第72話 帰り道
「アザラシは夏の季節、群れでもっと北に移動していくんですが。たまに取り残されて入江に残るやつがいるんですよ。あいつらは脂が豊富で肉もうまい。冬のいい獲物です」
「魔物ではなくて、普通の動物?」
「ええ。海の中じゃあ素早いが、日向ぼっこで陸に上がれば誰でも狩れる生き物ですよ。ま、海藻の中にいるんじゃ手の出しようがない」
ユリウスは話を聞きながら、布を借りて体を拭っている。
「あぁ、背中まで手が届かないなあ。ユーリ、ちょっと拭いてくれない?」
そんなことを言って笑うので、ユーリは海藻の葉を顔に押し付けてやった。
「わあ、ぬめぬめする!」
「あまりからかわないでね、超一流の剣士さん」
「からかってないよ。風邪を引いちゃうから頼んでいるのに」
「じゃあ、おいらがお手伝いを」
漕手が言ったので、ユリウスは微妙な顔になった。ユーリは吹き出す。
「ちぇ。ユーリに優しくしてもらうチャンスだったのに。まあいいか、さっき、船に上がるときにしっかり手を握ったからね」
「なんでそういうことばっかり言うのかしらね……」
「帰ったらアウレリウスに自慢しようと思って!」
「えぇ? なぜ?」
髪から海水を滴らせながら笑うユリウスは、いたずらな少年のような表情である。
ユーリは本気にしないでおこうと思って、入手した海藻の観察を始めた。
だから彼女は気づかなかった。
彼女の横顔を眺めるユリウスが、笑みの色合いを少し変えたことを。無邪気さが消えて熱を帯びた瞳になっていたことを……。
入手した海藻の枝は二メートルもの長さがあり、たくさんの短冊状の細長い葉がついていた。
ユーリは漁港で一日、それを天日に干す。ぬめぬめがだいぶマシになったので、丸めて袋に入れて持ち帰ることにした。最初の日に海岸で拾った海藻類も一緒だ。
帰りはまた、ウルピウスの防壁に沿って歩いて行った。
ところが出発して二日目、ユーリの足に豆ができて潰れてしまった。
ユーリは最初はごまかしていたが、とうとう足を引きずり始めてバレてしまったのである。
「どうしてここまで我慢するかな。もっと早く教えて」
ユリウスは心配と怒りが入り交じったような表情をしていた。
「足手まといになりたくなくて……」
ユーリはしょんぼりとする。
「体力で僕らと比べるのが間違っている。こうなる方がよほど足手まといだよ」
「おいおい、ユリウス。やめなよ」
ロビンの制止にユリウスはかろうじて言葉を飲み込んだ。
ヴィーが荷物袋を探って小さな壺を取り出した。
「血止めの軟膏。つけてあげる」
「僕がやる」
「えっ、いいよ、自分でやるよ!」
「ダメだ。ユーリに任せておくと心配が尽きない」
ユーリは路傍の大きめの石に座らされて、靴を脱がされた。豆は両足にできている。
ユリウスは彼女の前にひざまずき、丁寧に軟膏を塗り込んだ。
シロが心配そうに寄ってきたが、ユリウスはにべもなく追い払った。
美しい銀の髪がユーリの足元にある。整った顔を地面に近づけて、彼女の足の世話をしている。
ユーリは痛いやら恥ずかしいやらで身の置き場のない気分になる。ロビンとヴィーに視線で助けを求めるが、そっぽを向かれてしまった。
膿んで血が滲む豆にユリウスの指が滑る。彼の手指は熟練の剣士らしく、鍛えられて硬く大きい。
軟膏のしっとりした感触と相まって、ユーリはとても落ち着かない。足の指の間に彼の指が這った際は、思わず声を上げてしまった。
「もういい! もうじゅうぶんだから!」
「ダメ。最後までしっかり塗っておく」
過剰なほど丁寧に塗り込まれて、ようやく布を巻いて終わったときには、ユーリはぐったりしてしまった。
「これでよし。それじゃ、行こうか」
そう言って立ち上がったユリウスは、当然のようにユーリを横抱きに抱き上げる。
人生初のお姫様抱っこに、ユーリは大層焦った。
「ちょ、ちょっと待って! おろして! 歩けるからっ!」
「あんな豆だらけの足で歩けるわけないだろう。こら、暴れないで。大人しくして」
ユーリはジタバタとしたが、力でユリウスにかなうはずもない。がっちりとホールドされて諦めざるをえなかった。
ユリウスが言う。
「よし、行こう。今日はこのままペースを早めて、カムロドゥヌムまで行ってしまおう」
本来の日程であれば、今日は兵士詰め所で一泊して明日の昼頃にカムロドゥヌムに到着する予定だった。
やはり自分の存在が足を引っ張っていたのだと、ユーリはがっかりする。
そうして歩き出した彼らの足はとても速い。特に走っているわけでもなく、一見すると普通に歩いているだけなのにスピードが違うのだ。意外なことにシロも普通の顔でついてくる。
そしてその合間にユリウスが、
「ユーリは羽のように軽いね。ちゃんと食事はとっている?」
とか、
「この、腕にすっぽりおさまる感じ。なんか、いいなあ」
とか、挙句の果てに、
「なんだか体温が高くない? 大丈夫?」
と言って綺麗な顔を寄せてくるので、ユーリは生きた心地がしなかった。
いくら鈍い彼女でも、ここまでくればからかわれている……というよりも口説かれているのではと思う。
そこで彼女は、勇気を出して言ってみた。
「あの、ユリウス。私はあなたに対してそういう気持ちはないから、やめてくれないかな」
「んー? そういう気持ちってどういう気持?」
明るい口調で返されると予想しておらず、ユーリはもごもごと言った。
「えっ? その……恋愛感情とか」
「そうなの? 傷つくなあ。でも気にしなくていいよ。ユーリはユーリ、僕は僕だから」
やっとの思いで言ったユーリに対し、ユリウスはカラリとしている。
「……それは、どういう意味?」
「それはねぇ……内緒! あははっ」
朗らかに笑われてユーリは反応に困った。ユリウスの肩越しに振り向いてロビンとヴィーを見るが、二人は肩をすくめている。
ユーリはどっと疲れを覚えた。諦めてユリウスの首につかまり、大人しくする。
そんな彼女の様子に、ユリウスはとても嬉しそうだ。