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雨の街

作者: 葉里ノイ

また不穏なお話になりました。

雨の日にぴったりな悪夢です。

・゜.。.゜・゜.。.゜・゜.。.゜・゜.。.゜・゜.。.゜・゜.。.゜・



 鈍色の雲が建物の隙間から見下ろす暗い路地の中で、いつもと変わらず覇気の無い目で辺りに視線を巡らせる。

 何もなければ静かな街だった。そして何もないから静かだった。

 皆隠れるようにひっそりと暮らしているが、その殆どは廃墟であり誰もいない。

 煉瓦の壁を背に座り込みぼそぼそと独り言を喋る虚ろな目の男達の前を通り過ぎ、ゴミを踏んで路地を抜ける。家々の間に渡された洗濯紐に、今は蔦がカサカサと好き勝手に絡まって見下ろしている。その所為で空はあまり見えないが、天気くらいはわかる。今日は曇りだ。雨も降るかもしれない。

 傘など持っていないので、降り出す前に帰ろうと誓う。

(あ)

 路地の陰に足の先が見えた。靴底が見えている。そんな時はそう、大抵は――


 死んでいる。


 とても良いとは言えない襤褸を纏った身形の男が、仰向けに転がっていた。そのことに青年は驚かず、大して興味もなく傍らにしゃがみ込んだ。まあいつものことだ。これが日常だ。ごそごそと死体の服を漁り、小銭が数枚。……まあこんなものだ。家も無い貧しい者が金目の物を抱えていることはまずない。

 小銭を自分のポケットに捩じ込み、青年は男の脚を掴む。そのままずるずると引き摺っていく。これも日常だ。何もない虚無な日常だ。

 一見誰もいないが、視線は感じる。お互いに興味はないが、動く者にただ何となく視線を向けているだけ。ずるずるずるずると死体を引き摺って歩いているだけの青年に、誰が興味を示すと言うのか。

 石畳の段差にごつごつと引き摺る頭をぶつけながら細道を暫く歩くと、地面が石から土に変わる。好き放題に生える草を踏み奥へ進むと小さな荒屋が見えてくる。荒屋の壁には訪ねてきた客人用の小窓があり、壁を叩くと小窓が開いてフードを目深に被った男が顔を出す。

「…………」

 男は青年の引き摺る死体を一瞥し、小窓から手を突き出した。青年はその手から小銭を受け取る。その遣り取りだけで小窓は閉まる。言葉は交わさない。いつものことだ。

 青年は荒屋から少し歩いた先にある死体置場に死体を置き、さっさと踵を返した。受け取った小銭を見下ろし、またポケットに捩じ込む。

 一仕事終えて空を見上げると、いよいよ雨が降りそうに鈍色の雲が暗く厚く覆っていた。家に着く前に降り出すかもしれない。青年は自然と足早に来た路地を戻る。

「わっ……!」

 雲の様子を見上げながら歩いていた所為か、足元の障害物に気付かなかった。思い切り躓いてしまった。

 目を下ろすとそれは、人の足だった。先程通った時はなかったはずだ。足はゴミが溢れ倒れたゴミ箱の中へ続いている。ゴミ箱が倒れて中身が放り出されたようだ。

 ゴミはゴミ箱へ、と言うのはゴミ溜めのこの街では良い心懸けかもしれないが、死体は入れないでいただきたい。見た所この足の大きさだとまだ子供だ。子供が野垂れ死ぬのも珍しくはないが、良い気はしない。このままここに置いておくわけにはいかない――が、雨も降りそうなので後回しだ。死んだ人間が幾ら雨に濡れようが何も言わないが、生きている人間である青年は雨を避けたい。

 目を逸らし足早に去ろうとした所で、突然ガクンと足が動かなくなった。足首に何かの感触がある。

「……」

 青年はゆっくりと足元を見下ろした。足首をぎゅうっと小さな手が掴んでいた。さすがに少し声が出そうになった。

 手はゴミ箱の中から飛び出している。小さな足の主だとすぐに推察できた。掴んできたということは、これはまだ生きている。

 掴まれた足を引くと、するりと手が解けた。弱々しい子供の力だ。

「……出られないのか?」

 ぽつりぽつりと、空から水滴が降ってくる。

 返事はなかったが、青年は一つ溜息を吐き、ゴミ箱からゴミを引き摺り出す。

 虫の集るゴミを退け、最後に子供を引き摺り出した。

 もし学校に通っていたら小学校に上がりたてだろうか。絡まった長い髪の間から、虚ろな大きな瞳で青年を見上げる。女の子だった。

 頭に当たる雨をフードを被って遮り、青年は立ち上がる。生きている人間には用はない。本格的に降り出す前に帰ろう。

 あちこちゴミの散乱する細道を無言で進み、ぼそぼそと独り言を呟き続ける男の前を通り過ぎ、速度を上げる。

 ついてきている。先程のゴミ箱少女が無言でついてきている気配がある。

 いよいよ走ってゴミを蹴り、路地の陰に飛び込む。少女一人に何を焦っているのかと思うが、このまま家までついてこられても迷惑だ。

 静かな街をバタバタと走り回って少女を撒き、漸く家に辿り着く。久しぶりに走った気がする。薄暗い階段を息を整えながら上がり、三階にある家へ。鍵を開ける間も廊下をきょろきょろと見渡して部屋に入る。薄暗い殺風景な部屋が落ち着く。

 本格的に降り出した雨が窓を叩きつける音を聞きながらフードを脱ぎ、食器棚からマグカップを引っ張り出す。足元の古い冷蔵庫を開けようとして、ふと視線に気付いた。

「!?」

 ドアの前に先程の少女が立っていた。ドアは閉まっているが、鍵を締め忘れてしまったのか。振り切ったと思ったのに。

 少女は雨に濡れて髪から水滴を滴らせながら、ぼんやりと青年を見詰めて立っている。絡まった髪にゴミの欠片もまだ絡みついている。

「……」

 こんな汚れた街の中で生活をしておきながら、青年はゴミが嫌いだった。建物は古くボロボロだが、部屋の中はきちんと掃除をしているつもりだ。そこに雨に濡れたゴミ塗れの汚い少女が立っている。それが許せなかった。何故ついてきたのかは二の次だ。

「風呂だ。風呂に行け」

 少女はぼんやりと不思議そうな顔をした。風呂がわからないのか。青年は浴室を指差し促す。

 それでも動かないので少女の背を押し、浴室に立たせた。シャワーを手に水を出し、服を着たまま少女に浴びせた。

「!」

 雨のように吹き付けるシャワーに少女は驚いて目を閉じた。

 絡みつくゴミを取りながら、絡んだ髪を手で梳かす。少女は手をばたばたと初めて反応らしい反応を見せた。

「ぅあっ、溺れる!」

「言葉を話せるなら何よりだ」

 学校へ行けるような身形ではないが、会話はできそうで少し安心した。青年も学校は昔少しだけ通っていたので話すことはできるが、読み書きは苦手だ。今はあまり人と話す機会がないので会話も得意とは言えないが、子供相手なら何とかなるだろう。

