスペース、そして母の裁縫の仕事場までを、何とか共存させようとしていた。
ほとんどの家庭では、寝室とリビングをきっちりと分ける習慣はなかったけれど、父はほんの少しでも私たちの生活に境界を持たせようとした。彼は手作業で、アパートの真ん中に石膏の壁を建てた。唯一の窓がある側を、私と姉の寝室兼勉強スペースとし、玄関に近い側をリビング兼母の裁縫スペースにした。
けれど、その壁は、同時に光と空気の大部分を遮ってしまった。父はそれを気にして、壁の上部に長方形の開口部を作った。その開口部は、二段ベッドの上段に寝ていた私の目の高さにあり、朝起きると、窓の向こうにある空の色がそこから小さく覗いた。けれど、リビングには、昼間でも薄暗い静けさが漂っていた。
母の仕事机は、部屋の最も暗い隅に置かれていた。そこで母は、一日中ミシンに向かって、布に命を吹き込むように服を縫っていた。機械の「タタタタ……」という連続音が、ラジオの人の声と重なって、小さな空間の中を絶え間なく流れていた。
母の背後の壁には、色とりどりの円錐状の糸がずらりと並んでいた。象牙色、漆黒、真紅、ネイビーブルー……なぜか、黄色の糸は見た記憶がない。私はその糸のひとつを手にとって指に巻きつけ、自分が円錐になったつもりで、くるくると回って遊んでいた。母が新しい色を加えるたびに、その一本がどんな名前を持っているのかを想像するのが楽しかった。糸は、ただの道具ではなく、小さな魔法のように見えた。
アパートの中で、いちばん「いい場所」は、勉強机が置かれた窓際だった。午後になると、クリーム色に塗られた木枠を通って夕日が差し込み、机の上に柔らかな影が落ちた。そこには風も通ったし、光も満ちていた。
けれど、私はその机にあまり座ることがなかった。一日のほとんどを、リビングの母のそばで過ごしていた。宿題をするふりをしながら、ミシンの音と母の背中をじっと眺めていた。窓の外の景色が好きではなかったのか、ひとりで机に向かうのが苦手だったのか、それとも母の側にいたかったのか、自分でも理由ははっきりしない。ただ、その時間が、心のどこかにすとんと収まっている。
リビングの反対側には、私たちの食卓があった。固定された四人掛けのテーブルを持っていた家は珍しく、多くの家庭は、アルファベットが印刷された子ども用の折りたたみテーブルで食事をしていた。うちのテーブルは、脚が少しきしんでいて、誰かが立ち上がるたびにガタッと音が鳴った。
そのテーブルの横には、テレビはなかった。代わりに、少し変わった形の戸棚が置かれていて、その上には観音像と、白いフレームに収められた楕円形のイエス・キリストの肖像画が並んでいた。観音像は母のもので、キリストは、祖母から贈られたものだった。私たちは夕食をとるとき、その二つの神さまの顔を見つめる形になった。東洋と西洋が、同じ小さな戸棚の上で無言に並んでいた。誰もその配置について疑問を口にすることはなかったし、何かを説明しようとしたこともなかった。ただ、そこにあるものとして、私たちは毎日それを見つめ続けていた。