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探偵狂想曲―縺れたヘルメスの杖―  作者: 東堂柳
双子塔の殺人 第三章 獄門のオードブル
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一竜沙六と秘密の部屋

 途中の階でエレベーターを降り、一人になって怯えながら食堂に戻ってみると、そこに全員が顔を合わせていた。これで解散していたら、ぼくは心細くて膝から頽れていたに違いない。失神していた雨分形さんも既に意識を取り戻し、頭を抑えながら椅子に座っている。


「恥ずかしながら、帰ってまいりました」


 ぼくが頭を掻きながら中に入ると、日出さんは口許を押さえて肩を震わせ、笑いを押し殺していた。どうやらやり返すだけやり返したら気が済んだらしい。まだ機嫌を損ねていたらどうしようかと、ここへ来るまでに悶々としていたが、それも杞憂だったようだ。実際、ぼくが平謝りしながら同じテーブルに座っても、嫌そうな顔はしていなかったし、露骨に席を移るようなこともしなかった。


「で、ともかく、実際のところ、犯人はどうやってこの館から消え失せたんだろうねェ」


 三千目さんの言葉で、皆の注目は事件に戻される。

 エレベーターの中で一人になった時に、ぼくは少し事件の流れを整理していた。

 料理用エレベーターから大皿を受け取って、美神さんがぼくにそれを渡す。危ないからと言って三千目さんに持つのを手伝ってもらい、それを慎重に大テーブルの中央に載せる。なんだろうと不思議がる面々。そしてクロッシュを開いて明らかになったその中身に目を奪われる面々。刹那、時が止まる面々。そんな中で番田さんが動き出し、簡単な検死をする。発見から極彩さんが自分に喝を入れて駆け出すまで、精々二、三十秒。どんなに長くても一分といったところだ。

 それならこんな可能性も考えられるのではなかろうか。


「あの大皿を運搬用のエレベーターに載せた後、すぐにエレベーターで〇階に戻り、極彩さんが出てくる前に外に逃げたんじゃないかな。皿を受け取ってからすぐ中を確認したわけじゃないから、それくらいの時間はあったかもしれない」

「不可能だ。たとえ時がそれを許したとしてもな」

「どうしてかしら? 探偵でもない癖に割といい線行っている推理だと思うけど」


 極彩さんが言下に否定したが、美神さんはぼくに賛同している。しかし、雨分形さんがぼくの失念事項に気付かせてくれた。


「み、美神さんは御存知ないんですね、そ、外の雪のこと」

「そうか、そうでしたね。外は膝の高さまで雪が積もっていて、扉が殆ど開かない状態でしたっけ」


 そうなるとぼくの推理擬きは完全に外れだ。


「それでも、無理矢理力任せに開けたのかもしれないでしょう。調べるくらいはした方がいいんじゃないかしら」


 美神さんの言葉で、ぼくらはホールまで出て、極彩さんの力を借りて重い玄関の鉄扉をこじ開けた。雪はもう降っていないが、天気は相変わらず薄灰色で塗られている。

 扉は数センチ開けただけでもう充分だった。


「扉の前まで雪がぎっしりだ」


 三千目さんの言う通り、ぼくの膝丈くらいの高さまで積もった雪は、完全に扉の前まで迫っていて乱れた形跡がない。視線を奥へと向かわせると、密生している木々の前まで白銀が埋め尽くしている。森の中は樹に遮られてさほど雪は積もっていない。しかしあそこまで行くのに、広がった雪を通らないわけにはいかない。にもかかわらず、雪上には足跡や轍はおろか、何の痕跡もなかった。まっ平らな雪面ばかり。


「今朝には雪は止んでいた。つまり、犯行後に急いで犯人が逃げたとしても、何らかの痕跡が残るはず。それがないなら、やっぱり犯人はまだこの塔の中にいるってことになるね」


 一竜くんの言葉は、ぼくや雨分形さんに恐怖を植え付けるのには十分すぎる脅し文句だった。

 殺人鬼は確実に未だ塔の中にいる。そしてどこかからぼくらの様子を窺っているのだ。


「まだ、探していない場所があります」


 口火を切ったのは日出さんだった。

 彼女の言わんとすることはすぐに判った。朝食前に交わした今日の予定。不死の謎が隠されているかもしれない隠し部屋。


「手術室だね」


 ぼくの言葉に対する反応から、この場に集められた探偵たちの序列が垣間見える。ピンと来ていない顔をしているのは三千目さんだけだ。彼はこの塔に手術室に該当する部屋がないことに、未だ気付いていなかったらしい。