 たっぷりとシャワーを浴びせてゴミを払ってから漸く水を止める。髪はまだ絡んだままだが、とりあえず雑巾を絞るように水を切る。

「うー」

 不満そうに唇を尖らせる少女にタオルを投げて寄越し、青年は漸くマグカップに水を注いだ。

 台所に寄り掛かりながら水を一口飲み、改めて少女を観察する。人のことは言えないが、見窄らしい格好だった。格好はこの街に相応しいが、色素の薄い金色の髪はこの汚れた街には似付かわしくなくとても目立つ。生気はないが、青い目もあまり見掛けるものではない。何処からか流れてきたのか。

「お前、何でついてきた?」

 少女は体を拭く手を止め、じっと青年を見上げた。観察し返されている。居心地悪く、青年は目を逸らした。

「動かない人、連れていった」

 死体を運んでいた所を見ていたのか。と言うことは、その時は頭をゴミに突っ込んでいなかったはずだ。

「それで、何でゴミの中に?」

「何かあるかと思って見てたら、お兄さんが通って、ゴミが崩れた」

「俺の所為みたいに言うな」

「動かない人は何処に行ったの?」

 何も知らない目で見てくる。空虚な目で、何も期待していない目でじっと。

 普通は子供にこんな話をするものではないのだろうが、こんな夢も希望もない街でそんな気遣いは不要だ。明日を生きるために必要なことをしているだけだ。

「掃除」

「……?」

「落ちてる死体を拾って処理する、死体専門の掃除屋」

 理解したのかしてないのか、少女はわかったような顔だけはする。

 生きることも困難なこの貧民街(スラム)では、死体が落ちていることなど日常茶飯事だ。道端に転がっている邪魔で不衛生な死体を片付ける仕事。碌に金にはならないが、ある意味天職と言えた。死体からも金目の物は拾っておくが、碌な物は持っていない。

「次はお前が答える番だ。何でついてきた?」

 もう一度最初の質問を投げる。少女は何も答えていない。青年に話させているだけだ。答えなくてもいいのだが、人とまともに話すのは久し振りなのだ。反射的に答えてしまった。

「助けてくれたから」

 助けなければ良かった。青年はそう強く後悔した。

「……雨が止んだら出て行けよ」

 雨宿りくらいは許してやる。それくらいは人の心が残っている。

「ずっと降ってたら、ずっといていいの?」

「……」

 それは考えていなかった。だがこのまま一生降り続けることはないだろう。

 少女は濡れた服のまま、二人掛けのソファに勝手に座る。最新新品キラキラなソファではないが、青年は引き摺り下ろそうとしてやめた。捨てられていた古いソファを拾ってきて置いているだけだ。

「お兄さんは何て言うの?」

「そういうのは自分から名乗ってからだろ」

「名前わからない」

「あそ。俺も名前忘れた」

「本当に?」

「本当」

 名前を呼ばれなくなってもう何年経つのか。自分の名前なんて疾うに忘れてしまった。少女のように呼ばれる名前を知らないことも珍しくない。名前なんてこの街では無意味な記号だ。

「何て呼べばいいの?」

「呼ぶ必要性がない」

「呼ぶ必要性がない、って呼べばいいの?」

「何でだよ」

 言葉がわかっていないのかと疑念を抱き始めた所で、少女から腹を締め付けるような音が響いた。すぐに理解した。腹が減っているのだと。大方、食べる物を探してゴミを漁っていたのだろう。痩せ気味の体で大体想像はつく。

 くるりと背を向け、薬缶に水を入れる。少女が腹を空かせているからではなく、青年も腹が減っているのだ。遠慮を知らない腹の音で思い出した。

 金を払っていれば、この底辺の街でも水は出るしガスも使える。薬缶を火に掛け、沸くのを待つ。その間に棚からカップ麺を取り出しておく。

 少女がソファから身を乗り出して見ているのが、背中越しでもわかった。少女に背を向けたまま薬缶に目を落とす。ただじっと湯が沸くのをぼんやりと待つ。

 自分一人が食べていくだけで精一杯のこの街の中で、譬え子供でも世話を焼くのは難しい。本当は、そうなのだ。

 沸いた湯をカップ麺に注いで蓋を閉め、適当に待つ。少し硬めの二分程で蓋を開け、フォークを手に机を挟んで向かいにある所々破れたソファに腰掛ける。ずっと立っていたのだから、そろそろ座りたかった。少女に接近することにはなるが。

 少女の視線は気にせず、フォークに麺を絡めて冷ましながら食べる。勝手についてきただけなのだ、空気だと思うことにする。

「ほあぁ……」

 思わず声が出ていることにも気付かず少女は湯気が立ち上るカップを覗き込んで見ているが、青年は目を逸らした。くれと強請(ねだ)るかと思ったが、予想に反して何も言わず、ただ見ているだけだった。言ってくれた方がまだはっきりと断ることができたのに。

 青年はカップとフォークを置き、立ち上がって棚を漁る。じっと目で追う少女に新しいカップ麺を投げた。

「いいの?」

 受け止め損ねて一度は落とすが、拾ってきょとんとする。

「見られてると食べにくい」

「ありがとう」

 少女は見様見真似でカップの蓋を開ける。青年が湯を注ぐ間も目を逸らさず、珍しそうに見ていた。

 親が死んだか捨てられたかは知らないし詮索するつもりもないが、この街でこんな子供が一人で長く生きられるとは思わない。雨が止んだら無慈悲に放り出すつもりだが、無慈悲なんて言葉が浮かぶ程度には青年はお人好しらしい。そんな言葉が浮かぶ時点で、無関心にはなれていない。

 麺を啜りながら、もたもたと蓋を開けフォークを突っ込む少女を一瞥し、青年は灰色の瞳を窓の向こうの灰色の世界に向けた。賑やかな光の世界から切り離されたどす黒い影の世界であるこの街は、法など届かずただ死んでいくだけだ。世界から振り落とされた貧しい者達が集まって荒れたこの街からは出られない。この少女も経緯はどうあれこの街に迷い込んでしまった。汚れた手足では光の中で生きられない。

