日出最子の千里眼
ぼくらは京堂さんの案内で、階段を下りながら各人の部屋に案内された。
階段は、塔の中央にあるエレベータシャフトに時計回りに巻き付くような形で伸びている。大人一人なら余裕で通れるが、二人がすれ違うとなるときつそうな窮屈さ。当時の日本人の平均身長に合わせて造られているせいか天井も低くて、三千目さんなどは物理的に肩身が狭そうにしている。地上階でもそうだったが、階段は地下にあるため当然窓の一つもない。外の景色が見えたところでなんの代わり映えもない鬱蒼とした森しか見えないだろうが、何も見えない閉塞感よりは幾分ましだ。この時ばかりは、自宅となっているボロアパートのガタついた窓でさえ恋しく感じられた。
「へェ、いかにも、医学の研究をするには御誂え向きの場所のようね」
辺りを見回しながら、美神さんが目を輝かせて茶化すようにそう言っていた。オカルト好きなだけあって、狂人博士の噂の舞台である、この異様な空間に気分が上がっているようだ。今にも踊りだしそうである。
〇階から四分の一周ほど下ると階段の途中に扉が現れた――これが中二階の部屋だ。扉に一一と彫られたプレートが鋲で固く打ち付けられている。が、京堂さんはこれを無視し、さらに先へ進む。
半周ほど下ると一階に到達した。と言ってもホールのようなものがあるわけでもなく、階段が一時的に平らになって一階部分の通路になっているだけ。それも半周もしないうちにまた階段になって階下に続いている。これではただの踊り場だ。通路の右側にはエレベータの扉があり、左側には三つの鉄扉が肩寄せ合っている。まるで独房だ。
扉は手前側から一二、一三、一四と並んでいる。その一二号室に日出さん、一三号室にぼくがあてがわれた。
京堂さんから錠と鍵のセットを受け取ると、部屋の前でみんなと別れた。京堂さんを先頭に、ぞろぞろと蟻の行列が続いていく。恐らくこの後も一階ずつ下りながら、一人ひとり自室に案内されるのだろう。
「じゃあ、片藁くん、また後でね」
日出さんともそこで一旦別れ、ぼくは懲役一週間のお世話になる独房の把手を掴んで押し開けた。
――が、いきなりそこで目を見張ることになった。
入口こそ狭いが、思っていたより奥行きがある。上から見れば塔は円形をなしている。この部屋はその一部であるから、奥に行けば行くほど、空間は広がっていく。
しかし、目を惹いたのは外から想像していた以上の広さだけではない。その内装もだ。
床には毛足の長い立派なカーペットが隅まで敷き詰められ、厚みのあるスリッパまで用意されている。土間がないから、もともとは靴を履いたまま過ごす部屋だったことが見受けられるが、これで靴を脱いで日本人的屋内生活が送れそうだ。
入って少し先に扉が一つ――これはトイレとシャワーが一体となった部屋だが、その奥にシックな書き物机と椅子が置かれていて、テーブルの上には小さな電灯もあった。紐を引くと電灯もちゃんと点く。
手前の部屋と奥の部屋は壁で仕切られているが、扉はなかった。奥の部屋は寝室になっていて、木製のベッドとその両脇に深い黒茶色のサイドボードが置かれている。ベッドの反対側の壁際に、煙突のついた石油ストーブがあった。廊下と同じくコンクリート打ちっぱなしの部屋の壁からは、外の冷気が直接伝わっているかのような肌寒さを覚えたが、暖を取れるのであれば一安心だ。
右脇のサイドボードの上には傘を被ったランプと固定電話。ここでは携帯の電波は繋がらない。船を降りたときにも、島の洞窟を上るときにも確認したから間違いない。しかし、ここに電話があるということは、本土までケーブルでも引いて繋がるようにしているのだろうか。
ベッド左脇のサイドボードには金庫。三十センチ角くらいの、それなりに大きな金庫だが、大した貴重品など持ち合わせていないぼくには無用の長物である。
荷物を部屋の隅に置いたら、ベッドに掛けられている毛布に目が留まった。その魔力に吸い寄せられるように倒れこむ。羽毛だ。ふかふかの毛布に包まれると、これまでの疲れがそこに吸収されるような心地よさを感じる。今朝早くから半日かけての旅路。長時間同じ姿勢で居続ける辛さだけでなく、冬の北海道の過酷な気候は想像以上に躰を痛めつけていたようだ。それゆえ、冷え冷えとした鉄とコンクリートの塊の中で温もりと安らぎを与えてくれる毛布の存在は、まさに砂漠のオアシスのような神々しさすら覚えるほどの有難みがあった。
しかし、それも長くは続かない。