「貴公は封印されし其の神殿を見つけたと?」

「この私が昨日探しても見つからなかったのに……。日出最子、早く答えなさい」


 とは極彩さんと美神さんだ。彼らはその存在には気付いていたが、場所までは突き止められていなかったようだ。


「あ、そ、そうか、極さんならもう判ってると思ってたから、ま、未だ教えていなかったっけ」

「まァ、そうなるよね。隠れられそうな場所は今のところそこしかなさそうだし」


 これは雨分形さんと一竜くん。彼らはどうやらその場所まで既に特定しているらしい。何なら一竜くんはこうまで言ってのけた。


「ただ最初に言っておくけど、不死の秘密を期待するなら止めといたほうがいいよ。それらしいのはなかったから」

「そうは言うけど、本当に知ってるのかなァ。それならどこにその手術室とやらがあるのか、是非とも教えてもらいたいもんだねェ」


 三千目さんもこれまで全戦全敗だというのに、毎度毎度よく懲りずに突っかかっているものだ。一竜くんが口だけ達者な可能性をまだ消せないでいる。これまで警察からちやほやされて付け上がっていた彼にとっては、自分の上を行く小学生の存在など毛ほども信じたくないのかもしれない。

 しかし残念ながら、今回の勝負も一竜くんに軍配が上がることになった。

 別にいいけど、と彼は動ずることもなくエレベーターに向かう。


「なんというか、凄く単純な話だよ。複雑な暗号や機構が必要なわけでもない。まァ当然だよね。医術の研究をするのに手術室は必須。頻繁に使う場所をそんなに複雑な方法で隠すなんて、頭悪いし。おじさんじゃないんだから」


 勿論彼は隙あらば小馬鹿にするのを忘れない。彼の言葉は常に煽りと共にある。しかし最早その効力も、慣れてしまった三千目さんには及んでいないらしかった。


「そもそも手術室を隠すように配置したのはどうしてかな?」

「さぁね。いざという時、シェルター代わりにでもするつもりだったんじゃないの。連合軍が島に上陸して、占領、破壊、押収したら貴重な設備もデータも全部パアになるわけだし。手術室さえ残っていれば、後はなんとかなると思ってたんでしょ」


 一竜くんは事前にそこまで考えていなかったようだが、今の一瞬で応答した内容は的を射ているものに思える。小学生の癖に大人顔負けの頭の回転力と論理的思考力を備えているらしい。これでは三千目さんには、身体の大きさと人生経験くらいしか勝ち目がないだろう。


「それはさておき、手術室に患者や検体を運ぶには、担架に載せるしかないっていうのは流石にわかるよね。この常に狭くて曲がっている階段で担架を運ぶのは難しいでしょ。この状況では、担架はエレベーターに載せて運ぶしかない。エレベーターがやたらと広いのも、担架を運ぶためと考えられる。つまり手術室はエレベーターから直接行けるところにあるってこと」


 彼はエレベーターの中に入り、顎をしゃくって追随するように示した。


「このボタンを見てほしいんだけど」


 ぼくらが全員乗り込むのを待たずして、彼は扉脇のボタン列を指し示す。

 そこにはアラビア数字で〇から九まで記されたボタン。ヒラクとトジルと記されたボタンがある。それぞれのボタンの隣には漢数字のランプが、ヒラク、トジルにもそれぞれ開、閉のランプが付随している。ボタンを押すと対応するランプが光るわけだ。


「七セグディスプレイの数字みたいな、やけに角張ったフォントで書かれているよね。今でこそこういうフォントは当たり前のように浸透しているけど、この建物が立てられたのは戦時中。その当時にデジタル時計があったわけでもないのに、わざわざこんなフォントにしていることに疑問を持ってこそ、パスカルの言う考える葦というものだよ」


 プラトンの次はパスカルか。聞いたことはあってもよく知らない人間の筆頭だが、どうせまた推理作家ではないのだろう。彼に煽られ、ぼくも考えてみる。丸いボタンに描かれた数字を凝視する。しかし、穴が開くほど眺めてみたところで、答えが浮かび上がってくるわけでもない。十秒もしないうちに諦めたが、極彩さんは一竜くんのヒントで合点がいったようだ。


「成程。これは数字であり、数字でない。いつの世も鏡が真の姿を映す。その言い伝え通りだ」


 円形のエレベータの内壁は一面鏡になっている。視線がそちらに向かう。反射したエレベータ内の光景が映し出されている。ボタンもまた、その中の一部として存在していた。

 数字であって数字でない。鏡に映し出されたボタンを目にして、ようやくその真意がぼくにも判った。


「そう、鏡を見ればすぐにわかるよね。この数字の〇一二三九は、それぞれ鏡の中ではOISEPとアルファベットとして見ることが出来る。ここまでくれば、もう解けたも同然。手術は英語でもドイツ語でもoperation。その最初の三文字であるOPEを押せばいい」


