探求のパラドクス
翌朝、ぼくは早めに目が覚めたので、隣の日出さんの部屋に向かった。
起こそうと思って扉を叩こうとしたが、寸前で逡巡する。まだ寝ているかもしれない彼女を急き立てるのはどうなのか。折角の休息を邪魔するのは助手見習い以下略失格ではないのか。女子は男子よりも準備することが色々多いはずだ。いきなり押しかけるのも失礼ではないか。
頭の中では様々な思惑が目まぐるしく錯綜しているのに、扉に向かって手の甲を向けたまま、凍えそうに寒い廊下で固まるぼく。傍から見れば滑稽な姿だ。
そうやって沈思黙考しているうち、思いがけず部屋の中から清流のような声が聞こえた。
「片藁くん、そんなところに立っていないで、中に入ったらどう? ストーブ付けているから暖かいし」
「あ、うん」
やはり日出さんには千里眼があるのだろう。見透かしたように扉の向こう側にいるぼくを招じ入れた。
それでは失礼して、とできるだけゆっくりと恐る恐る扉を開けながら、室内の様子を窺う。しかしその気遣いは無用のようだった。既に日出さんの準備は万端で、寝起きの油断など存在しないかのように、余所行きの格好で書き物机に座って本を読んでいた。その姿を見ていると、立てば芍薬座れば牡丹とは彼女のための言葉のように思える。
入ってきたぼくに気が付くと、彼女はおはようと挨拶をする。
「どうしてぼくだってわかったの?」
「簡単なことだよ。部屋の前で足音が止まったのに、ノックもしないで声も掛けないでいるなんて、君くらいのものだからね」
きっと彼女には、そこでぼくが考え巡らせていたことさえも御見通しかもしれない。そう思うとやはり気恥ずかしくなるが、さすがに彼女はその内容まで言及する無粋なことはしなかった。
「ところで、何を読んでるの?」
「これ? 『メノン』だよ。徳とは何かについて論じているプラトンの対話篇」
「徳……? プラトン……?」
推理作家なら古今東西問わず大体はわかるのだが、プラトンという作家にも、メノンというタイトルにも聞き覚えはない。暫く考えあぐねていると、日出さんが助け船を出す。
「プラトンは哲学者ね」
推理作家ではなかったらしい。
「人間の徳性を他人に教えることができるかというメノン青年の問に、ソクラテスは自分は徳について何も知らないので、君の考えを教えてくれと、メノンから様々な説を聞き出すのだけれど、そのどれに対しても違うというの」
どうやらミステリでもなかったらしい。しかし――、
「それっておかしくない? 徳のことを何も知らないのに、どうして違うってわかるの?」
「それこそが、かの有名な探求のパラドクスなの」
ぼくは知らなかった。
「ある物事を探求する時、その物事について知らなければ、どうやってそれを知ればよいのかわからないし、仮にその真理に近付いたと思っても、それが真に求めていたものかどうか、知る術がない。かといって、その物事を知っていたとしたら、そもそも探求する必要がない。ここに君の指摘した矛盾が生じるというわけ」
「要するに……、ミステリで例えるなら、事件の真相を知る人間じゃないと、辿り着いた真相が真に真実かどうかはわかりようがないということ、かな」
日出さんは少し難しい顔つきになったが、落ち着いた調子で頷いた。
「そう……なるのかもね。だから探偵は、いつも自分の辿り着いた真相が本当に正しいものかどうか、不安になりながら推理を披露しているの」
「日出さんでもそうなんだ? いつも冷静で自信たっぷりに見えるけど」
「挙動不審な態度だと、話に説得力が出ないでしょう? 私だってただの人間だよ。すべての事柄を大局的に捉えて真相を智るなんてことができる者がいるとすれば、それは神やら創造主でしょうね」
