すべてを智る者
あの大事件があったというのに、小説を出版して作家デビューしたことを除けば、ぼくの生活は変わり映えのないものだった。今日この日までは。
黴くさい木枠の窓から初夏の風が吹いて、がたがたと耳障りな音を立てた。
築八十年のこのアパートには、高校に通うために上京してからずっと住んでいる。居室は四畳半。あちこちにガタが来ている。柱や壁にはそこかしこに細かなひびが入っているし、雨が降れば天井から雫も落ちるおまけつき。有り難くて住人の眼からも情けない雫が垂れる。
こんなところだから、高校の友人はおろか、中学以前の知り合いでさえも部屋にあげたことはない。
ところが今、そんなぼくの部屋に二人の見知らぬ男が上がりこんでいた。一人は日本人離れした彫りの深さとぴしっと通った鼻梁を兼ね備えた面立ちの男。玄関先で出くわしてからずっと、なにか自信ありげな微笑を浮かべている。もう一人はいかにも日本人的な、のぺっとした貧相な顔をしている男で、こちらはどこかそわそわしていて落ち着きがない。
――ガタガタガタッ。
またしても、一陣の風が吹いて、窓枠が不快な音を立てる。
しかしそれよりも不快なのが、その男たちだ。中古の低スペック激安パソコンに向かって原稿を書いているぼくの背後で機を窺っているのか、未だにだんまりを決め込んだまま。何やらじろじろと部屋を見回しているような素振りなのが、視界に入れなくてもわかる。これでは作業に集中できようがない。
いい加減にたまりかねて、ぼくのほうから振り返らずに尋ねた。
「それで、ぼくに訊きたいことというのは一体なんなんです?」
「いや、突然押しかけて失礼。どうぞ執筆を続けたままで結構です」
もとよりそのつもりだ。
「それで一体何を――」
「片腹先生が出版された作品、拝読いたしましたよ。『双子塔の殺人』、大変興味深い内容でした」
その話は玄関先でもされた。それについて訊きたいことがあるというから、素性も知らない不審な男たちをわざわざ部屋に上げたのだ。ところが読んだなどと言うわりには、ぼくの名前すら間違っている。
軽く苛立ちを覚えた。とはいえ、ぼくは冷静沈着な人間なので、そのことを表には出さない。平静を装って訂正する。
「どうも。ところで、ぼくの名前は片藁です」
「ええ、知っていますよ。これでも私、物覚えは良い方なんです。片腹痛先生」
「……」
この男、人の話を聞いているのだろうか。
呆れて口を噤んでいると、傍若無人男の隣に座している優男が小声で耳打ちして戒める。
「片藁観月先生ですよ」
「ああ、そうだったかな……。そんなことより、片腹先生」
もう名前はどうでもいい。優男も咎めることすらなかった。
盛大に間違えておいてよくできるものだが、傍若無人男は極めて真面目くさった口調で続ける。
「重要なのは貴方が書かれた『双子塔の殺人』のことです」
『双子塔の殺人』。
それは去年の冬に、ぼくが遭遇した事件をもとにして書いた小説である。
双子の塔を舞台に起こったあの一連の惨劇は、あまりに狂気に満ちた様相を呈していたため、発覚直後はセンセーショナルな報道があちこちで繰り広げられた。ところが何らかの圧力がかかったのか、翌日にはどこの局も新聞社も雑誌社も、ぱったりとこの事件を取り上げなくなったのである。
そんなことがあったから、事件から五か月ほど経っていたものの、ぼくの小説も出版できるか怪しいところではあった。ただ、あくまで事件をもとにしたということと、登場人物の名前を変えたのが幸いしたらしい。特に問題もなく発売に漕ぎつけた上に、有難いことに書籍の売れない今時珍しくベストセラーにもなった。
そんな危険を知りながらも、ぼくがあの小説を書いたのは――、
「貴方があの小説を書いたのは、名探偵である彼女のためですね」
背後の男は、まるでぼくの思考を読んだかのように、それでいて何でもないことのように、そう断言した。
「彼女……名前を何といったかな。変わった名前だったから覚えているよ。確かヒーコラヨット? 違うな、ヒーコラサイサイ?」
「日出最子です」
優男がすかさず訂正したが、相変わらず傍若無人男の覚えている名前はめちゃくちゃだ。瞬間張り詰めた緊張が、しぼみゆく風船の空気のように抜けてしまう。
「そう、それだ。貴方は、名探偵である彼女のことを心底愛していた」
そんなことは、あの小説を読めば誰でもわかりそうなものだ。
これは期待はずれだったか。今しがたの思考を先読みしたかのような言動に、少しばかり鋭い男だと思ったのだが。
しかし、傍若無人男の口は更に動いた。ぼくの思わぬ方向に。
「そして同時に――、彼女を心底軽蔑してもいたのでしょう?」
思わず、タイプする手が止まった。
一瞬の静寂。
そののち、再び窓枠が揺れる。心地よい風と、不快な音。
ぼくは初めて二人に向き直った。
傍若無人男は、玄関先で会った時のまま、自信に満ち満ちた表情をしているし、隣の優男はやはり変わらず挙動不審だ。
ぼくは傍若無人男の彫りに隠れた瞳を見つめ返した。腹の中で何を考えているのか、探りを入れようかとも思ったが、彼の灰色の瞳に射竦められて、逆に自分のほうが探られているような感覚を覚える。実際、そうなのだろう。
ぼくはその瞳から逃れるように机の引き出しを開け、中から一冊の本を取り出した。
出版社から記念にと貰った、『双子塔の殺人』の初版本。
表紙と裏表紙に、それぞれ島の陰影が描かれている。その上に手を乗せて、目を瞑る。
ぼくは思いを馳せた。半年前のあの時に。この小説の出だし、日出最子が推理を始める、あの瞬間に。