 言いながら、一竜くんは該当する三つのボタンを同時に押し込む。

 扉が閉まり、エレベータが下降を始める。階数を示す、扉上部の針が左端から離れる。彼の推理が外れているなら、この針は三を指し示して止まるはずだ。が、あっという間に三を通り過ぎる。更に四、五、六と針は回転し、右端の九まで到達してもなお、エレベータの動きは止まらない。

 手術室は九階の更に下に位置しているのだ。


「塔の地下のそのまた地下にあったのか……」

「当たり前だよ。地上階は一階分の高さしかなかったし、地下のフロアは階段で繋がってる。階段で移動できる範囲にはないけど、エレベータで移動できる場所にあるわけだから、残るはもうさらに下しかないでしょ」


 ぼくの呟きにさえ、一竜くんは突っ込みを入れる。しかしぼくの場合、苛立ちよりも感嘆のほうが先に出てしまう。彼らは常に思考を張り巡らせ、些細な事象や観測結果から合理的で論理的な解を導き出しているのだ。まさしく彼が言っていたように、考える葦を体現している。翻ってぼくはと言えば、そうした手掛かりを目の当たりにしていながら、それに気付きもしない。彼ら名探偵と凡人のぼくとを画している一線は、まさにそこにあるのかもしれない。

 エレベータが止まると、光っていたOPEのランプが同時に消え、扉が開く。

 扉の先には真っ暗な短い廊下があり、両脇には錆びついた手洗い場が備え付けられている。

 突き当りの扉の上部には手術中の赤色灯。勿論今はひび割れて沈黙しているが。

 一竜くんを先頭に、一同が周囲を見回しながら扉に近付く。

 彼が脇の赤い開閉用ボタンを押すと、二枚の扉は軋んだ音を響かせ、ぎこちのない動きで左右に開き始めた。

 一切の躊躇もなく、何十年もの間、島の地下深くに眠っていた部屋の扉を開けているが、それで良いのだろうか。

 ぼくの心に一抹の不安が広がる。

 そもそも何故ぼくたちがこの場所に訪れているのかと言えば、京堂さんを手に掛けた殺人犯が隠れ潜んでいるかもしれないからに他ならない。されども、島にいる全員が勢揃いしている状況以上に安全に探索する方法など、今のぼくたちには存在しない。例の医学博士が若者の胴体を奪って生き永らえているなんて、常識の物差しで測れば明らかに狂っている。しかしそうでなければ一体誰が、あんな冷酷非道な所業が出来るだろうか。そしてもし、そんな醜怪で非常識な存在があるのなら、たった九人ぽっちのぼくらにどんな抵抗が出来るというのだろうか。

 そんな自問自答が頭の中を駆け巡る間にも、扉は開いてその奥に広がる空間が顔を徐々に徐々に覗かせる。

 ぼくは極彩さんの巨躯の背後から、恐る恐る顔だけ出して中の様子を確認した。

 手術室は、かなりの広さがあった。円形の部屋はぼくら九人がぞろぞろ入っても、まだまだ自由に動き回れる余裕がある。壁際には点滴スタンドや得体の知れない装置や器具が並んでいた。病院で訳の分からない機械を見たときの、ぞわぞわと身体の内側が粟立つような不安感が滲み出てくる。白いタイル張りの床も、並んだ機械の冷たさを助長させ、人間の身体を何の罪悪感も尻込みも見せず、淡々と弄り回す情景が浮かび上がり、ぼくはぶるりと身体を震わせた。

 しかしこの部屋でのさらなる問題点は、中央に配されている手術台だ。隣にはキャスターのついた移動式の大型電灯が置かれている。手術の時に手元を明るくするために使っていたのだろう。さらに、広がった布の上にメスや鉗子、開創器などの手術道具が並べられている台車。奇妙なことに、台車の上の手術道具は天井の灯を反射して輝いている。誰かが手入れをしているのだ。

 そして何より――、何よりも問題なのは、その手術台の周りの白いタイルに広がった真紅の液体。


「これは……」

「血ですね。まだ乾いていません」


 純白の手袋に染みが付くのも厭わず、美神さんがその液体に触れて、何食わぬ顔でその臭いを嗅いでいる。

 やはり血溜まりだったのだ。そうなれば、否が応でも今朝の事件と結びつけずにいられない。


「まさか、京堂さんのものじゃ……」

「まさかというか、そう考えるのが妥当でしょ。昨日来たときはこんなのなかったし」


 一竜くんは辺りを調べながら、片手間に煽る。


「でも肝心の犯人はいないみたいだけど」

「た、環博士の医術に関する秘密に該当しそうなものも、な、ないのは本当みたいです」

「さっきそう言ったじゃん。大人みたいな嘘吐きと一緒にしないでよ」


 壁際の棚や台車の中をごそごそやっている雨分形さんを唾棄する一竜くん。

 今の言葉はこれまでの他人を虚仮にして嘲笑するための煽りとは色合いが違っていた。心底から憎々しそうに、吐き捨てるように放ったその言葉には、まだこの世に生を受けて十余年の小さな命にはそぐわない、擦り減って摩耗しきったかさかさの乾きが含まれていた。

