冥府に下るオルフェウス
謎の人物は黒いタキシードを身に纏い、黒々とした髪を丁寧に七三にセットしている、清潔感溢れる男だった。その顔には柔和な笑みが貼りついている。三千目さんの他人を苛つかせるようなそれとは異なり、他人を明鏡止水に誘う性質を備えている。
実際、沸騰した鍋の火が消えたように、荒んだ雰囲気が刹那一変して寂となる。
「あんたは――」
番田さんも呆気に取られて、手から力が抜けたようだ。その隙に船長は彼から抜け出し、番田さんの制止など聞かず、ふらふらになって咳き込みながらも急いで操舵室に戻って扉を閉めた。
「わたくしは、今回旦那様に皆様をおもてなしするように仰せつかっております、執事の京堂守富と申す者で御座います」
京堂さんは馬鹿丁寧に深々とお辞儀をした。その時、彼が背中に登山用の大きなリュックを背負っているのに気付いた。綺麗なタキシードに無骨なリュックとは、なんとも似つかわしくない。
「さあさあ、皆様どうぞこちらへ」
彼はにっこりした表情を一切崩すことなく、ぼくたちを外に促した。
いつの間にか、船は島に停泊していたのだ。窓の外を見てみると、荒涼とした岩場に小さく迫り出すようにして作られた桟橋が、船のすぐ隣にあった。既に結構雪が積もっている。
「今回のわたくし共の依頼について、ご説明いたしたいことも御座います」
京堂さんはそのまま船室から外に出て、桟橋に降りてぼくらを待ち構えた。
恨みがましい目つきで、閉ざされた操舵室を睨み付けていた番田さんだったが、
「人を騙すような真似したことについても説明してくれんだろうな?」
と舌打ちすると、彼は乱暴に自分の荷物を手に取って船から降りた。そのあとに幽霊女も続く。
「私たちも降りましょう」
日出さんの言葉で、その場にいた全員が一斉に我に返ったように、慌てて荷物を持って続々と桟橋に降り立つ。
暖房の加護のない外界は酷く寒い。顔面を刺すような痛みが襲う。風を遮るものが何もないから、直にそれを浴びるばかりだ。舞い散った大粒の雪が頬を撫ぜ、そのたびに飛び上がるような思いだった。ぼくはコートの襟を寄せ集めるようにしたが、そんなものは些細な抵抗にすらならない。全身に力が入るが震えは脳の命令を無視して、収まる気配を見せない。
そんな中でもパツパツの半袖で隆盛した筋肉を誇示している極彩さんの姿は、季節感の欠片もない異様な存在に映った。
「片藁くん、大丈夫?」
「ひ、日出さんこそ、そ、そんな恰好で大丈夫なの?」
歯の根が合わず、声もうまく出せない。重装備でそんな有様のぼくより、彼女のほうがよっぽど寒そうな格好である。上はポンチョコートとマフラーを羽織っているものの、下はタイツを履いているとはいえスカートである。ぼくにはとても信じられない。
「私は大丈夫。北海道に住んでいた頃もあって、寒さには慣れてるの」
そう言えば、彼女は色々な場所を転々としてきたのだった。その理由については未だ聞いたことはないが、高校入学から今の学校に来るまでにも、既に五、六回引っ越しをしているという。
その尋常でない頻度からすれば、両親の転勤ということでもないだろうが。
「ほら、カイロ。これで少しはマシになるでしょう」
日出さんはポケットの中から開封済みのカイロをそのままぼくに渡してくれた。渡りに船だ。ぼくはそれを冷気に晒されてしまう前に急いで首筋に当てる。
この手のひら大の小さな袋に入った粉から、信じられないほどの熱気が皮膚に伝わり、それは皮膚から皮下組織、血管へと伝導し、血管から血を媒介して躰全体に温もりを与えてくれる。
震えが治まり、ほっと人心地つく。
礼を言って日出さんに向き直ったが、彼女はただ微かな笑みを浮かべるだけだった。しかしその時、ぼくはこのカイロが開封済みで、日出さんがポケットの中でずっと握っていたものだと気付いてしまった。それからはもう、まるでこの温もりが彼女のものであるかのような錯覚に囚われてしまい、一瞬にして体温が十度は上昇し、顔面が火照って燃え上がりそうな心持ちだった。
暑すぎて額から背中から次々汗が滲み出てくる。もうカイロも要らないし、コートも脱ぎたい気分だ。