「これは凄く美味しい。これは何て言う食べ物なの?」

「カップ麺。お前のは醤油味。俺のは塩味」

 カップ麺も知らない少女が、生きていけるとは思わない。

「じゃあお兄さんの名前はシオね」

 調味料にされた。

「私のは長いから……真ん中を取ってヨウでいいよ」

 そこはショウユじゃないのか。

「ねぇシオ。この街の人はお話ができないの?」

「?」

「会話ができたのはシオが初めて」

「話し掛けたのか?」

「うん。ごはん売ってるお店ありませんかって」

「店はあるが、その辺に座ってる人達はもう何の気力もないから。ただの置物だと思った方がいい」

 街に来てまだ間もないのか。それにしては汚いが、積極的にゴミに頭を突っ込んでいればそうなるか。

「置物……わかった。シオが置物じゃなくて良かった。こんな……」

 食べたら眠くなったのか、途端にうつらと頭を揺らし始める。まだ雨も降っているし、寝ていてくれた方が静かで良いかもしれない。

 床に落ちたフォークを拾い、カップも片付ける。雨は暫く止みそうになかった。一晩律儀に少女を泊めることになりそうだ。布団は二人分ないので、このままソファに寝てもらおう。

 片付けを終えて少女を振り返り、少し考えた後、少女の袖に触れる。

「……」

 奥には寝室がある。二部屋しかない家だが、青年一人で暮らすには充分だった。

 寝室から毛布を運び、少女に掛ける。まだ袖が濡れていた。シャワーを服の上から掛けたのは青年だ。風邪でもひかれたら面倒だ。それでも、子供だからと言って少女の服を脱がすのは抵抗がある。それは仕方のないことだ。

(あ、そういえば)

 玄関の鍵を締めなければ。締めたと思ったのに少女が部屋の中にいたのだから、締め忘れていたのだろう。お決まりの習慣こそ、確認は怠らないようにしなければ。無意識に任せきりではいけない。

(あれ?)

 ドアノブを回そうとしたが、鍵は掛かっていた。鍵を掛ける前に既に中に入られていたらしい。背が小さいので見落としてしまったのか。今後は子供にも気を付けなければならない。この街で油断は命取りになってしまう。

 すやすやと寝息を立てるこの少女も一見無害そうに見えて、眈々と寝首を掻こうと機会を窺っている可能性はある。少女の寝顔を横目に寝室に入り、今度こそ鍵を締め確認する。頭の中で施錠を三回反芻した。

 寝室も殺風景だ。がたが来て軋むベッドと、簡易な机と椅子。それだけの部屋だ。全く飾り気はないが、飾るという行為は余裕の表れだ。金銭的にしろ精神的にしろ、飾る余裕なんてこの街にはない。ただ何となく、目的もなく生きているだけ。現実を忘れようと薬に溺れた人間がその辺にぼそぼそと転がっているが、青年にはまだあんな風にはなりたくないという気持ちは残っていた。だから毎日掃除をして食い繋いでいる。何のために生きているのか、考えたら負けだと思っている。

 窓を叩く雨音がいつもの静寂を潰している所為か、耳に心地良くいつの間にか眠ってしまっていた。


 久し振りに子供を見たからか、その日は久し振りに昔の夢を見た。

 十歳の誕生日祝いに母親が御馳走とケーキを用意してくれた。

 生まれた時から影の街にいたわけではない。昔は光の中にいた。

 飾り付けられたキャンドルの灯りが温かかった。仕事で帰りの遅い父親を母と二人で待っていた。父はいつも帰りが遅かった。その日も暫くは待っていたが、先に母と二人で食べることにした。食べると眠くなり、帰りを待てずに眠ってしまった。

 翌日いつも通り学校に行こうと家のドアを開けると、雨の中で地面に這い蹲って父親が死んでいた。傘を持つ手が震えた。

 後ろにいた母親は真っ青な顔をして、もう動かない父に駆け寄った。父の体を揺すり声を上げて泣いていた。

 雨で殆ど流れてしまっていたが、引き摺ったような血の道ができていた。幼い頭では思考が途中で真っ白に放棄され、血の意味の答えが出せなかった。

 突然日常が壊れ、怖くなって逃げた。

 それでも夜になれば他に行く所もなく、家に帰るしかなかった。だがそこに家はなかった。生まれてから今まで暮らしてきた家は、真っ赤な炎に包まれていた。

 誰も助けてくれない。皆遠巻きに見ているだけだった。こんな時に雨が降ってくれていれば火を消してくれたかもしれないのに、雨は止んでしまっていた。もうずっと雨だったら良かったのに。ぼたぼたと落ちていくのは涙だけだった。

 後に聞いた噂によると、焼け落ちた家から焼けた人間が二人見つかったらしい。全て焼けて誰だかわからなくなっていたが、両親だ。

 本当に行く当てがなくなってしまい友人の家を訪ねたが、気味悪がって中には入れてもらえなかった。当然金などもなく、学校にも通えなくなった。

 一瞬にして闇の底に突き落とされた。

 行ける場所はもう、影の街しかなかった。仕事をすれば子供でも対価を得られる街はそこしかなかった。

 行ける場所があるだけ、まだ良かったのかもしれない――


 目を開けると、いつものボロボロの天井がそこにあった。最初は気味が悪くて眠れなかったが、今はもう慣れた。罅の入った天井も剥がれた壁も抜けそうな床も、どれも日常になってしまった。

「ん……」

 まだ頭が覚醒しきっていない。久し振りに嫌な夢を見た所為だ。

「――ん!?」

 ふと首を回して、一瞬息が止まった。一気に頭が覚醒し、ベッドから飛び退く。

 そこには昨日の少女が横になっていた。すやすやと眠っている。

 わけがわからず部屋の鍵を確認する。――鍵は掛かっている。三回も確認したのだ、それは間違いない。

 ボロボロの建物なので壁に穴でも開けられたかと確認もするが、さすがにバリバリと壁を破壊されれば目を覚ます自信はあるし、人が通れる穴なんて空いていない。

 何かがおかしい。いや、何かを見落としているのか?

