五重密室、人食い館、奇跡の再生
ついさっきまで文句を言っていた一竜くんだが、三千目さんのあまりの不甲斐なさに却ってやる気が出たらしい。やはりこの小生意気な少年探偵は、他人を嘲笑するためならいくらでも手間を惜しまないようだ。
「知っての通り僕は一竜沙六。名前のせいで『小学生ホームズ』なんて呼ばれたりするけど、正直その名前は大嫌いでさ」
「どうして? 探偵をやっててホームズと称されるのは栄誉あることに思えるけど」
少なくともぼくからしたらそうだ。ホームズどころか、日出さんからワトソンと呼ばれても嬉しさに尻尾を振るだろう。しかし彼は呆れたとばかりに、大袈裟な溜息を吐いた。肩を竦めて首を振っている様子が、暗がりの中でもありありと目に浮かぶ。
「これだから素人は困るなァ。『小学生ホームズ』なんて呼ばれるのは、まるで僕の能力がホームズ程度、あるいはそれ以下って暗に言ってるようなもんじゃないか。ぼくの力は創作中の架空人物に劣るもんじゃないんだよ。それにそんな何の捻りも面白みもない凡庸な呼称、非凡な僕には似合わないし」
「随分な言い草だけど、それならこれまで解決した事件で、ホームズを超えるような業績を挙げることができたのかな、『小学生ホームズ』君」
三千目さんが悔し紛れに彼から受け取った煽りのボールを返球する。しかし、一竜くんはそれをいとも容易く打ち返した。
「そうだね。例を挙げないことには凡人には判らないよね。僕の解決した事件の一例は『露西亜館五重密室殺人事件』だよ」
おまけにその打球は投手に弾丸ライナーとなって返ってきたようだ。三千目さんは青褪めたへらへら顔になる。
「そ、それってまさか、今年の始めに露西亜民芸研究所の所長が殺された事件じゃ……」
「そうだけど。――ああ、そういえば確か僕があの事件に係わる前に、別の自称探偵が解決できずに匙を投げたって聞いたなァ」
「……っ」
「ま、そんな負け犬の名前なんていちいち覚えてないし、どうでもいいことだけど」
反応からして恐らくその”負け犬”が三千目さんだったのだろう。
『露西亜館五重密室殺人事件』は、今年の一月中頃に、箱根にある露西亜民芸研究所――通称露西亜館で所長が殺害された事件だ。創作の中では密室殺人は一般的だが、現実世界では非常に稀。さらにそれが創作の中でさえもなかなか起こらない五重の密室だというのだから、この不可能殺人状況にマスコミが食いつかないわけがない。当時の連日連夜の苛烈な報道競争に、特異な事件というのも相まって、ぼくもよく覚えている。
露西亜民芸研究所には様々なロシアの民芸品が集められ、展示されていた。研究所とはいうものの、元々は所長の趣味が高じて置き場がなくなった民芸品を飾り付け、客を集めてひけらかす為に作られた私設の博物館のようなもの。華麗できめ細やかな模様で彩られたグジェリ陶器の皿や壺に、色鮮やかな幾何学模様が編み込まれたプラトークなどがジャンル毎に纏められて各部屋に陳列されていたのだが、特に目を惹いたのがマトリョーシカの間だ。その部屋は名前の通り大小様々なマトリョーシカを展示する場所なのだが、ただそれだけではなく部屋の構造もまた、マトリョーシカのように五重の入れ子構造になっていたのである。
ナイフで背中を刺されるという、明らかに何者かに殺害されたであろう姿の所長は、その一番中心に位置する部屋の中で発見された。そして、そこに辿り着くにはマトリョーシカの間の五重の扉を通らなければならないのだ。鍵は扉ごとに異なり、それぞれ複製不可且つ唯一無二のもので、いずれも死体のポケットから発見されたのである。当然、発見時、部屋の中に犯人の姿はなかった。
ある朝、いつまで経っても現れない所長と施錠されたマトリョーシカの間という異変に副所長が気付き、研究所の警備員を呼び集め扉をこじ開けたことにより、死体は発見された。五つも扉を破らないといけないから、かなり大変だったらしい。
「そういえば、確かその露西亜館は夢幻斎京璽の設計だったのではなかったかしら」
というのは美神さんだ。