だが、自分の汗が滲んだカイロを日出さんに返すのも気が引けたので、そっと自分の荷物の中にしまっておいた。
「さて、それで一体どんな説明とやらをしてくれんだ?」
番田さんが京堂さんに詰めよる。しかし今度は京堂さんの方が彼よりも背が高いので、逆に威圧されているらしく、船長と相対した時よりも比較的弱腰のようだ。
「その前に、皆様下船されましたね。確認させていただきたいことが御座いますので、少々お待ちください」
京堂さんは懐から紙を取り出して、ぼくたちと紙面とを何やら照らし合わせているようだ。しかしその間に、背後でガタリと音がした。
咄嗟に何事かと思って振り返ると、船長が船から桟橋に降りるのに使った簡素なタラップを回収してしまっていた。
「おいッ、てめえ、逃げる気か!」
怒鳴りつける番田さんにびくっと怯えながらも、船長はそそくさと船内に戻り、エンジンをつけたままの船を急いで動かして、みるみるうちに島から遠ざかっていってしまった。
「あんたのせいでヤツに逃げられたじゃねえか」
目を吊り上げて迫る番田さんを仮面のような笑顔で躱しながら、京堂さんは静かに手を叩いた。
「流石は名探偵と名高い皆様で御座いますね。依頼状の謎を華麗に解き明かし、送り主を突き止められた。お見事で御座います」
「なにィ?」
「なるほどね」
そう呟いたのは、一竜くんだった。
「つまりあれはおじさんたちが仕掛けた、一種の挑戦状。というか、腕試しみたいなものだったわけだ」
「左様で御座います」
一竜くんのおじさん呼びにも、京堂さんの表情は一糸乱れることもない。これが三千目さんや美神さんとは違う、本物の大人の余裕という奴だろうか。
「腕試しだと?」
「左様で御座います。わたくし共は、今回の依頼をするにあたりまして、名探偵と名高い皆様方を、本邦で活躍されている数多くの探偵の中から精査して選び抜きました。しかしながら、ご主人様はそれだけでは不十分だと仰りまして、このような余興を取らせていただいた次第で御座います。この程度の謎すら解けないようであれば、申し訳御座いませんが、皆様方には先程の船で即刻お帰りいただく予定で御座いました」
「解けなかった人もいたみたいだけど? その人たちは返さなくていいの?」
一竜くんは意地悪そうな笑みを浮かべて、横目で三千目さんと美神さんを見た。
二人ともドキリとしているが、京堂さんの問題御座いませんという言葉に胸を撫でおろす。
「間違いを受け入れ、皆様の考えをお聞きになって、正解に辿り着いたので御座いますから。わたくし共は過程を重要視しては御座いません。如何なる方法であれ、正しい答えに到達できる人材を求めております。そのような観点で申し上げますと、むしろ自分の非を認め、考えを柔軟に改めることのできる能力もまた重要なので御座います。ここに残られた皆様方のお力は大変すばらしいもので御座います。それを今回のわたくし共の依頼の中で、遺憾なく発揮していただきたく存じます」
「フーン、そう」
一竜くんは面白くなさそうに京堂さんから離れた。ポケットから取り出したスマートフォンで、島の外観を勝手に撮影し始める。
「で? 自分を神か何かだとでも思い込んで、他人様を試すような真似をしてやがる、その厚顔無恥なあんたのご主人様ってのは、どこのどいつなんだ? 今この島に来てるのか?」
「いえ、残念ながらわたくしも雇われの身。新聞に掲載されていた求人広告に応募しただけのつまらぬ存在でございます。ご主人様とは直接顔を合わせてのやり取りもしておりませんので、どなたなのかまではわかりかねますし、今回こちらにいらっしゃることも御座いません」
「おいおい、手掛かりになりそうなもんとか、ちょっとはなんかわからねェのかよ」
「いえ、申し訳御座いませんが、やはり存じ上げないです」
即答だ。番田さんの追求にも暖簾に腕押しという感じで、恐らく京堂さんにとっては、報酬さえもらえれば依頼主のことなどどうでも良いのだろう。
「でも、いいんでしょうか。調べるのはこの死縞島だけで。双子のもう一つの塔がある大岩戸島の方については、どうするおつもりなんですか?」