 背に冷たいものが走り、青年はバタバタと少女から距離を取った。

「――ぁ」

 腐った木の割れる音と共に、片足が床をぶち抜いた。

 そんな音を立てて目を覚まさないはずもなく、床に両手を突く青年を、眠い目を擦りながら少女が見下ろしていた。

「何してるの? シオ。おはよう」

「お、おはよう……」

 生涯後にも先にもこんな間抜けな挨拶は今日だけだろう。今日だけにしてくれ。

 大の大人を少女に引き上げてもらうわけにもいかず、青年は一人で床から脱出した。急いで他の家から床板を引き剥がし、抜けた穴に当てた。空き家が多いので助かる。真下の部屋も空き家なので、迷惑は掛かっていない。

 他の床も確認しながら、青年は逃げるように寝室を抜け台所に手を突いた。床を抜いたのは自分の失態なので棚に上げておくとして、問題は少女だ。鍵の掛かった部屋に何故か入ってくることができる。と言うことは、施錠は意味を成さない。おそらく最初の玄関の時も、鍵を掛け忘れたわけではなく、きちんと鍵が掛かっていた。普通は鍵の掛かった部屋には入ってこられないはずだ。だとすれば何かがある。それは少女に直接質問しても良いものだろうか。知られたからには殺す――なんてパターンは昔見たフィクションの世界だけだろうか。自分の名前は覚えていないのに、そういうどうでも良いことは覚えている。

「どうしたの? 朝ごはん?」

「……」

 そうだ、朝御飯でも食べながら世間話をするように尋ねてみよう。朝と言っても世間的には昼前だが。ちらりと様子を窺ったが、外はまだ雨のようだ。もういっそ約束など気にせず雨の中放り出しても良いのだが、雨はどうにも避けたい。また何か悪夢が起こりそうで、雨は嫌いだ。

 心を落ち着かせながら棚から二人分のパンを取り出し、一つを少女に渡す。今は友好的に接した方が良い。一つしかないマグカップに水を注ぎ、少女の前に置く。客人などこの街で想定なんてしない。コップは自分の分だけで充分だったのだ。予備なんてあるはずがない。

 少女はぼんやりと虚ろな目でパンを見下ろし、青年を見詰めた。青年は目を逸らし、パンを小さく一口齧る。それを見て少女も自分のパンに齧り付いた。パサパサとしていて美味しいとは言えないかもしれないが、我慢してほしいと思う。

「……少し……話をしてもいいか?」

「お話? いいよ。私もしたい」

 あまり感情が読み取れないが、悪いようには思われてない……と思う。

 まずは遠回りに話を切り出そうかとあれこれ考えてみたが、下手に話を逸らして真相があやふやになってしまっても困る。単刀直入にはっきりと言おうと決めた。万一危害を加えようとしてきたら、手持ちのナイフでどうにかする。相手は幼い子供だ。大人の男の力で組み伏せられるはずだ。日頃争いは避けているが、そこまで柔ではない。

「お前……鍵の掛かった部屋にどうやって入ってるんだ?」

「……」

 会話に乗り気だったのに、急に黙り込んだ。地雷を踏み抜いたかと緊張が走る。

「……違う」

「え?」

「お前じゃない」

「?」

 話が理解できず目を瞬いてしまうが、暫くの沈黙の後ハッと気付いた。

「ヨウ……?」

 決めた名前を使えと言いたいのだと気付いた。

 名前を呼ぶと少女は満足そうに口を開いてくれた。

「鍵なんて意味ないよ。私、開けられるから」

 そう言って先の曲がった細い金属の棒を取り出して見せた。つまり単純明快に、ピッキング行為で開けたと言うことか。そして元通りに鍵を締める。たったそれだけのことに恐々と怯えていたのかと、青年は急に恥ずかしくなった。治安の悪いこの街ではよくある話だ。ピッキングなんて珍しい技能ではない。ただこの少女は、昨日家に入ってきた状況から考えて、ピッキング能力がかなり高い。音を立てず素早く開けることができる。

「今度は私が話していい? あのね、これやって」

 どっと疲れてソファの背に寄り掛かりながら、手渡された紙切れに目を落とす。斜め後ろから撮られた女性の写真――雑誌を破った物か。ゴミの中から拾ったのだろう、丸めて皺くちゃで汚れている。

「これって?」

「同じ髪がしたい。可愛い」

 もう一度紙切れを見る。これはあれか、三つ編みというやつか。そんな編み方は知らない。

「俺には無理だ」

 感情の起伏は乏しいが、色素の薄い睫毛を伏せて残念そうにしていることはすぐにわかった。

「……少し待ってろ」

 簡単に鍵を開けられるのなら、ここにいる限りいつでも寝首を掻けると言うことだ。あまり刺激しない方が良い。今は大人しく言うことを聞いていよう。雨が上がるまでの辛抱だ。

 他の家に踏み込み、以前は女性が過ごしていたであろう部屋から櫛を拝借する。もう誰も帰ってこない、誰も使うことのない物だ。この辺りの家は大体調べてある。近所には誰も住んでいない。

 櫛を手に家に戻ると、少女がぺろりとパンを平らげた所だった。

「ほら、後ろ向け」

「楽しみ」

「三つ編みはできないからな」

 絡まった髪に櫛を入れるが、すぐに引っ掛かって動かなくなる。手を離しても櫛は髪に刺さったままだ。これは時間が掛かりそうだ。長い髪の下の方から徐々に梳いていく。

「シオはずっとここに住んでるの?」

「ずっとではないけど、まあまあ長いかな」

「ずっと一人なの?」

「……この街ではずっと一人だ」

「私は住んじゃ駄目?」

「雨が止んだら出て行く約束だろ」

「ずっと雨だよ」

「それはない」

「ごはんも作れないしお仕事もわからないし何もできないけど、一緒にいちゃ駄目?」

「雨が止ん」

「お荷物にしかならないから?」

「……」

「お話する相手にしかなれないけど、もう一度家族が欲しいよ」

「……」

「駄目かなぁ」

「……」

「……」

 黙々と髪を梳き、雨音だけが部屋を満たした。

 ここに一人でいると言うことは、少女にももう家族はいないのだろう。青年と同じだ。経緯は知らないが、今この瞬間の境遇は同じだ。この少女は家族欲しさに青年についてきたのだろうか。何故選ばれたのか……助けたから、ただそれだけなのだろうか。確かにこの影の街で人を助ける行為はそうそう見掛けないだろうが、たったそれだけで人を信じて傍にいられるのだろうか。

 漸く梳かしきった髪を二つに分け、櫛と共に拝借したリボンを縛る。残念ながらリボン結びもできない。折角の綺麗な赤いリボンをただ巻いて縛るだけだが、淡い金色の髪にはよく似合っていた。

「これで勘弁してくれ」

 少女は自分の髪に触れ、結んだ髪に指を通す。

「サラサラだ。鏡はある?」

「鏡? ……確かあったはず」

 寝室から手鏡を取り、少女に渡す。少女は鏡を見ながら頭を左右に振り、揺れるリボンに何とか満足してくれた。

「リボンが可愛い。三つ編みっていうのも、いつかやってほしい」

「いつか……」

 いつまで居座る気だと窓の外を見、まさか本当に止まないなんてことはないよな? と少しだけ心配になった。

 鏡に夢中な少女をそのままに、青年は食料を突っ込んでいる棚を確認する。ずっと雨が止まないということはないだろうが、暫く続くのなら買い出しに行かねばならない。家に一人増えると単純に食料の消費が二倍だ。

