東京街、記憶のはじまり
私は、1990年代の香港、深水埗で育った。九龍の片隅にあるこの街は、どこか影のような場所だった。家族が暮らしていたのは、公営住宅の中でも最も古く、最も安価な建物だった。
私の家があった通りには「東京街」という名前がついていた。東京と呼ばれてはいたが、そこに日本らしさは微塵もなく、名前の由来も誰も知らなかった。ただ、今になってみれば、あの通りに導かれたこと自体が、遠い未来とつながっていたのかもしれない、と思うことがある。
建物は24階建てだった。私たちは2階に住んでいたが、その階はおそらく最も過酷だった。上の階の住人たちが投げ捨てた物が、次々と私たちの前に落ちてきた。果物の皮、食べ残し、空き缶、時には使用済みのタンポンまで。共用バルコニーには、そういった物が1年近くも放置され、年に一度の清掃の時まで片づけられることはなかった。
母は、掃き出し窓のカーテンをほとんど開けなかった。開けると、ただでさえ狭い室内にまで、外の気配が染み込んできてしまうからだ。外の共用スペースでは、老人たちが朝から晩まで、賭け事をしたり、おしゃべりをしたりしていた。彼らの声は、壁を通り抜けてくる。家族の不満、仕事への愚痴、人生のやるせなさ。誰かが語るその言葉が、まるで私自身の内側に、ひとつひとつ沈んでくるようだった。
東京街の通りには、幅10メートル、深さも同じくらいある開放された下水溝があった。日本の小川のような清らかさは、そこにはなかった。濁った水が流れ、プラスチックの袋や腐った野菜が引っかかっていた。けれど、そのすぐ脇で、屋台の人たちは器用に鉄鍋を振り、香ばしい焼きそばや点心を売っていた。汚水の匂いとごま油の匂いが入り混じって、鼻の奥に残る。それでも、誰も顔をしかめたりはしなかった。街の匂いは、あまりに当たり前すぎて、誰にとっても空気の一部になっていたのだと思う。
子供時代の記憶を探るとき、まず浮かんでくるのは音と匂いだ。老人たちの笑い混じりの怒鳴り声、濡れたダンボールのような匂い、そして窓の外に積み上がる無数の色とりどりのゴミ。それらは決して美しいものではない。けれど、誰にも書き換えることのできない、私の生の輪郭を形づくっている。
もうあの場所に戻りたいとは思わないし、同じ生活を再び送りたいとも思わない。けれど、時折、自分の中の何かが、あの風景に呼び戻されるのを感じることがある。まるで、長い間沈黙していた声が、記憶の底から微かにさえずるように。