「日出様がご心配される必要は御座いません。そちらにも同じく探偵の皆様を雇って捜索をお願いしております」
「そうなると、もしこの島ではなく、大岩戸島の塔の方に秘密が隠されていたとしたら、完全に無駄骨ですよね。成功報酬も貰えないということになりませんか」
彼女の質問に便乗して、がめついと思われるだろうが、大事な話なのでぼくは尋ねた。五千万である。一般高校生なら食いつかないわけがない。
「申し訳御座いませんが、こちらの成功報酬の対象は最初に目当てのものを発見した方、御一人のみで御座います。それはどちらの島で発見されたとしても変わりません。勿論、その方が赦すのであれば、それを折半していただく分には、こちらとしては問題御座いません」
「フン、その時は我らに黒闇天が憑いていたというだけのこと……。それも一興と甘んじて享受するしかあるまい」
と極彩さん。
「そもそも、その程度の小金でホイホイと釣られる程度の探偵なら、今こんなところにいねェだろうがな」
さらには番田さんも続いた。いかにも金持ちのボンボンといった風情の一竜くんや、どこかのお嬢様のような恰好の美神さんはともかく、一見するとただの中年男に見える番田さんでさえ、その点について文句を言わないのは意外だった。ここに集まった探偵たちは皆、報酬よりもこの島――ひいてはそこに隠された不死の秘密の方がよほど気を惹く重要な事柄らしい。お金のことを訊いたぼくだけが、なんだか卑しい野人めいた気がして、肩身が狭くなった。
「今のご説明でご納得いただけましたでしょうか。問題ないようで御座いましたら、皆様を塔の方にご案内いたします」
異論は上がらなかった。
それでは、と京堂さんはぼくたちに背を向けて先導を始めた。
桟橋から少し進んだだけで、ごつごつとした岩場に出る。ただでさえ不安定な足場に加え、今は積雪で、歩くだけでもかなり危なっかしい。一瞬でも気を抜くと滑落しそうだ。びくびくしながら一歩一歩慎重に歩むぼくの先を、日出さんは身軽そうにひょいひょい進んでいく。天は二物も三物も与えるようで、頭脳派だが運動神経も悪くないのだ。気付けばぼくの後ろを歩いているのは、番田さんとその付き添いの幽霊女だけである。いかにも歩きにくい格好をしている美神さんはどうかというと、彼女は平然とドレスをはためかせて岩場の上を優雅に舞うように進んでいた。その一方で、案の定運動神経の悪そうな雨分形さんが派手に転んで、背中を強か打ちつけていた。
「ハハハッ、すっ転んでやんのー」
と無邪気に邪悪に指をさして笑うのは一竜くんである。さっきも煽ったせいで痛い目を見たというのに、懲りた様子はなさそうだ。
「お怪我は御座いませんか、雨分形様」
振り返って声をかける京堂さんだが、手を貸そうとはしない。そのぐらい自分でなんとかしろということか。
「あ、いや、はい、だ、ダイジョブです」
「まったく、我が師として情けない限りだ」
極彩さんが無理矢理彼を引き起こしたかと思うと、文字通り彼を小脇に抱えて歩き始めたものだから、ぼくなどは唖然としていた。サーカスじゃあるまいし、なんという馬鹿力だ。しかし聞き間違いか、雨分形さんのことを師と呼んでいたように聞こえたが。感覚的にはどう見ても関係が逆である。
とにかく、そんなこんなありながら、切り立った崖に沿って、円弧を描くように岩場を進んでいくと、ぽっかりと口を開けている洞窟がぼくらを待ち受けていた。
「皆様、こちらで御座います」
言いながら、京堂さんはその洞窟の中に入っていく。
穴の中は階段になっていて、内側の岩肌は整えられてある。上り進めていくと、一定の間隔で岩肌に穴が開けられており、そこから外の景色――といってもただただどこまでも広がっている海原しかないのだが――を望むことができた。間違いなく、人工的に造成された穴である。島の外周に沿って岩肌が掘られているのだ。
その窓と同じように、洞窟の壁面に定期的に彫られた印があることに気付いた。細部の装飾は崩れてしまっているが、二人の男が身体を捩じらせながら輪になって、互いの脚を呑み込もうとしている姿を描いたレリーフだとわかる。
「この模様は――?」