「左様。彼の建築に共通する特徴とも合致する。しかしそれより、あの事件を解決したのが貴公のような年端も行かぬ子供だったとは……」
「た、確か、あ、あの事件は極さんも興味を持っていましたよね」
極彩さんは感嘆の唸りを上げながらウムと頷いた。
「推理小説を世に送り出す界隈の人間として密室は食傷気味の単語だが、それが五重となると吾輩の鋭敏なる耳でも、この封印されし右手で数え上げられる程度だからな」
「とはいっても僕に言わせれば二流の事件だよ。有名だから例に挙げたけど、真相もすごく単純でくだらなかったし。どうして前任の探偵が気付かなかったんだろうねェ」
一竜くんは三千目さんに近付いて、無邪気で邪悪で快活で悪辣な笑みを浮かべる。
「すごく単純というと、糸を使ったトリックとか? 例えば、死体のポケットに通した糸の両端を持って、扉を施錠しながら外に出た後、鍵に糸を通してロープウェイの要領でドアの隙間から死体のポケットに入れるようなさ」
ぼくは頭に閃いたよくあるトリックを説明したが、一竜くんは欠伸をしながら返す。
「いくら単純といったって、そんなまどろっこしいこと、わざわざするわけがないじゃん。確かに五枚の扉は一直線に並んでいたから、そういうトリックを考えるのもわかるけど、扉の一番外側には監視カメラがあるからどうしたって見つかるし。そもそも扉に鍵が通せるほどの隙間なんてなかったから」
当然のごとく、ぼくの考えなど一瞬のうちに一蹴されてしまう。三千目さんの時と違って、嘲笑されるどころか同情の眼を向けられた。正直馬鹿にされた方がまだ気持ちが楽だ。
「さて、邪魔が入ったけど、続けるね」
すっかり話の腰を折った邪魔者扱いである。それから彼が語った真相は、確かに言われてしまえば何とも拍子抜けなものだった。
「あの事件の犯人はね、最初からマトリョーシカの中に隠れていたんだよ」
三千目さんが目を丸くした。
「所長は毎日閉館後、各部屋の展示を一通り確認してから帰宅する習慣になっていた。用心深い彼はマトリョーシカの間に入るのにもいちいち鍵をかける。中央の部屋で展示を確認していた彼を、マトリョーシカの中に潜んでいた犯人が後ろから襲ったんだ。そして、殺害後に再びマトリョーシカの中に戻った」
「そんな馬鹿なッ! それなら僕も考えついたさ。だから部屋に置かれていたマトリョーシカの中を全部検めた。でも中には誰もいなかった。どのマトリョーシカにもちゃんと中身が入っていたんだ。だから……」
へらへらしながら取り乱す三千目さん。やはり彼が前任者だったのだ。しかし、助手見習い以下略のぼくにしてみれば、マトリョーシカの中に犯人が潜んでいることに思い至っただけでも、三千目さんも腐っても探偵なのだと感じる。
「じゃああと一歩だったのにね。っていうか、犯人がいつまでもマトリョーシカの中にいるわけないじゃん。そんなところにいたら、何かの拍子に見つかった時点でアウトなんだから」
「そうなると、犯人は被害者が見つかったどさくさに乗じてマトリョーシカの中から脱出して、目撃者の中に紛れ込んだということかしら」
「そうそう、やっぱりおじさんよりもおばさんのほうが少しはキレるね」
「おば……」
「いくらどさくさに紛れても、マトリョーシカから人間が出てきたら誰か気付くはずだろう!」
「チャンスはあったよ。副所長と警備員たちが中に踏み込んで、死体以外に誰もいないことを確認した後で、現場保存のために一旦全員部屋から出たんだ。その時に最後の一人として出て行けばいい」
「……そうだとしても、犯人の入っていた中身が空っぽのマトリョーシカが現場から見つかるはずだろう。それがなかったから僕は――」
「そんなもの、マトリョーシカがどんなものか考えればすぐわかるでしょ」
一竜くんのヒントでようやく三千目さんも真相に至ったらしく、へらへらした顔で頭を掻きまわしながらああッと叫んだ。