ガンガン、という耳障りな金属音でハッと身を起こす。すると入口の扉の外から、今の不愉快な音の余韻を掻き消す、清涼剤のような声が聞こえてきた。
「片藁くん、準備はいい? 取り敢えず塔の中を全部見て回りたいの」
「あ、そうだね。今出るよ」
名残惜しくもほんの数秒で毛布と別れる羽目になってしまった。重い体をやっとの思いで起こして、乱れた髪と服を適当に整えてから扉を引き開けると、目の前に日出さんの顔が現れて、一瞬目が合い思わず二三歩飛び退いてしまう。
「失礼だね、そこまで驚くなんて。私だって仮にも女子だよ。そんな反応されたら傷の一つも付くじゃない」
「あ、いや、ごめんごめん。凄い近かったから」
「仕方ないよ、通路が狭いからね。今度から気を付けてほしいね」
「それで、一通り見て回るんでしょ?」
「ええ、時間も時間だし、今日のところはそれくらいしかできないでしょうね」
電波が通じず、すっかり時計くらいの役割しか果たせなくなったスマホを取り出して見ると、午後五時だった。夕食まで三時間ほど。いくら各フロアに三部屋――中二階を含めると四部屋――しかないとはいえ、十階建ての建物を見て回るのにはそれくらいかかりそうだ。
階段を下りていく道すがら、前を行く日出さんが話しかけてきた。
「それにしても凄いね。これだけの探偵が揃うなんて、滅多にないことだよ」
「……何人かはそこまで名探偵って感じではなさそうだったけどね」
船の中の出来事を思い出す。勿論、ぼくの頭にあったのは三千目さんや美神さんだ。最初こそ優秀な探偵という印象だったが、今やすっかり道化者である。
「探偵にもそれぞれ得手不得手くらいはあるわ。それよりも、ちょっとのミスだけで人を判断するのは危険ね。その思い込みが、間違った結果を導き出すかもしれないのだから」
日出さんは中二階の扉を確認した。扉を押し開けてみると、中はぼくの独房と同じ内装になっている。既に依頼主による改装の手が入っているわけで、当然大した発見もなく、ぼくらは廊下に戻って階段を下り始めた。
「相変わらず手厳しいなあ、日出さんは」
「これは探偵の助手だから、というよりも、人として身につけておいた方が良いことだからね」
「助手……か」
自慢ではないが、日出さんと比べたら、ぼくなんてどこにでもいるただの高校生だ。一線で活躍している名探偵である彼女の助手なら、学校内で探したとしても、もっと他に適任がいるように思える。もちろん、そうなっていないのは、ぼくとしては嬉しいことなのだが。
そんなぼくが、一体どうして彼女の助手として活動しているのだろう。ここへ来る途中のオルフェウスの話の時にも、その疑問が頭に浮かんでいた。あの時は体力的に余裕がなかったが、今また鎌首をもたげたそれは、ぼくの中でその根を成長させていた。
「日出さんはさ……、その……なんでぼくなんかを――」
「おー、君たちも探検中?」
ぼくの問いかけは、二階の二三号室から出てきた三千目さんの声に遮られてしまった。
「僕もこれから色々見学に行くところなんだけど……。あれ、もしかしてお邪魔だったかな?」
「そんなことないです」
いつものことだが、にやにや面でそう訊かれると揶揄われているようにしか思えず、半ばムキになってぼくは応えた。
じゃあ一緒にどう、という三千目さんの提案に、日出さんも特に拒絶するでもなかったので、三人で塔内の調査に向かうことになった。そんな状態で日出さんに今の続きを訊くのも憚られる。無駄な意地のせいで、ぼくの疑問はすっかり宙ぶらりんになってしまった。
とはいえ時間はたっぷりあるのだから、焦る必要もないだろう。
気持ちを切り替えて、ぼくは先に進んだ二人の後に続いた。
「僕と同じ階の部屋になったのは、あの小生意気ながきんちょでさァ」
「ああ、一竜くんですか。それはまた災難ですね。散々何かと煽られてましたし」
「部屋に入るときも言われたよ。『ゲェ、おじさんの隣の部屋? いびきとか立てないでよね』ってさ」
いかにも彼が言いそうなことだ。
しかし、三千目さんはさして気にしていないらしく、肩を竦めてにやにや苦笑を浮かべている。
船の中で静かな怒りを湛えていたことがまるで嘘のようだ。やはり彼の怒りの起爆剤はネックレスを馬鹿にされたことにあるらしい。
「そのネックレス、大切な人からの贈り物ですか?」