日出さんは笑みを浮かべる。明鏡止水の彼女だが、その実、内面は普通の女子高校生と変わりないのかもしれない。ぼくは日出さんの深意に一歩足を踏み入れられた。彼女との距離感を縮め、信頼関係をより強固にできるのは嬉しい反面、彼女の被っている神秘の仮面を剥ぎ取ってしまったことに、どことなく悔恨の情を抱いている自分もいた。
「それで哲学書の中では、そのなんとかのパラドクスについて解決する方法が示されているの?」
「具体的にどうすればその問題を解消できるかについては書かれていないわ。でも、ソクラテスはこう答えているの。人間の魂は不死で、輪廻転生するものだから、実際には万物の事柄を見聞していて、私たちはそれを記憶の奥底から思い出すことで、新しい物事を知ったような気になっている――と」
「なるほど、そもそも知らないなんてことはない……。って、急にオカルトめいてない? それに、輪廻転生ってヒンドゥー教だか仏教だかの話じゃ?」
「死というのは人類普遍の恐怖の対象だからね。死後、自分たちが一体どうなるのか考えることもまた、人類普遍の哲学的問題。それに輪廻転生はキリスト教でさえ、かつてはそれを認めている宗派もあったくらいだし。誰もが考えることなんだよ。西洋哲学なんて大それた表現かもしれないけれど、結局のところ思想の一つだからね。プラトンが自分の頭で論理的かつ合理的に考えて辿り着いた結論が、それというだけなんだ。でも私たちも探求のパラドクスと同じ理屈で、彼の想起説を否定することはできないよね。だって、魂が不死で輪廻転生するかどうかなんて判別しようがないんだから」
双子の島に伝わる噂、不死に輪廻転生、西洋哲学に大乗仏教――。なんだかこれまでのすべてが一つに繋がった輪――円環になっているような気がしてならない。誰かが描いた青写真の上を歩いているような。ぼくはその何者かの冷たい手が背筋を伝ったような感覚に陥って身震いした。
「まあ、いま私たちが知るべきなのは、もっと俗物的なもので、この島にあるとされる不死の秘術になるわけだけどね」
円環を一周して話が本線に戻ってきたところで、ぼくは思い出してポケットからメモ帳を取り出した。
「ところでさ、昨日一通り塔の中を見て回ったわけだけど、どうかな。これ」
ぼくは頁を開いて彼女に見せる。
「この塔の見取り図。隠された医術の在処を探すなら、何かと必要になると思ってね。それに、これまでの成果の整理もしたかったから」
そこには〇階から九階まで、この塔の平面図が描いてある。昨日の夕食後に各人に訊きまわって、各部屋に泊っている人の名前も記入しておいた。何人かはまともに受け答えすらしてくれなかったから骨を折ったものだ。自分で言うのもなんだが、これまでで一番助手っぽい働きだと思う。
「よくできてるね」
「でもなあ、なァんか見逃している気がするんだよね。違和感があるというか……」
「そうね。きっとその違和感の正体は――」
昨日はこの図を作るので精一杯で、その違和感の正体を手繰り寄せる余裕がなかった。日出さんなら判るかもしれないと思ってやってきたのだが、その前に今一度見取り図を注視してみて、ぼくの矮小な脳味噌の数少ないシナプスも、一条の閃光を灯らせる。先刻の西洋哲学ではないが、日出さんの有難いお言葉を遮ってでも、ぼくが自分の頭で論理的かつ合理的に考えて辿り着いた結論を、口にしてみたくなった。
「あッ、何か足りないなとは思っていたんだけど……そうか。手術室がないんだ……多分」
日出さんがちょっと口の端を持ち上げた――ように見えた。
「そうね。この塔では戦争で負傷した兵士の治療法や頭部移植手術が行われていた。それは、昨日の探索で見つけた資料の断片からもわかること。それなのに、七階は生物化学兵器部門。八階は爆弾開発と医療研究。九階は検体の飼育室と霊安室。これだけで、手術する部屋がどこにもない。八階の医療研究室は、棚やデスクの配置から見ても、手術するような場所じゃなかったわ。これはおかしいよね」