 ポケットに手を突っ込み、小銭を確認する。あまり買い溜めはできそうにないが、外に出なければと棚の扉を閉める。

「……あれ?」

 後ろを振り返ると少女の姿はなかった。手鏡だけ机に置かれている。

 奥の寝室も覗くが姿はなかった。ベッドの下にもいない。

 ふと窓の外に目を遣ると、雨が止んでいた。窓にはまだ滴が伝っているが、新しく叩く滴はない。窓を開けずに外を見下ろすが、少女の姿は見つからなかった。

 雨が止んだから出て行ったのだと、そう解釈した。音も無く部屋に入ってきて、音も無く出て行ってしまった。本当に素直に出て行ってくれたようだ。

(買い出し行くか……)

 まだ重い雲は覆っているが、また降り出す前に買物を済ませよう。

 鍵が掛かっている玄関を開け、鍵を締めて確認する。あの少女には鍵なんて掛けていても無意味だが、他の人間には有効だ。

 影の街の中にも店はあるとは言ったが、品揃えも品質も悪い。高価な物は求めていないが、せめて食べ物くらいは安全な物を口に入れたい。そのため食料の買い出しは必然的に光の方へ行くことになる。貧民街の人間も光の方へ出て食料の盗みなどを働いているが、青年はきちんと対価を支払っている。見窄らしい格好でただでさえ目立って怪しまれるのに、更に目を付けられたくはない。

 市場で食料を買い込み、インスタント食品も幾つか。安い物ではないが、日持ちするという点では重宝する。大きな紙袋に無造作に突っ込み、重みを確かめる。

 紙袋を抱え直した向こうに、子供が群がっている店があった。興味本位で子供達の頭越しに覗くと、ウィンドウの中に色取り取りの菓子が並んでいた。どうやら最近新しくできた店らしい。そのドアが開いて中からエプロンを着用した女性が出てきたので、青年は目を合わせず踵を返した。菓子を買う余裕などないのにじっと見ていては盗みを疑われる。

 女性は店の店員なのだろう、子供達に小さな飴を配りだした。このために子供が群がっていたのかと合点が行く。

 菓子などもう随分と食べていない。そんな余裕はない。味ももう忘れてしまった。あの日食べたケーキの味ももう思い出せない。

 賑やかな市場はとても眩しくて意識が遠退いてしまう。眩暈を感じ、青年は早々に帰路についた。

 底辺に落ちた人間など誰も見ないし気にも留めない。世界から切り離されてただ物のように転がっているだけだ。

(……あ)

 目を合わせないように人を避けて歩く内に、誰もいない空間に出てしまった。周りに家は建っているが、そこだけぽっかりと影に覆われ光の当たらない場所。もう疾っくに片付けられて新しい家でも建っているものと思っていた。立入禁止のテープがぐるぐると張り巡らされた、焼け焦げた家の跡。

 無意識に辿り着いてしまったらしい。青年が全てを奪われた場所に。きっとあの夢を見た所為だ。

 石壁は黒く焦げているが、思ったよりは形が残っていた。屋根が落ち二階は無くなっているが、一階にはまだ空間がある。この家を最後に見たのは炎に包まれ燃え盛っている時だったので、鎮火後を見るのは初めてだ。あれからもう十三年も経っているのにまだ残っているということは、忘れ去られているのだろう。

 玄関だった場所の前に立ち、中を覗いて見る。木製のドアは完全に焼けて無くなり、迎え入れる物は無い。

 立入禁止のテープを潜り、中に入ってみる。久し振りに昔の夢を見て、何か思う所があったのだろうか。雨に濡れた黒い炭をじゃくじゃくと踏み、最後に夕食を食べた部屋に足を踏み入れた。机も椅子も残っていない。残った壁と床は真っ黒だ。

(何だこれ……?)

 代わりに焼けた石壁に大きな白い塊があった。焼ける前は壁にこんな物はなかった。

 奥に回って見ると、下の方が破れたように穴が空いていた。中を覗くと、子供が入れそうなくらいの何もない空間があった。まるで何かが中から出て来たような。

(蛾の繭か……? でもこんなでかい虫見たことないし)

 汚い街に住んでいるので虫は平気だが、そんな大きな虫が出て来たらさすがに落ち着いていられないだろう。

 辺りをぐるりと見渡すが、何かがいた形跡はない。飛ぶ虫ならもう何処か遠くへ飛んでいった後だろう。

 多少気にはなるがここはもう青年の家ではない。どうこうする気はない。重い紙袋を抱え直し、外に出る。

(少し買い過ぎたか?)

 立入禁止のテープを潜っていると、地面に靴の先が見えた。靴底が見えていない足は、立っている人間だ。

 顔を上げると、見知らぬ男と目が合った。

 忘れ去られた焼けた家の跡から出てきた人間。それはとても怪しく映るだろう。何か言われる前に立ち去ろう。急いで目を逸らし、踵を返す。

「……×××!」

 呼び止められた。思わず足が止まってしまったが、今のは名前か? 誰の?

「×××だよな? 俺だよ、×××。覚えてるか……?」

 言葉はわかるが、名前と思しき単語が認知できない。脳が勝手に靄を掛けているように、情報が伝達されない。

 青年はゆっくりと振り返り、今度はしっかりと男の顔を見る。歳は青年とそう変わらないように見える。声を掛けてきたということは、もしかすると過去にも会ったことがあるのか。影へ行ってからはまともに人と話したことはない。となるとこの街で暮らしていた時――

「――ぁ」

 大人になって外見はかなり変わってしまったが、少しばかり面影を見出せた。学校に通っていた頃の友人……だと思う。名前は思い出せないが。

「思い出したか! まさか生きてるなんて……あ、いや、その……お前は俺を頼ってくれたのに、親が拒絶しちまって……」

 行く当てがなかった時に縋ろうとして拒まれた、あの友人だ。あの頃はまだ小学生だ、親の意見に従うしかなかった気持ちも理解はできる。別に恨んだりはしない。

 あれから一度も顔を合わせていないのだ、死んだと思っていても不思議ではない。

「ああ……まあ、俺も急に行ったから……」

「あの時は悪かった。……ああ、謝れて良かった!」

「……」

 夢で見るまでは殆ど忘れかけていたくらいなので謝られても実感がないが、軽く頭を下げておく。ずっと気にしていたのなら、胸の痞えが取れて良かったと思う。


「×××」


 家々の陰から今度は女性の声が届いた。水の中に潜って聞く音のように聞き取れなかったが、この男を呼んだのだということはわかった。男が振り返って笑顔で手を上げたからだ。