「ん、ああこれね……。そういえばさっきは船で大人げないとこ見せちゃったっけ。いやァ、恥ずかしいなあ。あんまり僕は怒らないほうで、どちらかというと人を怒らせる方なんだよね。まあ、ほら、いつもこんなにやけた顔してるからっていうのもあるんだと思うけど。いやまあ生まれつきこうだからどうしようもないんだけどね。喋り方とかも他人の堪忍袋を刺激するみたいでさ。……」
三千目さんの長広舌が始まってしまった。ぼくの方は三千目さんの舌を刺激させてしまったみたいだ。
怒りといえば、ローマのセネカだとか。怒っても損するのは自分だけとか、怒りを抑える方法とか、現代の薄っぺらいビジネス書に書いてあるようなことが、二千年も前の彼の著作に載っているとか。仏教では怒りは百八ある煩悩の筆頭、貪瞋痴の瞋で、これに心が侵食されると地獄行きになると仏様も仰っている、とかいうのを左手の人差し指を右手で握りながら言っていた。仏像のポーズでも取りたかったのだろうが、それではどちらかと言えば忍者である。
彼の蘊蓄も一体どこまで本当か、と懐疑的になる。
まるで暴風に立ち向かうかのように、やっとの思いでぼくは彼の口を止めた。
「いや、それはともかく、そのネックレスは大切な人から貰ったんですか?」
「……ああ、そうだったそうだった。このネックレスのことね。いや、悪いね。一旦喋り始めると止まらなくて困るよ。この間もこのお喋りな口のせいで、刑事さんたちを怒らせちゃってさ。関係ないことばかりぶつぶつうるさいって。現場に入らせてもらえないと困るから、暫くは黙っていたけどやっぱり考え事すると自然と頭の中のものが口から出ちゃうみたいでね。気付かないうちにまたべらべら喋っていたみたいで、いや、一体これで何度怒られたものか。……」
一瞬のうちにまた話が脱線し始めた。小学生の頃まで遡って、夏休みに飛行機で父方の実家に返った時に、うるさくしすぎて棒でよくひっぱたかれたとか、授業中に先生よりも自分のほうが皆の前で長い説明をして説教を食らったことなどなど。
さすがにぼくも畜生道だか地獄道だかに墜ちてもいいから、怒りの一つや二つ彼にお見舞いして進ぜようかというところ、見兼ねた日出さんがポンチョの袖を鳴らした。
そしてその小さな両手を三千目さんにかざしてみせる。
「言霊、というのは、言葉に宿る霊力や魂のことを指しますが、言葉にはそれだけでなく、それを発した人の魂も、僅かながら含まれているんですよね。私、それを通して、その人の記憶を見ることができるんです」
唐突に日出さんらしからぬ、スピリチュアルな――ことによっては電波系とも捉えられかねないことを口にしたかと思うと、
「だんだんと見えてきました……。貴方のことが」
両手で三角を造り、動き続けていた彼の口に向けてかざした。どうやらその三角の穴から、三千目さんを透かし見たらしい。
「え――」
不意を突かれた三千目さんの、洪水のような勢いが止まった。
「貴方には兄妹がいますね。男の子がひい、ふう、みい、よう……四人です。女の子が一人。ネックレスは幼い頃に貰ったもので、贈り主は両親――ではないですね。恐らく……祖父母からいただいたもの――かしら。残念ながら、お二人とも既に他界されてしまったみたいですが……、四国にお住まいでいらっしゃったようね」
彼女は超能力者宜しく唸りながら、言葉を更に紡いでいく。
「最近のこともぼんやり見えてきましたよ。空港に降り立った貴方の姿……。タクシーを拾って乗り込むと……、なんだか眠くなってきました。車内で仮眠を取ると、今度はお腹が空いてきます。あっ、窓の外に良さそうなお店が見えてきました。幟が立っています」
三千目さんの顔がみるみるうちに驚愕に染まっていく。
「立ち寄ったお店で海鮮料理を召し上がったようですが、あれ? お口に合わなかったのでしょうか。まだ途中なのにお店を出て行ってしまいました。流石にまだ満腹じゃないようです。コンビニで軽食を買って間に合わせたようですね。そして私たちと合流した……と。なるほど」
日出さんの言葉を一単語また一単語耳にするにつれて、三千目さんはいよいよ目玉が飛び出そうになってしまい、最終的には顔から血の気が引いてしまっていた。
「もう少し心の中を覗いてみましょうか。周囲からは自信家に見られるけれど、実際には自分に自信が持てず、常に不安を抱いていらっしゃるのですね。見かけに依らず繊細な方です」
「な、ど、どうして……」
金魚のように口をパクパクさせる彼にも容赦なく、日出さんはにこりと微笑んで確かめた。
「当たっています?」