「そうだよ、犯人は自分の隠れていたマトリョーシカの中に、部屋に展示されていた別のマトリョーシカを入れたんだよ。別の、というのは不適切かな。正確に言えば、犯人は事前に自分が隠れるマトリョーシカの中身を外に出しておき、恰も元から展示されていたかのように見せた。マトリョーシカから出るときに、それを元に戻したってわけ。部屋の中の大量のマトリョーシカが一個増えたり減ったりしたところで誰も気づかない……所長は気付いたかもしれないけど。気付いた時には殺されていただろうね。ま、とにかく、犯人の隠れていたマトリョーシカの内部から微量のルミノール反応が出たから間違いないよ。犯人は血痕を踏んだ靴のまま、中に隠れていたからね」
「そ、そんな……」
「つまり犯人は死体を発見した目撃者の中に紛れ、警察が来るまでの間に逃げおおせたわけだけど、異変に気付いて最初に扉をこじ開けようとした副所長には不可能。ということは、その場に駆け付けた警備員の中の誰かだね。警備員なら制服を着ていて格好が同じだし、事件当時は十数名が現場に居合わせていた。一人増えたところで誰も気づかない。しかし制服が盗まれたという話はなかった。事情聴取の結果、当日勤務していた警備員には犯行時間にアリバイがあることが確定している。ここまでくればもうわかるよね」
「死体発見時に非番だった警備員……か」
「ピンポーン、大正解! よくできました~」
脱力してその場にへたり込む三千目さんの頭を、一竜くんは仕返しとばかりにこれでもかとぐしゃぐしゃ撫でまわした。
「は、犯人が密室にした理由はなんだったんですか?」
雨分形さんの疑問にも、一竜くんは明瞭に答える。
「うん、それはね、マトリョーシカの間に入る最初の扉の前に、監視カメラが設置されていたからさ。昼間は警備員が充分にいるというのと、動画の容量の問題で夜間だけ作動するものになっているんだけど、殺害した直後に逃げようとすると、どうしてもそこに自分の姿が映ってしまうでしょ。だから、逃げるに逃げられなかったんだ。それに、鍵を掛けておけば、朝になって不審に思った職員が大勢集まって、皆で扉を破って中に入るだろうと予測できる。そうすれば、自分が発見者に紛れ込める可能性が高まるってわけさ」
そこには一分の隙もない。もはや言い返す力もなく項垂れる三千目さんが段々不憫になって、ぼくは立ち上がった。
「えーっと、じゃあ、そろそろぼくの自己紹介でも」
雰囲気を変えるための自己紹介だったが、その場の誰もがぼくなんかには興味がないようだった。
頬杖をついて冷めた目で見る一竜くん。欠伸をする番田さん。その番田さんだけを注視している幽霊女。五重密室の真相に茫然自失の三千目さんに、今の事件の話を参考に一本書けないかと打ち合わせを始める極彩さんと雨分形さん。
小中高の自己紹介で鉄板のボケも、聞かれていないのでは意味がなく、ただ虚空に流れて消えていくだけ。その時間は一秒が一時間にさえ感じられるほど長く苦痛を帯びたものだった。涙を心の中に押し止められたのが自分でも不思議である。
ぼくが再び椅子に腰を下ろすと、日出さんが慰めるように肩をポンと叩いた。それだけで大分気持ちは楽になる。
「それじゃあ片藁くんの次は私ね」
日出さんが立ち上がる。
「日出最子です。よろしく」
そして着席する。
相変わらずだ。自分のことは多く語ろうとしない。必要最低限のみ。
先の二人のように解決した事件を披露しないのが面白くなかったのか、一竜くんが突っかかる。
「え~、それだけ? お姉さんも一応探偵なんでしょ。だったらなんかないの?」
「残念ですけれど、私には皆さんに披露できるような事件などありません。それに私は君の言う通り探偵。探偵の仕事は事件を解決することで、喧伝することではありませんから」
澄ました顔で澄ましたことを言う日出さん。静謐で柔和な物腰だが、その口調にはどこか有無を言わせないところがあり、これ以上喋る気は毛頭ないという心持はその鋭い視線から明々白々だ。さしもの一竜くんも、彼女の内から空気を通して伝わる気迫に、それ以上追及はできないようだった。
「ちぇッ、つまんないの」
と捨て台詞を吐くので精一杯らしい。その声は微かに震えていた。