 綺麗な顔をした女は小走りで男の傍らに駆け寄り、青年を見て少し顔を顰めた。

(三つ編み……)

 女の赤毛は背で綺麗に三つ編みにされていた。少女が三つ編みに憧れていたことを思い出すが、もう会うことはないだろう。それに初対面で顔を顰めてきた人間に突然編み方を訊く気にはなれなかった。

「紹介するよ、×××。今度彼女と結婚式を挙げるんだ。美人だろう? 二人で新しく菓子屋も始めたんだ。良かったら×××も――」

 自慢気な言葉の途中で女は男の服を引いた。

「夕食の買物の途中でしょう? もう陽が暮れちゃうわ」

「あ、あー……そうだな」

 見窄らしい格好の青年を貧民街の人間だと判断した女は、早くここから立ち去りたいようだった。正しい判断だと思う。こんな影にいる人間とお近付きにはなりたくないだろう。誰だってそうだ。一応、生えれば髭は剃っているのだが。

「結婚おめでとう」

「ああ、ありがとな。お前も幸せになれよ」

 きっと頻繁にここに足を運んでいたのだろう。女に見覚えがある気がしたが、思い出した。先程菓子屋で子供達に飴を配っていた女だ。立ち去る背中を見送り、断片的に会話が耳に入る。「――あの亡霊、スラムに住んでるんだわ」「俺も死んだと思っていた。あの家に――」「不気味だわ。気持ち悪い――」……きっともう会うことはないだろう。

 幸せとは何処に落ちているのだろうか。幸せという感覚もよくわからなかった。

 沈んでいく陽を背に、今度こそ足早に家へ戻る。昼間も良いわけではないが、夜の街は危険だ。死体が見つかるのは圧倒的に朝が多い。悪者は夜に活動するのだ。

(……ぁ)

 ぽつりと鼻先に滴が当たった。青年は駆け足で家へ向かった。

 階段を上がり玄関を開け、足が止まる。あの少女がソファに座っていた。気に入ったのか、髪は青年が縛ったままの状態だ。

「……何でまたいるんだ」

「おかえり。雨宿りなの」

「雨が降る度に来る気か」

「何かあった?」

「は? 何かって?」

 ランタンに火を灯してから、紙袋から棚に食料を移しつつ溜息を吐く。雨が降る度に食料を消費されては堪ったものではない。

「ちょっと寂しそうに見えたから」

「寂しそう? 俺が?」

 振り返るとソファの肘掛けに腕を敷き、首を傾げながら少女は青年を見ていた。家族が欲しいと言っていたのは少女の方だ。寂しいと言うならそれはそっちじゃないかと青年は目を細めた。

「膝枕なら許す」

「しない」

「耳掻きなら鼓膜破る自信があるけど、膝枕は大丈夫だよ」

「それで大丈夫と思う奴とは仲良くなれないな」

「不器用は可愛げだと思うの」

「限度がある」

 学校にも通っていないだろうに何処でそういうことを覚えてくるのか、ませた子供だ。

「明日は雨だろうが掃除に行かないとな……」

「大変だね」

「誰の所為だと思ってるんだ」

「嫌々でもお世話焼いてくれるんだから、シオは優しいね」

「何処が」

「うん。信頼できる。自分を優しいって言っちゃう人は、自分のために優しいだけだもの。本当に優しい人は無自覚なの。意識的に出す優しさは偽善だよ。これ持論ね」

「……」

 もし目を閉じて会話をしていたら、この少女を子供と認識する自信がないかもしれない。学校には通っていないが、本くらいは読んでいるのかもしれない。図書館なら貧民街の人間でも利用できるはずだ。事実上は。

「今日もカップ麺?」

「いや、今日は作る」

「料理? できるの? 見てていい?」

「気が散る」

「私、何でも食べれるよ」

「あ、そ」

 切れ味の落ちた包丁で人参を叩き切り、不揃いな具材を放り込んだ鍋を火に掛ける。料理は得意というわけではないが、端金で生活するには自炊が必要だ。手順が複雑な料理はお手上げだが、具材を切って火に掛ける程度なら慣れた。具材の大きさは揃わないが。口に入ればそれで良し、と思う。

「大きさがバラバラだと、火の通りもバラバラになるよ」

 いつの間に横に立っていたのか、少女が手元を覗き込んでくる。

「駄目出しできるならやってくれ」

「駄目だよ。不器用だから。バラバラになっちゃう。シオの方が上手」

 結局褒めているのか? それは。

「知識があっても実践できないと意味ないんだよ。何もできないから、感謝は常にしてるよ」

「それはどうも」

 一歩後退し、少女はこつんと床に額をつけて見せた。

「ほらこの通り」

「それは土下座って言うんだけど」

「食器用意するね」

「いい。届かないだろ」

「あら本当」

 頭上の棚に手を伸ばすも、少女の身長では届かない。手伝いもできず、少女は大人しくソファに戻った。ソファに横になり、料理をする青年の背を見守る。

「きっと私は今楽しいのね。言葉の意味はわからないけど、幸せと言うのね」

 幸せ。そんなものはこの街にはない。こんなオママゴトが幸せだと言うのなら、なんて虚しいのだろう。

「家族でごはんが食べられたら、それは幸せなんだよ」

 それはとても惨い言葉だった。おかげで少し、スープを煮過ぎた。

 器に熱々のスープを注ぎ、パンと共に机に置く。二人分のマグカップに、少女は青い目を丸くした。

「私のコップ、買ってくれたの?」

「いや、拾った」

「つまりゴミ」

 喜ぶべきか迷うが、洗ってあるなら良しとしよう。

 少女は熱々のスープを掬い、口に放り込む。それを青年は、自分のスープを吹いて冷ましながら見遣る。

「美味しい。大きい人参がちょっと固いけど」

「悪かったな」

「生でも食べれる物は適当でいいと思うの」

「……フォロー?」

「そう思うならやっぱりシオは優しいよ」

「?」

「生でも充分、って意味だったけど」

「おい」

 表情は乏しいが、少女は楽しそうだ。青年は誰かのために料理を作るのは初めてだった。いや飽くまで自分の分のついでではあるが。料理の感想を貰ったのは初めてだった。日常の作業でしかなかったことが、少しだけ温かい色を持ったような気がした。

