どこから来てどこへ行ったのか
絶叫したのはぼくと雨分形さんだけだった。
他のみんなはこうした惨状には慣れっこなのだろう。美神さんや日出さんも、眉一つ動かしていないように見える。
しかし、まるで突拍子もない死体の出現に多少なりとも動揺はしているらしく、開封してから数秒間は時が止まったように誰も動かない。
そんな中で一番先に時を動かしたのは、番田さんだった。というか、彼は生首に驚くような素振りも見せず、それどころか首が朝食に供されるのが当然でもあるかのように、悠々とそれに近付いてべたべたと触り始めた。手慣れたもので、いつの間にかゴム手袋まで付けている。
「まだ温かい。顎の硬直も出てねえ。死斑も見られない。ンな時間は経ってねェな。死後三十分以内ってとこか」
医者らしい彼を見たのはこれが初めてだ。死体を揶揄するわけでもなく、口にしているのは至極まともなことばかり。平生のそれが信じられないほど真剣な顔つきになっている。そこでようやく倉々さんの焦点が番田さんから死体に移動したらしい。彼女は短く甲高い悲鳴を挙げたかと思うと卒倒した。
次いで動き出したのは極彩さんの筋肉だった。彼はクソッと一発自分の頬にビンタを食らわせると、そのまま食堂を足早に去ろうとする。
「ちょッ、どこ行くんですか?」
三千目さんが彼の背中に問い掛けるが、彼はもう止まらない。
「愚問。厨房だ。悪趣味な料理を届け給うた常識外れの料理人に、こちらも讃辞の一つでも送らせてもらうのだッ」
言い切るか否かというところで、もう彼は巨体を揺らして食堂を出ていった。その後を三千目さんが追う。雨分形さんは失神して追いかけられる状態ではない。
いっそのこと、ぼくも失神してしまったほうが楽かもしれない。それでも血と死の臭いにくらくらする頭を振り払い、気合で踏み留まった。
さらに一竜くんに美神さんが続いたものだから、
「日出さん、ぼくたちも急ごう」
頷く彼女を尻目に、慌てて彼らの後を追いかけた。彼らの帰りを京堂さんの生首と待ち続けるより、そのほうが気分が少しでも落ち着くだろう。
食堂を出ると、一竜くんと美神さんがエレベーターの前で立ち往生している。箱が来るのに時間が掛かっているようだ。階段の方が早い。ぼくは迷わず階段に向かった。
暗い階段を蹴躓きながら一足飛びに降りる。降りながら、鍵の空いている部屋の中を調べる。誰もいない。六階まで来ると、厨房の扉が開いていた。そのまま中に突入する。
既に到着して室内を探索していた極彩さんと三千目さんが、こちらに気付いて首を振った。
「遅かったよ。もう誰もいない」
実際部屋の中には二人がいただけで、他に人影はなかった。業務用の大きな冷蔵庫の中まで確かめたが、誰も隠れていない。厨房には朝食の支度をしていた形跡が残っている。シンクの中にはお湯が溜まっていて、包丁やら菜箸やら俎板やら沈んでいる。コンロの上には汚れのついたままのフライパンが残っていた。ついさっきまでここで京堂さんがぼくらのために調理に勤しんでいたのかと思うと遣る瀬無い。
それはどうやら極彩さんも同じらしい。怒りの矛先を調理台に向けた彼は、それを殴りつける。ステンレスが変形した。
「業腹極まりない。殺人などという卑劣な罪を犯す人間のすることだ。既に他の場所に逃走したのだろう」
しかし、ここに来るまでには誰とも擦れ違っていない。
「吾輩と三千目は厨房への道中、施錠されていない部屋を逐一確認したが、犯人は隠れていなかった。然らば、更に下階に向かった可能性があるな。吾輩はここをもう少し調査する。あとは貴公らに頼む」
ぼくと日出さんと三千目さんは厨房を出て階下に向かった。
この先はどん詰まりだ。一部屋一部屋中を確認しながら降りていく。