「それなら次は私が華々しい私を華々しく紹介いたしましょうか」
今度は美神さんが立ち上がり、ドレスの裾を抓んで軽い会釈をした。こんな仕草は映画の中の代物だ。普通の日本人がこんなことをしても、わざとらしさや媚っぽさが鼻につくだろう。しかし西洋人形の格好をした、存在からして異次元的な彼女がすると板について見える。
「私は美神麗。旧華族である美神財閥の末裔で、淑女の嗜みとして超能力や呪術に係わる事件を調査しておりますの。そのついでに警察の方々に事件解決のご協力をいたしておりますわ。私の担当した事件で、皆さんもご存知なのは『人食い館事件』ではないかしら」
人食い館――。それは、信州の山奥にひっそりと佇む木造の洋館で、所有者やその家族が次々に謎の死を遂げることから、その異名がついたとされる。噂が本当かどうかは知らないが、ネットのオカルト板などでは何度も話題に上げられている話だ。
「あ、あれって作り話じゃなかったんですか?」
いつの間にか打ち合わせを終えていた雨分形さんが、美神さんに対しては質問する。ぼくのボケにも突っ込みを入れてもらいたかったものだ。
「モチロン。人食い館は実在してましたわ」
「していた、ということは、も、もう……」
「取り壊されてしまいましたわ。私がその館の謎を解き明かしてしまったので」
「じゃ、じゃあ呪いでは……」
「ありませんでしたわ。残念ながらね。結論から言ってしまえば、あの館の壁にはリシンを混ぜ込んだ塗料が使用されていましたの」
日出さん曰く、リシンはトウゴマという植物から抽出できる天然毒で、ほんの少量体内に取り込んだだけで死に至る強力な毒物なのだそうだ。接種すると咳や吐き気、発熱などの症状から始まり、数日で死亡する。現在でも解毒薬はなく、対症療法でしか治療できない。
「館に住む人間が死んでいくのは、壁を傷つけたときに散った粉塵に含まれていたその毒物を吸い込んでいたためね」
となると問題になるのは、一体どこの誰が、何の理由でそんな物を使って屋敷を建てたのか。ということだ。すると美神さんは、やはりぼくの心を透かしたかのように、勝手にその疑問に答える。
「昔、その近くで名を馳せていた大地主の息子が、不義理なことに、制止する母親を突き飛ばして家の金を盗み、他の村の娘と駆け落ちしたそうよ。母親はその時の怪我が原因で亡くなってしまったの。その恨みを晴らすため、息子たちが結婚すると聞きつけた地主が、館を使用人に作らせて、ご祝儀として贈呈したのよ」
「それで……」
「勿論、館の罠が発動して、息子の家族は全員死亡したわ。そこから呪いの人食い館の噂が広まっていったというわけ。長い間放置されていたけど、理由がわかったら危険だからということであっさり解体されてしまったわ」
それを聞いて雨分形さんはどこか残念そうにしている。彼もまたオカルトに興味でもあるのだろうか。そうかと肩を落とす彼の隣で、それまで黙って耳を傾けていた極彩さんが美神さんに睨みをきかせた。
「……貴公の目的は謎を解き明かすだけではなかったのではないか」
「どういうことかしら」
「吾輩の杞憂なら謝罪しよう。だが、貴公は超能力や呪いの調査が趣味で、謎を紐解くのはついでだと陳述した。であれば、何か他に意図があったのではないかと勘繰るのも自然の理だろう」
「つまり――?」
「貴公はその館が真実禍々しい呪いを孕んだ禁忌の館であることを見極めるために、その適当な謎解きで業者を納得させ、故意に破壊させしめたのではあるまいか。真に館が呪力を持つなればその身が滅ぼされんとする際に発揮される――作業員に某かの不幸が降りかかるであろうことを期待して……な」
背筋に悪寒が走った。高圧的な性格には難があるものの、何やかや言いながらも夕食の手伝いをしてくれた彼女は、少なくとも悪い人間ではないだろうと思い始めていた矢先にこれだ。白粉で隠した彼女の素顔は、そんな奸計を企む悪の顔なのだろうか。
当の美神さんはにっこりしたまま。反駁もしない。それがまた気味悪い。
