双之塔
ひび割れたコンクリートの外壁。窓の一つもない一階建ての小さな円形構造物。その前まで来ると京堂さんは、自然と人工とを分離している、鋼鉄の重々しい両開き扉を引き開けた。鈍い音とともに、積もった雪が扉に押されて玄関前が一掃され、地面が露出した。建物の周りだけ土壌に塩でも撒いたのか、雑草の一本も生えていない。
京堂さんは扉の脇に立って、恭しく頭を下げると、ぼくたちを促した。
「さあ皆様、どうぞお入りください」
ぽっかりと口を開けたその人工物の中はぼんやりひっそりとしている。
何もかもを呑み込んで消化してしまいそうな物々しい雰囲気に、その場にいたほぼ全員がほんのわずかの間怯んでいた。
例外なのはたった一人。極彩さんだ。
「『深淵を覗く時――』云々とは、大昔に老口髭が将来の哲学へ記したものだが、吾輩に言わせれば深淵を畏れるなど、病に侵された男の貧弱な戯言。我ら探偵こそ、それを照らし暴くことのできる光。何を恐れることがあろうか」
彼が塔の中に入ると、その後を腰が引けたまま雨分形さんが続く。そして一人、また一人と堰を切ったように雪崩込んでいく。
訝しがりながら、それでいて興味深そうに屋内のあちこちに目を配らせて、ぼくらはその怪物の口の中に呑み込まれた。一度入ってしまったらもう二度と出てくることができないような、そんな気配を漂わせる怪物の中に。
昼間ではあるが、窓がないせいで中は薄暗い。壁に取り付けられた蠟燭が灯っているものの、その朦朧とした光は建物の中を覆う闇を追い払える力を持ち合わせていない。それどころか闇のほうが今にも光を侵食してしまいそうだ。
背後で扉が閉ざされて、また一段階闇が濃さを増す。
「こちらで御座います。適当なお席にお座りください」
群がった人型のシルエットから声が上がった。京堂さんだ。
シルエットは人だかりから一人離れて、入口から見て右側の扉を開けた。人だかりがそれに倣って、示された部屋の中に吸い込まれる。
室内はそれなりの広さで、中央に大きなテーブルが一つ、その周りに小さなテーブルがちらほらと配されていた。テーブル上には映画かゲームぐらいでしか見たことのない、古色蒼然とした三つ又のキャンドルスタンドが置かれていて、テーブルクロスを暖色に染め上げている。
状況設定からしてそうだとは思っていたが、いよいよもってこれは幽霊屋敷の様相である。首に手術痕のある博士の一人や二人、中を徘徊していても不思議ではない雰囲気だ。
言われた通り、ぼくらは手近の椅子に腰を落ち着けた。
「それでは僭越ながら、わたくしからこの建物について簡単なご説明をさせていただきたく存じます」
ぼくらの前に立った京堂さんの顔は、灯で揺らめき千変万化しているように見える。
「こちらは食堂で御座います。お食事はこちらで、朝食は午前八時、昼食は正午、夕食は午後八時からとさせていただきます」
「隣の部屋は厨房ということで?」
三千目さんが指さした先には、先程ぼくらが入ってきたのとは別の扉があった。
「いえ、あちらは謂わば準備室とでも呼ぶべき場所で、簡易的な調理器具のみ設えられて御座います。実際に調理を行う厨房は地下六階に御座います」
「へェ、じゃあわざわざ階段で運ぶんだ?」
ご苦労ご苦労と上空百メートルの高みから見下ろさんばかりの一竜くんであるが、いいえ、と一向に平然と応える京堂さん。しかし微笑は陽炎で醜く歪んだように見えた。
「幸い、エレベータが御座います。エレベータは塔の中央を貫いて御座いまして、先程の玄関ホール正面の扉を抜けたところに御座います。また、それとは別に準備室には厨房直通の運搬用小型エレベータが御座いますので、料理はそちらでお運びいたします。しかしながら、使用人はわたくし一人しかおりませんので、申し訳御座いませんが、配膳は皆様にもご協力いただければと存じます」
会った時から薄々感じていたが、御座いますが過ぎる。しかし特に突っ込みも入らないので、ぼくもそこには触れないので御座います。
「エレベータ? 動くの?」
「皆様がお泊りになるということで、わたくしどもで最低限の修繕・準備を行いました。とはいえ、このエレベータはもとからこの施設に取り付けられていたもので、同じく地下六階に御座います、電気室で自家発電した電力で動かして御座います」
すると三千目さん、ふゥむともっともらしく顎を擦って尋ねる。これまで何かと馬鹿にされてきたせいで彼の株は暴落中だが、面目躍如目指し頑張って言動だけでも探偵らしさを心掛けているようだ。