先程まで怒りに突き動かされていたぼくだが、部屋の中を調べているうちに、厨房で見た光景の現実感は喪失していき、動揺していた心も平静さを取り戻してきた。
そうなると、途端に強烈で現実的な恐怖が身体を支配し始める。人間の首を刎ねて殺す残忍な殺人犯が、今まさにぼくらが探している部屋の中に息を潜めているのではないか、と。切り取った頭を料理として盛り付けて見せつけるような狂気が、追い詰めているぼくらに向けられないとも限らない。窮鼠猫を嚙むというが、ぼくらが追っているのは鼠というより、さしずめ狡猾で俊敏な毒蛇か獰猛で嗜虐的な熊だ。万が一ということになれば、噛まれるどころでは済まないだろう。
それでもぼくらは九階まで辿り着いた。飼育室を確認し、残る部屋は霊安室だけになる。
既に開いた状態の保管庫に安置されている死蝋。これは昨日のままだ。それ以外の保管庫を一つ一つ開けて中を検める。把手を握ると、ひんやりと冷たい。いつ中から蛇が飛び出るか。影から熊が襲ってくるか。開ける度に心臓が早鐘を打って、気が気ではない。
だが結局、無駄に労力を使って無駄に怯えただけに終わった。
犯人は六階から下のどこにもいなかったのだ。自分でも確認したが、三千目さんたちも同じく、一階から五階までの入れる部屋には誰もいなかったという。ここまで下りてくる間、自分たち以外誰の姿も見ていない。そうなると考えられる可能性は、ぼくたちが階段を移動する間に――、
「エレベーターで別の階に移動したんだろう」
三千目さんがそう言って、エレベーターのボタンを押した。
「もう塔の中にはいないかもしれない。君らはエレベーターで〇階まで戻ってくれ。僕はもう一度階段を上がりながら部屋の中を確かめてみるよ。途中で極彩さんも拾ってこないとだし」
ぼくと日出さんが顔を見合わせて首肯すると、三千目さんは一足先に階段を上がっていった。
階段を上がる靴音がどんどん遠ざかっていく。場が静かになり、急にぼくたち二人だけが、この極寒の塔の中に取り残されたのではないかと錯覚する。こんな状況でなければ嬉しく感じられるものだが、殺人者がいるかもしれない塔の中では、ロマンもマロンもない。
クロッシュから現れた京堂さんの首。サラダの上に載せられた京堂さんの首――。
瞼を閉じると脳裏に鮮烈に焼き付いたその光景が広がる。
飼育室の人骨も霊安室の死蝋も、確かに衝撃的だった。しかしそれらはあくまでぼくらとは全く関係のない、何十年も昔の人の死体である。それにはどこか、B級ホラー映画か戦争映画の小道具じみた印象があって、死というものをさして身近に感じてはいなかったのだ。当時の博士がどんなに頭のおかしい医学研究をしていようと、現在のぼくには影響しない。若者の胴体を盗んで生き続けている老獪な医師など、ただの都市伝説。ぼくの生死には関係しない。そう高を括っていた。
それが昨日知り合ったばかりとは言え、ぼくらと同じ世界線・時間軸で生きていた京堂さんが殺されたのだ。嫌でもその死は、ぼくの脳裏に二度と癒えることのないであろう傷を付ける。
「大丈夫、片藁くん?」
日出さんが優しく声を掛けてくれる。しかしぼくは彼女との感情的な隔たりを感じた。
ぼくを窺う彼女の表情には、動揺の”ど”の字もない。その端麗な容姿は一寸の歪みもなく、ただいつもと同じようにそこに存在している。あんな死体を目撃して、平然としていられる女子高校生など、片手で数えられるくらいではなかろうか。
「……日出さんは全然大丈夫そうだね」
すると僅かに彼女が眉を顰めた――ように見えた。
「私は、ああいうのは見慣れているから」
苦々しそうにそう言いながら、彼女は顔を逸らした。その姿に、胸の内から後悔の波が押し寄せ始める。
口をついて出てしまったとはいえ、今の皮肉めいた言い草では、心無い人間だと言っているのと同じではないか。彼女の強すぎる正義感には、鋭いナイフで抉られたような痛みを与えてしまったのかもしれない。