「しかし――、人間の脳の内にのみ存在する思考など証明することはできん。故に吾輩の只の空想だがな。
失礼、閑話休題。吾輩の紹介が遅れていた。吾輩は極彩遥。我が師である雨分形生日の生み出した幻想世界を洗練し、広く世に宣教させることが使命」
「あ、極さんは出版社の編集者で、ぼ、ぼくの担当なんです」
雨分形さんが極彩語を翻訳してフォローに入る。
師弟関係が逆だとずっと思っていたが、作家と編集ということなら得心が行く。とは言え、やはり作家というより子分か腰巾着というのがしっくりくるが。
「吾輩の担当した事件など師の其れと比較すれば、砂礫の如く矮小且つ陋劣なり。故に師の手腕を滔々と語れば充分であろう。
諸君らは数年前の夏に上州で起こった鏡館の事件を耳に挟んでいるだろうか。本邦屈指の推理作家であった黒峰鏡一が自作の舞台を財を叩いて具現化し、そこでの催しで起こった連続殺人のことだ」
その事件なら当時かなり話題になったことを記憶している。
ぼくはまだ中学生だったが、既に推理小説に魅入られていたから、その方面の大家である黒峰先生の小説は、教典を読むが如くに穴が開くほど繰り返し熟読したものだ。だからこそ、その訃報は自分のみならず全国の推理小説好きにとって衝撃的で、しかもその事件が黒峰先生の遺作に擬えた見立て殺人だと判明した日には、興奮と悲観の入り交じった実に複雑な心境に陥ったものである。
まさかあの事件を解決に導いたのが――、
「誰あろうここにいる我が師は、警察が到着する前に全ての謎を解き明かし、真犯人を逮捕した立役者なのだ」
「そうか。雨分形生日ってどこかで聞いたと思ったら、その事件を小説として出版した作家でしたね」
ぼくは指を鳴らした。
「著作には他にも『奇人島殺人事件』に『契鬼伝説殺人事件』があったはず」
自分が読んだと記憶している絵画の暗号に鍵のトリックは、確かその中の一作のものだったはずだ。
「……最近はあんまり聞かないですけど」
だから推理小説好きの自分でも、今の今まで気付かなかったのだ。しかし、それに関して極彩さんはたった一言。
「我が師は遅筆なのだ」
「ちょっ、極さん……。あ、いや、お、お恥ずかしい……」
雨分形さんは顔を紅潮させて、マッチ棒のように細くて生白い腕で頭をぼりぼりと掻いた。戦後に活躍した昭和の名探偵よろしく、フケをこれでもかと飛び散らせる。それが鼻腔を擽ってくしゃみが出た。汚らしい。
「それじゃあ残りは番田さんですね」
「フン、俺ァこんな学校みてえなくだらんことには気が進まねェんだがな」
その口振りとは裏腹に、どこか満更でもなさそうな顔の番田さんが隣の女の腰を抱いて立ち上がった。
「番田万蔵。医療法人万枢会番田病院の院長をやってる。んでもってこっちの、陰気で暗くて影の薄い、愚鈍で陰気な醜女が俺の秘書の倉々って奴だ」
「……」
「俺が紹介してんだから挨拶ぐらいしろや」
黙ったままの倉々さんの頭をひっぱたく番田さん。あまりに自然に、相槌を打つかの如くの暴力で、止めに入る隙もなかった。
叩かれた彼女はそれでも数秒間を空けて、ようやく口を開く。
「……倉々……糸葉です……」
「やればできるじゃないか。最初からそうしてればいいんだよ。なァ」
「御免なさい……先生」
今度は番田さん、気色の悪い猫撫で声で彼女の頭を抱き寄せると、脂に塗れた手で髪を撫でた。しかし、倉々さんは長い前髪で表情こそ全く窺えないものの、嫌そうな素振りは見せていない。暴力男に見られる典型的な飴と鞭である。
「番田院長、確か十年前に『再生会の奇跡の再生』の実態を暴露して、廃業に追い込んだのは貴方じゃなかったかと記憶しているんですが」
その時、美神さんの表情が一瞬苦々しくなった――ように見えた。あるいは蝋燭の陽炎がなした幻影だろう。
「成程。吾輩も番田院長という呼び名は覚えがある」
「ああ、そう言えば――」
三千目さんの言葉に極彩さんとぼくが呼応する。番田という名前だけだとピンとこなかったが、番田と院長を繋げると世界的に有名な推理小説家の名前に似た響きになる。そのせいで記憶の片隅に残り続けていたのだ。恐らく彼自身もそれを気に入っているのだろうというのは、万枢会という名前からも察せられる。