「最低限の修繕……。その際にもお目当ての秘密とやらは見つからなかったんですね?」
しかし京堂さんが応じる前に、どこからともなく溜息が漏れ聞こえた。
「はァ……、そんなこといちいち訊かなくてもわかるでしょ」
「自明。その禁断の宝物を発見せしめることができなかった故に、こうして我々が招集されたのであろう」
どうやらここにいる――三千目さんを除いた――探偵たちには承知の事実だったようだ。明示的に文句を吐いたのは一竜くんと極彩さんだけだが、雨分形さんも額を抑えているし、美神さんに至っては便所の虫けらでも見下すかのような侮蔑の眼差しを向けている始末である。またしても彼の株はストップ安だ。愈々もって禍のもとの口を閉じていた方が良いのではないか。
「仰る通りで御座います。さて、説明に戻りますが――」
京堂さんのおかげで、三千目さんへの非難は止んだ。暗かったせいか、三千目さんは自分が全員から冷笑されていたことには気付いていないようで、まだ頻りに中空に物思わしげな視線を漂わせながらぶつぶつと唸っている。ここまでくると吞気というか能天気というか、少なくとも折れない心は持ち合わせているようだ。
京堂さんは手で指し示して続ける。
「食堂とホールを挟んで反対側に御座います部屋が当時の所長室で御座います。地上階はこれですべてで御座います。この施設は地上一階、地下九階からなって御座いますが、便宜的にこの地上階を〇階、〇階から下方に向かって一階、二階……と呼ぶことといたします。その一階から五階までが当時の寄宿舎部分で、六階が厨房及び電気室、七階から九階までが研究室となって御座います。各階に三部屋ずつ、各中二階に一部屋ずつ御座います。皆様には一階から五階の部屋にお泊りいただくことになります」
「人が泊まれる部屋になっているんでしょうね?」
美神さんの声だ。薄闇の中でも白とピンクの帽子とドレスは目立つ。他の人よりも明るく映えているのは、無論色だけでなく、その異様な装束の存在感もあるだろうが。
「確かにわたくし共がここを訪れた際には、それはそれは酷い有様で御座いましたが、新調した家具を運び入れましたので、御心配には及びません。一週間程度の滞在でしたら問題なく使用いただけることと存じます」
「なら良いのだけど。褒めて遣わすわ、京堂守富」
「しかしながら、一つ問題が御座いまして……」
「――と言いますと?」
美神さんが顔を顰めるが、日出さんが先を促したので、彼女が愚痴を差し挟む隙がなくなった。
「はい、お部屋の鍵のことで御座います。もとが一部屋を複数人で共有するようになっていたためか、内側からつまみを回してかけるロックしかないので御座います」
「鍵を人数分用意して管理させるのが面倒だったんでしょうか」
「当時の事情までは存じ上げませんが、とはいえ流石にそれでは何かと不用心かと存じましたので、わたくし共のほうで、こちらに御座います錠と鍵をご用意いたしました」
背中のリュックから取り出しでもしたのだろうか、彼はいつの間にか手にしていた錠前と鍵をテーブルの上に載せた。見た目はよくある無骨な南京錠だが、鍵の方はカードになっていて、ちぐはぐな印象を受ける。
「外出の際は、扉と壁面に設置いたしました金具の穴に、こちらの錠の芯棒を通して鍵をかけるようになさってください」
「心外だな。俺たちを信用してねえッてか?」
唐突に声を荒らげたのは、またしても番田さんだ。やたらと短気で何かあるとすぐこれである。
ぼくの苦手な人種だ。怒っている人を見ると心臓の鼓動が自然と高鳴ってしまう。
「いえいえ、とんでも御座いません。皆様方には是非とも、安心して心行くまで施設内を探索していただきたいので御座います。わたくしは今回お呼びいたしました皆様の中に、そのような不埒な輩がいるなどとは到底考えられないので御座いますが、なにぶん曰く付きの場所で御座いますから、慎重に慎重を期すのがよろしいかと存じまして」
「フン、なにが曰く付きだ。戦時中の頭イカれた医者がまだここに潜んでるってか。ただの都市伝説だろうが。んなの真に受ける程、俺は間抜けじゃねぇ」
「まァ、先生、そんなこと仰って……」
暗闇から忍び寄るようにして聞こえたその声は、船からここに来るまでに初めて耳にしたものだった。となれば、恐らく番田さんに付き添っていたあの幽霊女のものだろう。容姿に違わず声まで幽けきものだ。掠れているが、妙に艶めかしいそれは、どこかこの世ならざるもののようにさえ聞こえる。
