第74話 石けん作り終盤
石けんを手に取ったアウレリウスは、表面を撫でた。
「なるほど、きちんと固まっている。小さく切り分ければ量り売りができて、持ち運びも便利だ」
「はい。もう少し乾燥させて固くしますが、これでほぼ完成です。作る方法は難しくないので、子供たちをもっと雇ってもいいですし、町の大人やランクの低い冒険者の手を借りてもいいかと」
「海藻は西の漁港の新しい産物になる。あそこは貧しい村だ。収入が増えるのは歓迎だろう」
「まずは石けんの有用性を町のみなさんに知ってもらってから、ですね」
「ああ。町の公衆浴場を一つ使って、石けんの試用配布をしてはどうか? ユピテル人と風呂は切っても切り離せない関係。今までの垢すりよりもさっぱりとするとなれば、受け入れやすいだろう」
「……ご配慮ありがとうございます」
他人行儀なユーリの言葉に、アウレリウスは不審の目を向けた。
「どうした、急に。改まって」
ユーリは表情を消して視線を下げている。
「いえ……アウレリウス様は多忙の身なのに、いつもこうやって私に時間を取ってくださるから。もっと遠慮した方がいいかと思っていたんです」
「なに……」
アウレリウスはショックを受けた。彼にとってユーリとの時間はもはや楽しみ以外の何物でもない。
それに彼女の話は町のためになる提案が多くて、アウレリウスの仕事と重なっているのだ。
内心の動揺を押し殺し、なるべく淡々とした口調で彼は言った。
「遠慮の必要はない。きみの話はカムロドゥヌムの産業振興や雇用の問題を解決するヒントになっている。有意義な時間だ」
するとユーリは下を向いたまま答えた。
「そうですね……。仕事関係に絞って、あまり余計なことは言わないようにします」
アウレリウスはさらに焦った。そういう意味ではないのに。
「何気ない雑談から生まれるアイディアもある。きみはこれからも、私の話し相手になってほしい」
「…………」
ユーリはやっと視線を上げた。けれどその目には、困惑と疑念とが宿っている。
「いいのでしょうか」
「無論だ」
アウレリウスはユーリを安心させてやりたくて、内心、必死で言葉を探す。
「きみと話していると、楽しいんだ。私は仕事上、時間が取れないときもあるが。それでもできるだけ一緒にいたいと思っている」
ユーリはまっすぐに彼を見ている。
その瞳に喜びの光が灯って、どんどん輝きが大きくなる。
そして――ついには花がほころぶような微笑みが彼女を彩った。
彼が思わず見とれてしまうような、幸せに満ちた笑みだった。
「アウレリウス様、ありがとう。あなたにそう言ってもらえて……嬉しいです」
それからのことは、アウレリウスはよく覚えていない。ユーリが帰ったので見送って、気がついたら執務机に突っ伏していた。
ここ最近は徹夜もしていないし、疲れがたまっているわけでもない。なのに体に力が入らない。しかもそれが不快ではなく、むしろ幸福感を伴っているのだ。
「アウレリウス様、失礼します……!?」
ペトロニウスが部屋に入ってきて、主の様子にぎょっとしている。
「なんだ。どうした」
かろうじて体を起こした彼に、ペトロニウスが言う。
「訓練監督の時間です。体調不良であれば、なくしても構いませんが」
「問題ない。すぐに行く」
立ち上がった彼は既にいつもの様子である。
しかしその日、訓練場の兵士たちはいつもよりもやけに速いテンポの訓練をやらされて、疲労困憊する羽目になるのだった。
ユーリは他の仕事と並行して、石けん作りに勤しんでいる。
西の海岸からたくさんの海藻を灰にして取り寄せ、獣脂に混ぜていく。採集の危険がない分、アイビーではなく海藻をメインで作ることにした。
作り手は子供たちの他、町の女性たちも雇った。石けん作りは特に力も必要ないし、危険もない。
まだ事業として軌道に乗っているわけではないので、給金はあまり出せなかったが、ユーリがまた新しいことを始めたと評判になって、沢山の人が集まった。
獣脂のもととなるレッドボアは、カレーに使うホーンラビットなどと比べれば手強い魔物である。
狩りの適性はCランク以上の冒険者となっている。
脂の他には毛皮と牙が素材になる。今はまだ夏だが、いずれ冬になれば毛皮の需要が増す。他の素材と合わせて、毛皮も倉庫で保管しておくことにした。
そして積極的に狩るべき魔物がまた増えたことで、魔物分布図の精度も上がっていく。
魔物分布図はスタートしてまだ数ヶ月。季節も春と夏のサンプルしかなく、これからもっとデータを増やさねばならない。
それでもティララたち冒険者ギルドの職員が真面目に取り組んでくれたおかげで、魔物の生息域はある程度推定できるくらいになってきた。
そのためにランクの低い冒険者が思わぬ事故で大怪我をしたり、死亡する事例も減ってきている。
結果が出てきたので、冒険者もギルド職員もこの地味な作業をおろそかにしないで続けていた。
今日もユーリが鍋で脂を煮ていると、ファルトがやって来て言った。
「ユーリ姐さん、思うんだけどさ。いちいち脂を煮なくても、ナイフでこそげ取って石けんのもとにしちゃえばいいんじゃない?」
「ダメよ。それをすると、どうしても肉のかけらが入ってしまうでしょう。そうしたら肉が腐って臭くなったり、不潔になったりする。ただでさえこの脂は臭いがきついもの。なるべくマシにしないとね」
「へぇ……。いつものことだけど、姐さんはいろんなことを考えているよね」
「石けんは、本当は植物の油で作ると品質がいいのが作れるんだけどね。オリーブの木やココナッツの木は、ブリタニカにはあまりないもの」
「もっと南の方の植物なんだろ、それ」
「うん、そう。だから私たちはたくさんあるレッドボアの脂を使うの」
ファルトは納得して石けん作りをやってくれた。
日に日に木箱に入れた未熟成の石けんが積み上がっていく。当面の量を確保する頃には、石けん作りに着手してから一ヶ月ほどが経過していた。
そろそろ夏も後半。
公衆浴場で石けんをお披露目する日が近づいていた。