メノンにおけるソクラテスの如く、ぼくには日出さんという師がいるから、探求のパラドクスに陥ることもない。あんなことは言っていたが、やはり彼女はすべてを見通している。
「つまり、隠し部屋がある……ってこと?」
彼女は頷いた。その双眸には揺るぎない確信がある。
その様子から察するに――、
「日出さんには、もうどこに隠されているのか、わかっているんじゃない?」
「一つ、ここではないかという場所があるの。ただ――」
彼女は壁に掛かった時計を一瞥した。七時四十五分だ。ぼくは十分以上も部屋の前でやきもきしていたらしい。
日出さんはお腹を抑えてにっこり微笑んだ。可憐な仕草にドキリとする。
「その前に朝御飯を食べに行きましょう。腹が減っては戦が出来ぬ、だからね」
ぼくらは日出さんの部屋を後にして食堂に向かった。朝食の時間までまだ十五分あるが、既に極彩さんと雨分形さんは入口近くのテーブルについて何か飲みながら話し合っている。ここが彼らの定位置になったようだ。極彩さんはともかく、雨分形さんは朝が苦手らしく、まだ半眼の状態でうつらうつらと船を漕ぎかけている。その度に極彩さんが一発喝を入れて、短い悲鳴が食堂に響いた。
彼ら以外にも、意外な顔がそこにあった。
昨夕は誰よりも遅くやってきて誰よりも早く料理に手を付けた一竜くんが、今朝はもう着席している。大人気取りでまだ短い脚を組んで、コーヒーに口を付けながらノートパソコンと睨めっこしている彼は、入ってきたぼくらには目もくれようとしない。
ぼくと日出さんも準備室から適当に飲み物を選んで、適当な席を陣取った。
「それにしても今朝は寒いなァ。この部屋もストーブが効いているからいいけど、廊下なんてまるで北極だよ」
無論、北極の寒さはこんなものではないのだろうが、しかし冬の北海道の鋭い外気が入口の鉄扉やコンクリートを通して伝わっているのは間違いない。食堂に入ってもなお、歯の根が合わないほどがたがた震えて、自分の身体を抱くようにしていたが、両手に暖かい緑茶の熱を感じながら、体内に取り込むことでやっと落ち着いてきた。
「当然至極。外に堆積した白き結晶は、世界すべてを侵食していると錯覚するほどだ。さながらキリストが全人類の罪業を雪ぎ落し浄めたかのように」
極彩さんが腕を組んだままそう言った。いまいちピンとこないが、雪がかなり積もっているということだろう。しかし、そんな中でも彼はやはり半袖に半ズボンだ。見ているこっちの方が寒くなるから服を着てくれ。
「そんなに凄いことになってるんですか?」
「ふ、二人はまだ見てないんですね。もう、ひ、膝まで埋まりそうなくらい積もってて。と、扉がほぼ開かなくなってました」
「えェ、そんなに? 大丈夫ですかね」
昨日この塔に訪れたときには、まだ薄っすらと地表を覆う程度の積雪だったはずだ。それがたった一晩で膝まで埋まるほどだとなると、一週間後にどうなっているか考えるのも末恐ろしい。そんなことになったら、この極寒の牢獄からの出所が長引くだろう。いくら日出さんと一緒とはいえ、ネットも使えない辺境の地で無期懲役は勘弁願いたい。
「ま、まァ、ご、極さんがいればダイジョブですよ」
「ウム」
動かざること山の如しを地で行く極彩さんを見ていると、確かに安心する。彼の筋肉なら扉が全部雪で埋まったとしても、無理矢理に開けることが出来そうだし、何なら泳いで本土まで戻れそうだ。
そこへ新しく二人が食堂にやってきた。