誰に訊いたわけでもない、ぼくの虚空への問いかけを捕まえたのは、三千目さんだった。
「それね、さっきも話した『円環教』のシンボルだよ。信者はこの島を聖地として崇めていて、度々巡礼に訪れていたというから。熱心な信者が刻み込んだってところかな。だいぶ風化しかかっているから、彫られたのはかなり前のようだね」
「すると、この二人の男は環博士と円博士ということでしょうか。それをウロボロスに擬えた……と」
そこへ日出さんがぼくの肩越しにレリーフを覗き込んできた。ぼくは身体をどかして彼女の視界を確保する。
「恐らく、ウロボロスだけじゃなくて、メビウスの輪の要素も取り入れているでしょうね。どちらも永遠を意味するものだから」
「そこまでやられると、なんだか全部盛りで節操ない感じがするけど」
「教義のために殺人さえも容認するようなカルト宗教なんてそんなものよ」
彼女は苦々しげに、唾棄するように言った。そんなシンボルは目に毒とばかりに、大した観察もせず、彼女はぼくを促しながら先に行ってしまった。
再び階段を上り始めたが、窓から強烈な海風が吹き込んでいるせいで、洞窟の中だというのに外と同じように、靡いてきた雪がちらほら溜まっているし、気温も外と変わりがない。
寒々しい景色。寒々しい空間。寒々しい雰囲気。
桟橋で感じていた燃えるような火照りはすっかり消え失せ、歩いていても疲れるばかりで一向温まらない。体温が上がったそばからそれ以上に冷やされてしまうのだ。
「きょ、京堂さんはそんな荷物持ってて、よく平気ですね。重くないんですか?」
前方を行く京堂さんの背中に投げかけてみたが、彼は振り返りもせず、息を上げている風でもなく応えた。
「ええ、どうぞご心配なさらず」
「それにしても一体何が入ってるのかなァ。リュックに雪が積もっていなかったから、ぼくらが来るまで桟橋で待ってたわけじゃないでしょ? 乗ってきた船にはいなかったし、ぼくらが来るよりも大分前にこの島に来てたんなら、荷物を塔に置いてくるくらいの時間はあったはず。なのにそうしてないってことは、相当大事な物が入っているんじゃないの?」
相変わらず年上に対しても不躾な態度の一竜くんが、京堂さんのリュックに手を伸ばしたその時、
――バシッ。
と一竜くんの手が勢いよく弾かれた。
「触るな!」
温厚を顔に貼り付けていた京堂さんが手を上げたのだ。しかも唐突に、別人かと思うほど凄みのある声で牽制する。
「っつ。な、な、何すんだよ。執事の癖に、きゃ、客人に手を出すわけ?」
もはや様式美の如く、口だけ達者な、蛇に睨まれた蛙になってしまった一竜くん。その哀れな様子を見るとどんな人間の怒りも鎮まってしまうらしく、再び京堂さんの顔は仮面で覆われた。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、大変失礼致しました。しかしながら一竜様の仰る通り、この荷物には重要な品が入っております故、お手を触れないようにしていただきたく存じます」
その反応で、多分一竜くんだけでなくその場にいた全員が中身に興味を持ったことだろうが、今のやり取りでおいそれと問い質すことができなくなったのだろう。その後誰一人として、彼のリュックに触れる者はなかった。
ぼくらはその京堂さんを先頭に、そんな冷たく長い長い階段を気まずい沈黙の中、上り続けた。今の剣幕を見てしまうと咳払い一つするだけで、また京堂さんにどやされるのではないかと萎縮してしまう。息を殺していると余計な体力を使うようで、気分だけでなく、ぼくの脚までどんどんと重くなっていった。
そんな空気を破ったのは、ぼくよりも余裕そうな調子で前を行く、日出さんの唐突な呟きだった。
「それにしても――こうして延々と階段を上っていると、私にもオルフェウスの気持ちが判るような気がするわ」
「オ、オルフェウス? 冥府下りの?」
ギリシャ神話で、毒蛇に噛まれて死んだ妻――エウリュディケを蘇らせるため、冥府に向かったという詩人だ。地上に戻る間、決して後ろを振り返ってはならないという条件付きでハデスから許しを貰い、彼女を連れ出そうとしたが、もうすぐ地上というところまできて不安に襲われた彼が振り返ってしまい、結局助けることができなかったという結末の物語である。