ぼくは慌てて訂正する。
「あ……いや、日出さんを責めているわけじゃ――」
「いいの、本当のことだもの。ありがとう、片藁くん。私も偉そうなこと言えないね。探偵の前に人として大事なこと、忘れていたのかもしれない」
日出さんは苦笑いを浮かべた。鈍感なぼくでさえ、内奥に隠そうとしたショックの色が透けて見える。
それを見たら何も言えなくなってしまった。
彼女が死体に何の感情も抱かなくたって、それは仕方のないことだ。恐らくこの短い人生の間で、ぼくの何倍も何十倍も人の死に直面している彼女にとって、いちいち驚きや怖れを抱いていては、心がもたないのだろう。その自衛のために身につけた平常心という鎧を、無知なぼくは意図せず責めてしまった形になる。それだけ彼女が壮絶な過去を経験してきたことなど知らずに。
なんて馬鹿なんだ。
どう弁明したところで、恐らく彼女には通用しない。むしろ余計な言い訳は彼女の心証を余計に損ねる。かといって、日出さんも三千目さんのように積極的に喋るタイプではない。
必然、次に訪れるのは沈黙。気まずい沈黙。
エレベーターの外には階数表示がなく、いつまで待てばよいのかすらわからない。数分の時間が、まるで無間地獄のような責め苦を味わっているようにすら思えて、ぼくはどんどん居た堪れなくなっていた。
「ご……」
いよいよ素直に謝ろうと口を開いたのに、日出さんと目が合ったら、肺から出てきた言葉はぼくの思考を裏切っていた。
「ご、極彩さんのところに、ぼくも行ってみるよ。厨房で何か手掛かりが見つかったかもしれないし」
彼女は何か言おうとしたようだが、ぼくはその前に逃げるように階段を駆け上がった。腕も脚も振り回して全力で。馬鹿な自分をそこに置き去りにするように。
怒っている時のごめんより、悲しんでいる時のごめんの方が言い出しづらいものだ。逃げの言い訳にしか聞こえないだろうが、気休めの言葉よりも、時間のほうが人の心を宥めることが出来ることもある。
六階に着くと、丁度極彩さんと三千目さんが厨房から揃って出てくるところだった。
「あれ、彼女と一緒じゃないの?」
「ええ、まあ……」
「はっはー。なるほどなるほど、喧嘩でもしたかな。青いねェ、青い青い。青春を謳歌してるなあ。僕にもそういう高校時代があったらよかったんだけどねェ。女子は誰も僕に声を掛けてくれなかったなあ。僕からお近づきになろうとしたこともあったけど、けんもほろろでさ。まァ、仕方ないよね。ほら、高嶺の花ってやつ。皆そんなに謙遜しなくたっていいのにさ」
「花は貴公の脳に生えているのではないか? 無知は罪なりとはよく言ったものだが、そればかりか傲慢の罪まで犯していることを自覚していないとは、なんともはや嘆かわしい。このまま七つの大罪も制覇するつもりか?」
今の状況に似つかわしくない三千目さんの世俗的な話しぶりは、ぼくを非日常から日常へと引き戻してくれる。彼の口うるささが有難く思えるとは世も末だが、人死にが出ているのだからそうでなくても世も末だ。
「貴公のような大言壮語を絵に描いた低俗な人間を伴侶に選ぶ蒙昧な者など、この世には存在しないだろう」
「そうかなァ。僕はむしろ大歓迎。っていうか、そういう人がタイプなんだよねェ。なんなら僕よりもよく喋ってくれる人のほうがいいなぁ。元来僕は人の話を聞くのが好きなんだ。それなのに、みんな凄い物静かだから、仕方なく僕が喋ってるんだよ」
「黙れ、貴公の囀りは耳障りだ。無駄な波長で吾輩の脳を占有するな。鳥のほうが美麗な分、何十倍も有益だ」