『再生会病院の奇跡の再生』は、当時、横浜の大病院だった再生会病院で、死亡したはずの患者が院長直々の処置により息を吹き返すという事例が相次いだために、世間で脚光を浴びるようになった一連の騒動のことである。しかし、昨春にその奇跡の生々しく恐ろしい実態が明らかになったため、院長をはじめとした病院関係者が続々と検挙され、殺到していた患者は嘘のように潮を引いてしまい、急速な経営悪化で再生会病院は二度と再生不可能な姿に成り果てた。
そもそもは子供が死んだことを受け入れられない親に、病院が系列の孤児院からよく似た子供を替え玉に立てさせたために、その家族の近所で子供が生き返ったと噂されたことが、すべての始まりだった。そのうち、患者の数が徐々に増え始めたことに気を良くした病院が付け上がり、噂を更に確固たるものにすべく、身の毛のよだつ画策を始めてしまう。
嬰児を意図的に殺害し、処置によって遺体が息を吹き返したとして、代わりに親に棄てられた別の嬰児を両親の許に戻すようになった。他にもこんな事例がある。三つ子を妊娠していた母親に双子だと偽り続け、全身麻酔を用いた帝王切開の出産で母親が眠っている間に、生まれた子供の一人を隠しておく。出産から数日後に双子として生まれた子供のうちの一人を殺害し、隠していた子供を生き返ったと称して両親の許に返していた。
再生とは名ばかりの嬰児殺しが、あの病院では十五年もの長い間幾度となく行われていたのだ。
それを白日の下に晒したのが、倫理観とは無縁そうな番田さんというのは意外だった。
「あれか。まァ、再生会と俺の病院は前々から患者の取り合いをやっててな、所謂犬猿の仲ってヤツだ。その上あの病院に、医学生時代の嫌な同期が異動してきたって聞いてな。いよいよ目障りになって、それでだよ」
「まさか、あの真相は捏造――」
「おい小僧、人聞きの悪いこと言うもんじゃねぇぞ。わかってるか、俺ァ医者だ。変なこと言ってると、お前がこの島で病気になった時、えらい目に遭うかもしれねェからな」
脅されてすっかり何も言えなくなった。確かに、一週間ばかりの滞在だが、絶対に怪我もしない、体調も崩さないとは言い切れない。その時頼りに出来る医者は彼しかいないのである。彼の前であまり不用意なことは口にしないほうが得策かもしれない。それに真実がどうあれ、自分が想像している悪い方向のものだと判明したところで、ただただ胸糞やこの島での共同生活の雰囲気が悪くなるだけで、得することなど何もないのだ。
「それで? 全員の自己紹介が終わったが、次は何すんだ? オリエンテーションよろしく親睦を深めるゲームでもしようってか?」
嫌味な言い方で番田さんが三千目さんを揶揄する。ようやく立ち直ったらしい三千目さんは、相変わらずのへらへら顔で頭を掻いた。
「いやあ、そこまでは特に考えてなかったなァ。……ああ、例えばこういうのはどうかな。今日皆がこの塔を探索して発見した成果を報告しあうっていうのは? そのほうが、ここに隠された秘密とやらを見つける可能性が高まると思うけど」
急な思い付きだが悪くない。とでも言いたげなへらへらしたり顔の三千目さんだが、これはどうやら最悪手だったらしい。周囲から避難囂々の嵐。
「何ふざけたことぬかしてんだよ、探偵風情の青二才が」
「笑止、有り得ん」
「やっぱおじさん馬ッ鹿だなァ。そんなことやっても誰も何も言うわけないじゃない」
「それはそうですわね。皆で仲良く考えて真相を見つけようだなんて、私のように誇り高き名探偵がやるべきことではないわ。それに、成功報酬が最初に見つけた一人だけに支払われるとあっては、お金に目の眩んだ方々が抜け駆けをしようとするのも目に見えています。まあ、幸い私はそちらの方面で困ったことはないので、関係ありませんけどね」
結局、いつものように最後には三千目さんが槍玉に挙げられて終わる運びとなった。