寝癖が酷くて欠伸がやかましい三千目さん。それを鬱陶しそうに見下している、昨日と同じように仰々しい西洋人形の美神さん。ここに来るまでに充分にその艱難辛苦を味わったようで、美神さんは彼から最も離れた場所に腰を落ち着けた。しかし当の本人は自分が迷惑をかけていることなど露知らぬ様子で、十秒おきに地面を揺るがすような大欠伸を繰り返した。これでは同じ部屋にいる限り、どんなに距離を取ってもさしたる意味はなさそうだ。実際、帽子を目深に被って耳を覆っていた美神さんが、愈々我慢ならなくなってお黙りなさいと雷鳴一発轟かせていた。
八時ぴったりに番田さんと倉々さんが食堂に現れた。べったりくっついたままの二人は、くっついたまま席まで移動し、くっついたまま着席する。くっついていると言っても、番田さんは倉々さんに触れるどころか、いないものとして振舞っているようにさえ見える。それなのに倉々さんの方は彼にぴったり抱きつくようにしているから、やっぱり幽霊に憑りつかれているように見える。
二人が着席すると代わりに美神さんが立ち上がり、準備室に入った。昨日と同じく、厨房の京堂さんから送られてきた料理を取り出すだけの役を買って出たらしい。
ぼくが準備室に入ると、もう既にエレベーターから料理を取り出した美神さんに、皿を押し付けられた。昨日の夕食のように、日出さんや三千目さんの力を借りて、それを各テーブルに運んでいく。
朝食は目玉焼きにソーセージ、サラダにトーストとフルーツ、至って簡素な洋食だ。それでも、香ばしい香り立つ湯気は空っぽの胃袋を刺激して止まない。
しかし今日の朝食は、全員にプレートが行き渡っても、まだ更に一皿が送られてきた。それは五十センチはあろうかという大皿料理。昨日の夕食にもこれほどのものは出てこなかったが。一人で運ぶのも危うい気がしたので、三千目さんに手伝ってもらって、それは食堂の一番大きなテーブルの真ん中に置いた。あまりに目を惹く大きな代物で、自然人が集まってくる。
「なんでしょうか、この料理」
「あの執事のおじさんも随分力入れたなァ」
「食事は量より質というのが吾輩の矜持なのだが」
「ちまちました料理よりも、これくらいの方が高貴で優雅な私には相応しいですわ」
当然この皿にもクロッシュが被せられていて、何が入っているのかはわからない。しかし相当な重さだった。丸鶏の蒸し焼きか鯛の塩釜焼あたりか。いずれにしても朝から豪勢なものだ。
「とにかく開けてみますね」
すっかりお腹が空いたぼくは、巨大なクロッシュに手をかけ、そして持ち上げた。
ぼくらの前に出現したのは、丸鶏でも鯛でもなかった。
色とりどりな生野菜に囲まれ彩られたそれは、紛れもなく人の生首――。この料理を拵え、盛り付けしていたはずの、京堂守富さんの、胴体から切り離された頭部だった。
ぴっちり七三に分けられた髪。瞼は閉ざされ、落ち着いた表情。眠っているようにさえ見えるその顔にはしかし、飛散した血液のソースが付着している。
つい昨日知り合ったばかりとは言え、大皿に載ったそれは、間違いなく京堂さんだ。
頭部は仰向けに置かれていて、実に有難いことに醜い首の切断面が丸見えの状態になっている。
ぼくの視線はうっかりそこに釘付けになってしまった。
気道やら食道やら頸動脈やらがぐちゃぐちゃになって。その中に白くて太い骨が覗いていて。血と脂が蝋燭のぼんやりした灯の下で、てらてらと反射している。
身体中からずるりと熱が抜け落ちていく。小刻みな震えが末端から徐々に身体の中心に浸透し、臓器や果ては細胞一つ一つまでもが打ち震えているようにさえ思えた。まるで唐突な彼の死にぼくの命が吸い取られているかのように。
みるみるうちに酸い液体がぼくの口の中に広がった。胃が蠕動している感覚が振動で伝わってくる。反射的に口許を抑えた。
そして――、絶叫が食堂の中に轟いた。