極彩さんに一喝され、身長だけなら勝っている三千目さんもすみませんと一言、頭を下げることしかできない。場違いな会話と場違いなその様子がなんだかおかしくて、ぼくはこんな状況にありながらも場違いな笑みを零した。しかし、今のぼくは能天気なほど自分に自信を持っている彼の性格に救われた。口角が上がると自然、気持ちが上向く。嫌な気分も僅かばかり勢力を弱めた。
その後、三人で階段を上がりながら、再度鍵の開いている部屋を確かめたが、どこにも殺人鬼の姿は認識できなかった。
〇階まで上がってくると、玄関ホールでまだ美神さんと一竜くんがエレベータの前で立ち往生していた。いつまで経っても降りてこないと思ったが、エレベータに乗ってすらいなかったとは。
「どうだった?」
何もしていない癖に不躾に尋ねてきたのは一竜くんだ。彼は質問しておきながら、ぼくらが答える前に自分で結論を出す。
「――と言っても、その様子じゃあ誰もいなかったようだね」
「そういう君は何してたんだい? ぼくが食堂から出てきたときにはエレベーターを待っていたみたいだけど、降りてこなかったよね」
というぼくの文句も華麗に反撃される。
「何って、そこのおばさんと一緒に、ここでエレベーターを封鎖していただけだよ、ほら」
一竜くんが指さしたエレベーターの扉は開いていて、箱の中の宇宙が顔を覗かせている。
「馬鹿みたいに全員が全員降りてったら、犯人がエレベーターで僕らの目をかいくぐって逃げるかもしれないじゃん」
しかしそうなると、愈々もって不可思議なことになる。
ぼくらは階段を昇り降りしながら、空き部屋すべてに目を通して誰も隠れていないことを確かめている。ご覧のように、エレベーターは美神さんと一竜くんが押さえていた。
「奇妙だ。だとすると、あの料理を拵えた忌まわしき料理人は、霧の如く消失したとでも宣うのか?」
極彩さんの言う通り。厨房にいたはずの犯人は、完全に姿を消してしまったことになるのだ。
そして一竜くんたちのエレベーター封鎖が、もう一つ重大な事実をぼくに齎した。
「このこと日出さんに教えなきゃ」
おそらくは今も九階で、来ないエレベーターを待っているであろう彼女。情けないぼくが沈黙に負けて置いてけぼりにした彼女だ。
ぼくは慌ててエレベーターに乗り込み、九階のボタンを押した――その時、階段の方から目当ての彼女の声が聞こえてきた。
「このことって?」
「日出さん! ……って、どうしてここに?」
「どうしてって、エレベーターが来るのが遅かったから、階段で来ただけだけど」
「にしては戻ってくるの早かったね」
「美神さんたちがエレベーターで降りてきてるなら、厨房のある六階から私のいた九階まで、さしたる時間はかからないでしょう? なのに全然来ないから、きっと彼女たちは犯人の足を潰すために、エレベーターを待機中の状態にさせているんじゃないかと考えるのは、ごく自然のこと。だから階段で戻ったほうが良さそうだと言おうとしたら、片藁くんが私を置いていっちゃうんだもんね。びっくりしたよ。殺人鬼がいるかもしれない塔の中に、か弱い女の子を一人置き去りにするなんてね」
「あ……いや、それは――」
言葉の節々から読み取れる、刺々とした静かな怒気。それはぼくが皮肉的な言葉を口にした時よりも明瞭とした形を持って、ぼくに迫ってきていた。
「じゃあ、君も少し、一人で置き去りにされる気分を味わってみたらどうかな」
「え――」
声にならない言葉が口から出る前に、日出さんが手を回して閉ボタンを押してしまい、エレベーターの扉が閉まり始めた。
慌てて開ボタンを押そうとしたが、焦った指先は目標から外れて壁に激突する。悶絶するぼくを見ながら笑みを浮かべ、可憐に手を振る彼女の姿は、扉に遮られて見えなくなった。
痛みを堪えながら今一度開ボタンを押したが時すでに遅し。エレベーターの箱はぼく一人を載せて、冷たい塔の中を下り始めていた。
やられた。否――やり返された。