「麗しい女の方がいらっしゃるからって、またいけないこと考えているんでしょう? フフ、寂しかったらワタシがいるじゃありませんの……」
「うるッさい、余計な事ぬかすなッ!」
バシッ――。
びっくりした。
番田さんがその幽霊をひっぱたいたのである。頬を抑えて頽れる幽霊。
ぼくは思わずその間に入っていた。
「ちょっ、ちょっと、暴力はさすがにまずいですよ。ましてや女性に手をあげるなんて……」
「何がまずい? 男だろうが女だろうが関係あるか。俺を不快にした奴には躾を与えてやんだよ!」
ぼくまで殴りつけそうな雰囲気だったから、腕を前に出して防御姿勢を取った。が、拳の振り下ろされる空気の流れが途中で止まる。
腕の隙間からおそるおそる覗いてみると、番田さんの足元に幽霊女がぴったりくっついていた。そして、無駄に蠱惑的な手つきで、彼の脚を撫でている。
「大丈夫です……。いつものことですから……。ねェ、先生」
ぼくはゾッとした。
その声音には怒りも悲しみもない。彼女の視界を占有しているのは、蛮行を繰り返している番田万蔵その人だけだ。さらに悪いことに、彼女の指先は番田さんのふくらはぎから太腿へ、太腿からさらにその上へと伸びていく。暗がりとはいえ、人前で堂々と唐突にこんなことをする神経を疑った。羞恥心よりも嫌悪感が先に来る。
「番田様、申し訳御座いませんが――」
近くにいる京堂さんにも、彼女の行動は丸見えだろうが、彼の心には波風の一つも立っていない。
「皆様に何か起こってしまってはわたくし共で責任を負わなければなりません。それを避けるためにも、何卒ご協力をお願いいたしたいので御座います」
「賛成だ」
追従したのは極彩さんだ。
「悪いが、この場に集いし忌まわしい面々はただ忌まわしいだけではない。腹の内を探るのを生業とする下賤で卑劣な人間どもだ。そのような類の人間は信用するに値しない。鍵で厳重に閉ざさなければ留守中の安寧は得られんだろう」
「ご、極さん……、それで言ったら、ぼ、ぼくらも下賤で卑劣な人間になっちゃうよ」
「如何にも。吾輩も師も、遍く探偵というものは、謎を解くことを至上命題とする知的生命体として最上位存在ではあるが、そのためならばあらゆる罪業も厭わない、倫理的観点から見れば下の下の存在。そんな者に懐を探られる間隙を与えてはならないのだ」
「そ、そうだね……」
「フン、勝手にしろ」
「しかし、そんな南京錠で大丈夫なんですか?」
と疑問を呈したのはぼく。
「こちらはわたくし共が特注いたしました電子錠で御座います。ちょっとやそっとの力では破壊できませんし、開錠はこちらのカードで行います」
「ピッキングできないってことですね」
「左様で御座います」
しかしその時、ぼくの頭の中にあることが閃いた。昔読んだ推理小説であったトリックだ。確か、例の画家の名前を使った暗号と同じ本のものだったはずだ。
その可能性を追及するのは、雨分形さんの方が一歩早かった。
「そ、そのカードで、す、すべての南京錠を開錠できる……ということはないでしょうね?」
その通りだ。各部屋の錠が実はどのカードでも開くことができるのであれば、鍵を掛けたところで意味がない。
「確かに、市販の南京錠でしたら、同一の鍵で複数の錠を開けることは可能で御座います。しかしながらこれは特注の品で御座います。ご心配でしたら試していただいても結構ですが、ここにある錠は対応したカードでなければ開けられないので御座います。したがって、マスターキーのようなものも御座いませんので、カードの管理には細心の注意を払うようにお願いいたします」
蝋燭の火とは対照的に揺らめくことのない、京堂さんのしっかりとした言葉には信頼感がある。それにそんなトリックを主催者側が仕掛ける必要性もない。依頼以外に何かよからぬことでも企んでいない限りは。
実際、雨分形さんが疑わし気に一つ一つ確認していたが、確かに一枚のカードで開けられる錠は一つだけだった。当てが外れた彼は微妙にがっくりしているようだ。ぼくとしては外れて内心安堵したものだが。
「さて、それでは皆様をお部屋にご案内いたします。基本的に食事以外でわたくし共の方から皆様方の行動を制限することは御座いませんので、どうかごゆるりと調査をお進めいただきたく存じます」