「ここに入り浸ってるってことは、お前……ヨウは家がないんだよな?」

「そうだね。なくなっちゃった」

「……そうか」

 それ以上は聞かなかった。話したければ自分から話すだろうし、聞いた所で掛けられる言葉なんて思い付かない。

「食べたら眠くなるね」

「勝手にベッドに入ってくるなよ」

「シオがソファで寝るなら、ベッドは私の物」

「ソファだと脚が食み出るだろ」

「論点そこなの?」

 窓の外に目を遣ると、もう薄暗くなっていた。

「長話は無しだ。遅くなった。もう寝ろ」

「ベッドでいい?」

「ヨウはソファ」

 食器を台所へ運び、ランタンの火を消す。夜は灯りをつけていると目立つ。人がいる証拠になってしまう。不要な争いを避けるために暗くなり始めたら寝るに限る。

 灯りを消しても間取りは頭に入っている。机とソファを避け寝室まで躓くことなく辿り着く。目を閉じていても何もぶつからない自信はある。

 雨が窓を叩く音は止まない。明日も雨な気がする。

 力を抜いてベッドに倒れ込むと、何かにぶつかった。

「……」

 暗闇にまだ目が慣れずよく見えないが、何かはわかった。

「ソファだって言っただろ」

「わ」

 少女を摘み出し、ベッドの外へ落とした。全く油断も隙もなく素速い奴だ。

 人と会話した日は疲れる。会話は非日常だ。慣れないことは不必要に気怠い。

 放り出しはしたが、きっと朝にはまたベッドに潜り込んでいるのだろう。ぼんやりと考えながら、すぐに死んだように眠りに落ちた。

 翌朝は予想に反してベッドに少女はいなかったが、ソファにもいなかった。窓に目を遣るが、雨はまだ降っている。

 誰もいないことが日常で当たり前だったのに、たった二日で日常が覆されたのか。姿を探しているのが良い証拠だ。雨が降っていようとなかろうと、ここにはずっと一人なのに。

 一つ欠伸をし、誰もいない部屋の台所で立ったままパンを齧る。これが日常だ。

(仕事、しないと……)

 傘は持っていないので、フードを目深に被る。あまり濡れたくないが、そうも言っていられない。

 家に鍵を掛け、雨音だけ響く階段を重い足で下りる。爪先が地面につくと、すぐ前は外だ。雨に混ざり、地面に赤いものが見えた。顔を上げると、そいつと目が合った。

「え……」

「今行こうと思ったんだけど、出てきてくれて良かった」

 雨に濡れて色素の薄い金色の髪はぺたりと頬に貼り付き、白い肌に点々と赤が散っている。

「それ……」

 その手には、ぐったりと項垂れる女の腕が掴まれていた。赤の出所はこの女だ。

「ねぇ見て。これ、三つ編みだよ。これでシオもできるかな?」

 女の背に垂れる髪を掴み、少女は青年に向けてよく見えるように持ち上げる。

「っ……ぁ、た、たすけ……! ま、まゆが……」

 女の綺麗な顔が恐怖に歪み、口から微かに声が漏れる。まだ生きている。

「駄目だよ。シオの悪口言ったでしょ? そういうの良くないよ。見たくないものは見なくていいけど、わざと聞こえるように言わなくていいよ。ね」

「っ……!」

 少女は一瞬も躊躇わず、女にナイフを突き立てた。

「ごめんね。ちゃんと死んでると思ったのに、まだだった。これで大丈夫」

 見覚えのある三つ編みは、昨日会った友人の結婚相手だと言う女性だった。

 新しい赤が雨と流れていく。雨の中の死体に、あの時の光景が脳裏に浮かび貼り付く。

「お前……」

 呼吸が乱れていく。冷静になろうとするが、息をするだけで精一杯だった。

「これでお金貰えるよね」

「……」


「貰えるよね?」


 ここに正常な者がいると思ったことはないが、この少女は頭がおかしい。

 何から逃げるのか思考が追いつかないまま、青年は水溜まりを蹴って走った。

 死体は毎日のように見ているのだ、今更それを恐れたりはしない。だが人が人を殺す瞬間は話が別だ。掃除はするが、人の死を待っているわけじゃない。

「はぁはぁ……はぁ……」

 路地を走り回り、建物の陰に身を潜める。雨で体から体温が奪われ冷えていく。だがこの手の震えはその所為じゃない。

(……思わず逃げたけど、まゆ……? 繭か? 繭って言ってた)

 その単語で脳裏を過ぎったのは昨日見た焼けた家にあった白い塊だが、話が繋がってくれない。あの場で命乞いと共に出されるのだから重要な言葉なのだろうが、何を訴えたかったのか理解できなければ意味のない言葉でしかない。

 焼けた家にあった白い塊なら、中の空間に子供は入れそうだと思ったが……

(……まさかな)

 あんな物から本当に人間が出てくるはずがない。仮に本当に出てくるのだとしたら、それは人間ではなく化物だ。

(あの子がそうじゃないにしろ俺の家の場所はわかってるわけだし、戻ったら絶対鉢合わせる……)

 青年には敵意はないようだったが、それは飽くまで現時点での話だ。これから気が変わるかもしれない。

(俺の悪口……? を言ってたから殺したってことだよな……? 何でそこまで……)

 昨日会った時に気持ち悪いだの何だの断片的に聞こえてはいたが、仕方のないことだと思っていた。こんな小汚い格好をした男が彷徨いていたら、嫌悪感を抱くのは当然だ。どう見ても光の当たらない貧民街の人間なのだから。貧民街の治安は最悪なのだ。

(でも昨日ヨウはあの場にいなかった。ついてきてたのか?)

 フードに落ちる雨音が強くなる。まるでシャワーだ。シャワーより酷い。当分止みそうにない。路地で一夜を明かすことは不可能だ。家に戻れないのなら、何処かの廃墟に身を隠した方が良い。

(引越しも考えた方が……、!?)

 目深に被ったフードを覗き込むように、かくんと青い瞳の少女が顔を出した。

「見つけた」

 息が止まりそうになった。雨で足音が聞こえなかった。顔についた血は雨で流れていた。手には先程の女はいなかった。

「急に走っていくから、びっくりしたよ。どうしたの?」

「……」

 何を言えば正解なのか、頭が真っ白になってしまった。正解ではなくとも、外れだけは引くわけにはいかない。

「……さっきの」

「三つ編みの人? 重いからあそこに置いてきたよ。後で編み方見てみてよ」

「ヨウが……?」

「ん?」

「……ヨウが連れてきたのか……?」

「連れてきた……と言えばそうなのかな。声を掛けられたから」

「ここから出たのか?」

「私はずっとここにいたよ。あの人がこの街に入ってきたの」

「え……?」

 あんなに嫌悪していたのに、自分の足で来たと言うのか。

「人を探してるって。シオを探してるんだってすぐに気付いた。婚約者ともう二度と会わないように言いたいって、言ってたかな。そっちの人は知らないけど。シオの悪口たくさん言ってたよ。その辺にぼそぼそ座ってる人達みたいに、ずっとぼそぼそ悪口言ってるの。薄気味悪いよね」