 その機微を察した雨分形さんも、そういうつもりじゃ、と小学生相手に狼狽している。

 見兼ねた極彩さんが腕を組んで話題を変えた。


「フム、至極厄介だな。塔の中は吾輩と三千目、それに日出や片藁が隈なく探し、我々以外の何者も発見すること能わず。外に出た形跡もなければ、最後に残されたこの忌まわしき手術室にも、人の姿は皆無。となれば――」

「俺たちの中に犯人がいる……ってか」


 番田さんの一言で、場がしん――と静まり返った。

 刹那的に、互いの視線が交錯する。猜疑と観察、そしてあるいは欺瞞が混沌と一体化した視線が。

 それはほんの僅かな時間だが、ぼくたちの関係性に見えないヒビを入れるには充分な時間だった。元々、ぼくらの間に大した信頼関係などなかったのだから、ちょっと刺激を与えさえすればヒビなど簡単に入る。その刺激が殺人ともなれば、ヒビどころかバキバキの粉々になるのは必定。

 しかし、誰もがそんなヒビなどないかのように、疑心暗鬼などないように振舞い始める。


「しかしそれなら我々にとっては余計に厄介なのだ。京堂が既に彼岸に旅立っていたのなら、料理を厨房から食堂に運んでいたのは、一体誰だというのか」

「そうだねェ。塔の中にいるのが僕たちだけとなると、料理が独りでに運ばれでもしない限り、不可能状況が生まれるわけだからねェ」


 相変わらず真剣にへらへらしている三千目さんは、中空を見ながらぶつくさと念仏を唱える。彼の軽い調子が、僅かばかりでも皆の雰囲気までをも軽くしているように思えた。

 だが、やはりそれは気休めでしかない。胸中に生まれた疑念の種は水を与える必要もなく、勝手に萌芽し勝手に成長していく。

 口火を切ったのは、それまでずっと黙ったままだった、影として番田さんの傍に控えていた倉々さんだった。


「……そんなの、食堂から出てった誰かでしょ……」


 訪れるべくして訪れた一言に空気が一段と重苦しくなるが、不動の極彩さんが宥めに入る。


「吾輩と我が師は食堂に朝一番に入り、出口に一番近い席に座していたが、入ってくる人間はあっても、出ていく人間の姿はなかったのだ」

「ご、極さんの言う通りです」

「……じゃあ貴方たちが口裏合わせてるに決まってる……」

「それはないでしょう。二人がこの塔に来る前から知り合いにあることは、この場にいる全員が把握しています。そんな状況で口裏を合わせるだけなど、奸計どころかただの愚行に他ならないですわ」


 美神さんの否定に続いて、番田さんがまたしても倉々さんを殴りつける。


「馬鹿な癖に喋ってんじゃねェよ。大体、俺の席からも食堂の入口は見えてたんだ。あいつらの言うように、誰かが食堂を出入りしていたら判ったはずだ。お前にだって見えてただろうが、節穴か」

「……ごめんなさい」


 気まずい沈黙を紛らわすために、雨分形さんと極彩さんが纏める。


「ぼ、ぼぼ、僕らは七時四五分頃に食堂に来て、そ、それから八時までに皆さんが入ってくるのを確認しています。その間、だ、誰も食堂から外には出ていません」

「すなわち、我々の中に犯人がいるのであれば、料理を如何にして食堂から厨房に運んだのか。これが我々が紐解くべき命題になるわけだ」


 またしても沈黙。誰もがその謎めいた命題に頭を悩ませているようだ。三千目さんは念仏を唱え始め、極彩さんは腕を組んで瞑想を始める。日出さんは空間をぼんやりと眺めながら、相変わらず深層の思考を読み取らせないような無表情である。かくいうぼくもまた、自分なりに足りない頭をフル稼働させて考えてみているが、食堂に居ながらにして厨房の料理を移動させるなんて、そんなのは魔法としか思えない。

 そんな中、突然けたけたと哄笑が上がった。


「なァんだ。仰々しく言うから何かと思えば、そんなことか」


 一竜くんが周囲の大人たちをコケにしたような嘲笑を浮かべ、そして言い放った。


「僕にはもう判ってるよ。どうやって犯人が食堂に料理を運んだのか。そしてその犯人もね」

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