善導の名を知らぬまま
私が通った小学校は、香港のほとんどの公立学校と同じく、カトリックの宣教師団体によって設立・運営されており、「善導小学」という名前を与えられた。それは「美徳に導かれる」という意味だが、6年間をそこで過ごしながらも、当時の私にはあまり意味をなさなかった。数年前になって、もう二度と足を踏み入れたくないと誓った廃墟への無意識の冒険のように、記憶を再訪して初めて、自分の経験を理解し、それと和解することができた。
物事が離れるほどにより鮮明になることがあるのが、不思議に思われることがある。特に、もう戻れない時には。それは、まるで月で生まれ、極端な温度と息苦しい空気しか知らずに育った者が、地球から星空を見上げることで初めてその美しさと偶然の妙を悟るようなものだろう。
学校は家から一本道の「廣利道」を15分ほど歩いた先にあった。私はいつも一人で学校に歩いて行き、その方が好きだった。その道は丘の麓に沿って造られていて、広がるリボンがテーブルの上に伸びていくかのように静かな住宅地を伸びていき、一方には公営住宅が並び、もう一方にはカトリックの教会と学校が並んでいた。
学校の列は丘の側に建っており、各校舎の入り口へと続く階段が枝分かれした秘密の道のように側面に設置されていて、学校がその奥深くに隠れているように感じられた。私はいつもこの側の道を歩くのが好きで、それが冒険の旅のように感じられた。
香港の基準では歩道はかなり広く、他の生徒や親にぶつかる心配なく、ぼんやりと歩けるほどだった。横道もなく交通の妨げもないため、私はしばしば想像の中に没頭し、掲示板の秋の遠足の行き先を読んだり、バスケットコートで遊ぶ高校生の会話を聞いたり、何十メートルも続く風化した花崗岩の壁の粗いが精巧なテクスチャーを観察したり、道路の側に停められた車の中を覗き込み、その持ち主の生活を思い描いたりしながら歩いたものだ。夏のモンスーンの季節には雨が降ると、階段から歩道に滝のように流れ落ちる雨水を眺めることもあった。
私の学校は、この辺りで最大の学校で、道のほぼ終わりのあたりに堂々と構えていた。学校の外壁には巨大な壁画が特徴的だった。4階建ての高さで通りを見下ろす壁画には、聖人の像が描かれており、光輪に包まれたその姿は赤いローブをまとい、片手を差し出して施しを示していた。その周りには幽霊のような影が空に向かって手を伸ばし、希望や絶望を表すように両手を広げていた。その壁画をしっかりと見るためには、白いストライプの横断歩道を渡り、黄色い丸いランプが乗った白黒の縞のポールの横に立ち、感嘆しながらその絵の細部を理解する必要があった。
子供の頃、学校へ通っていた記憶をさまようと、今でもその耳をつんざくような、急速に鳴り響く金属の学校のベルの音が蘇り、体と心の自由をすぐに手放すことを求められたことに衝撃を受ける。しかし、角には今や少し小さく見える赤い聖人が静かに立ち続けている。彼が私に何かを伝えたがっているのか、それとも私だけが彼に助言を求めたがっているのか、時々考えることがある。