地上に向かっているぼくらを冥界から逃げた彼らに喩えているのだろうが、当のぼくらが向かっている双之塔は、悪魔の研究者が棲まうとされる、かつて地獄のような光景が広がっていた場所。どちらかというと今まさに冥界に向かっているように、ぼくには思えた。
「片藁君はついてきているよね」
「う、うん、ここにいるけど……」
彼女の意図が読み取れず、ぼくは困惑しながらも応えた。すると彼女は、若干の間を開けて、さらなる問いかけを放った。
「これからも、ついてきてくれるよね?」
「え?」
ただでさえ早い脈動を続けている心臓が、一際動きを活発化させ、ぼくの身体の中でうるさく鼓動を響かせる。 オルフェウスと妻の神話に喩えた上でそんなことを言うなんて、それではまるで――。
狼狽しながらも、何と答えるべきか思考を巡らせていると、日出さんが続けた。
「助手として、これからも」
そうしてすべてが氷解する。一人で内心盛り上がっていた自分を落ち着かせようとしたが、疲弊しきった肺臓は吸い込んだ息の刺激で暴走した。情けなくゲホゲホ咳き込みながら、ぼくはどうにか声を絞り出した。
「あ、ああ、そういうこと。そ、そりゃあ、勿論、お供させていただきますとも」
「ありがとう」
オルフェウスと同じように、彼女はぼくを振り返って微笑を浮かべた。そこには僅かながら安心した様子が映っているように、ぼくには見受けられた。彼女の背後に後光のような薄ぼんやりとした光が見える。もうすぐ出口だ。
ひいこら言いながらやっとの思いで――正確に言うと、そんな思いをしていたのはぼくと番田さんと幽霊女、雨分形さんだけだったのだが――ついにぼくらはこの洞窟を踏破した。
島の頭頂部に登頂したらしい。目算で五十メートルはあると思った島の頂上。そこまで延々歩いて階段を上がってきたのだから、普段あまり運動していないぼくがくたくたになるのも無理はない。ピンピンしている他の人たちがおかしい――否、凄いのだ。
そこから圧巻の眺望でもあれば上ってきた甲斐もあるというものだが、やはり果てしない太平洋の水平線が広がるだけで、それ以外には何もない。それどころかむしろ、下を見てあまりの高さに肝まで冷やし、すっかり腰が引けてしまった情けない姿を、日出さんの前に晒しただけになってしまった。
寒々しい海面とは対照的に、島の天辺には鬱蒼とした木々が広がっていた。隙間もないほどぎゅうぎゅうに密生した、ラッシュ時の満員電車のような植物のせいで、一体奥に何があるのか垣間見ることすらできない。
京堂さんはその木々の間隙をすり抜けるようにして、足を踏み入れていく。ぼくなどは通学の電車でこの程度の人混みを急いで抜けることくらい容易いが、がたいのいい極彩さんや、やたらと背の高い三千目さんも、この狭い天然の迷路には苦戦しているようだった。流石の美神さんもここでは形無しだろうと思っていたが、見ると彼女は幅広のスカートの裾を器用に折りたたみながら、すいすいとステップを踏んでいる。その姿はさながら貴族の集まるダンスパーティで、踊っている人々の合間を縫って目当ての男に近付く女豹のようだ。
同じ能力を身につけるにしても、かたや通勤ラッシュでかたや――確証はないが――ダンスパーティである。ぼくは勝手にやるせない気持ちになって、勝手に独り肩を落とした。
そうして森を分け入っていくと、ほんの僅かに開けた場所に出た。
木々がまるで避けるように開けたスペースの中央に、コンクリート製の建物。
異様な光景である。
大自然の只中。周囲に何もない太平洋に聳え立つ小島。犇めく木々の間に唐突に現れた、白銀の上にぽつねんと居座る人工物。場違いという言葉が最も適切な状況だ。
しかし、ここが、こここそが、東京からはるばる半日かけてやってきたぼくらの目的地であり、旧日本軍に従軍していた医学博士が狂気に憑りつかれた研究施設――。
「皆様、ようこそおいでくださいました。こちらが双之塔――この一週間、皆様にお泊りしていただく場所で御座います」