「……」

 それで殺したのか。

 とは口にできなかった。

「死ねばいいのにって言ったからね。だから、死ねばいいと思って」

 雨音が消えたように、少女の声は真っ直ぐ青年の耳に入った。

「……わかった」

 青年は今度は逃げず、ゆっくり歩を進めて来た路地を曲がった。その横を少女がついて歩く。

 家の前まで戻ると、女の死体は地面に張り付いて雨に打たれていた。青年は傍らにしゃがみ込み、脈を確かめる。死んでいた。これはもう二度と動くことのない死体だ。

 左手に小さな輝く石が嵌め込まれた指輪が光っていた。雨で滑りそうになりながら外し、ポケットに捩じ込む。きっと死体より高く買い取ってくれるだろう。

 服も弄り、財布を見つける。影の中ではお目に掛かれない金額が収まっていた。他のポケットにも手を突っ込むと、小さな紙に包まれた丸い玉が幾つか出てきた。不思議そうに手元を覗き込む少女に差し出す。

「飴だ。お前にやる」

「飴……?」

「お菓子だ。舐めると甘い」

「お菓子……。ありがとう」

 他には何も持っていないようだった。財布も自分のポケットに入れ、死体の腕を掴む。

「片付ける」

「うん」

「まだ雨宿りするなら、家にいろ」

「わかった」

 聞き分けが良くて助かる。階段を上がっていく少女を見送り、青年はフードを深く下ろした。

 死体を引き摺り、いつもの集積所へ持って行く。いつもぼそぼそと地面に座り込んでいる人も、屋根の下に移動している。雨を避けようという判断力はまだあるらしい。

 地面が石から土に変わり、雨で霞む視界の中に荒屋が見える。壁を叩くと、小窓が開く。

「処理をしてから捨ててくれ」

「は?」

 いつもと遣り取りが違う。初めて訪れた時はこの場所の説明をされたが、それ以降は無言で金銭を差し出されるだけだった。そんなことを言われたのは初めてだった。

「処理って……これはもう死んでる」

「わかっている。糸を処理しろ。そのままでは受け取れない」

「糸……?」

 引き摺ってきた死体に目を落とす。そこで初めて気付いた。半開きになった口から白い糸のような物が数本垂れている。家の前で金目の物を漁っていた時には何もなかったはずだ。

「何だこれ……」

 引き摺る内にゴミでも口に入ったのかと糸を抓んで引くと、ぷつりと切れた。糸は少し粘り、指に絡む。

「稀に強い怨みを持って死ぬとそうなるらしい。糸を吐き繭を作る」

「繭……」

「都市伝説の一種だと思っていたが、見るのは初めてだ」

 そう思っていたにしては随分と冷静だが、影の街で過ごして感情が枯れ果てているのだろう。

「じゃあこれはどうすれば……?」

 この女が最期に言っていた繭とはこれのことなのか。それにこの糸――焼けた家にあった白い塊に質感が似ている。

「繭ができたら……どうなるんだ……?」

 息を呑んで恐る恐る訊いてみる。あの繭は破れて中が空洞になっていた。きっと何かが出て行った跡だ。

「繭から生まれた子供が、怨む相手を殺しに行くらしい」

「まさか、生き返るってことか!?」

「そこまでは知らない。早くそれを処理しろ」

「処理って……」

「糸を吐けないように口を塞げ。土でも詰めろ」

 地面に手を突き、雨を吸った土を急いで掘った。出ている糸は全て引き千切り、泥土を死体の口に流し込む。幾らもう死んでいるとは言え、気分の良いものではなかった。眉を顰めながら、言われた通り黙々と土を詰めて固めた。

「糸が出てこなければ置いていっていい」

「…………」

 溢れるほど土を詰め込んだ死体を暫く見下ろすが、糸が出てくることはなかった。それを確認し、小窓から小銭を差し出される。泥に濡れた手に握った小銭を見下ろし、青年は逃げるように走り去った。

 雨の日は碌なことがない。だから雨は嫌いだ。

 家に戻ると、少女はソファに座って膝を抱えていた。玄関のドアが開くとゆっくりと顔を上げた。もごもごと口を動かしている。

「飴を食べてみたの。甘くて美味しい。こんな甘い物、初めてかもしれない」

 台所に小銭を置き、手についた泥を洗い流す。雨で大方流れてはいるが、残りを綺麗に洗い流す。死体の口に土を詰めた感触がまだ残っている。

 水を止め、ぐっしょりと雨を吸ったフードを頭から引き剥がし、青年は少女を振り返る。飴を机に並べて置き、指先でころころと遊んでいる。

「遅かったね」

「……」

 単刀直入に直接少女に問うことも考えたが、未知な部分が多過ぎた。女の死体に起こったことをまず話すことで、間接的に少女の反応を見た方が良いと判断した。この少女がどういう存在で何の目的でここに居座るのか、何もわかっていない。ただ助けたと言うだけではない、他の理由があるのだとしたら。

「さっきの死体が、繭を作るって言われた」

「……繭」

 少女の肩がぴくりと反応した。やはり何かを知っている。

「処理に時間が掛かった」

「それは大変だったね」

「繭を知ってるのか?」

「ん……。シオは知ってるの?」

「……知らなかった」

「そ……か」

 少女は並べた飴を掴み、再び机に置く。少し離して三つと四つに分ける。その三つの中の一つを指で弾き、四つの中の一つにぶつけた。

「今のがシオのお父さんと、私のお父さん」

「……?」

「本当は知らない方が幸せなのかもしれないけど、繭を知ったら仕方ないかな。いずれわかるだろうし」

「……」

「シオのお父さんって、どんなお仕事してた人?」

 飴から顔を上げ、ビー玉のような青い双眸が青年を見上げる。

 青年は考えたことがなかった。父親がどんな仕事をしているかなんて。興味がなかったのだ。言わないのなら特に聞き出そうとも思わなかった。

「知らない……」

「信じられないかもしれないけど、シオのお父さんは殺し屋さんだったの」

「は……?」

「お仕事で私のお父さんを殺したの」

「え……?」

「信じられないよね。どうやったら信じる?」

「……」

 そんなことを急に言われても、全てが未だ悪夢の中のようで、信じ方などわからなかった。それでも何か言わなければ、話が進まない。沈黙ではいられない。

「……何で、ヨウの父親は……」

 殺されたのか。

 その問いは喉の奥に貼り付いて出てくれなかった。自分の父親が殺された時のことなんて思い出したくないはずだ。

 だが声にしなくても、それだけで少女は疑問を理解した。

「心配しなくても、正しいのはきっとシオのお父さんだよ。私のお父さんは、この街に悪い薬を流す売人だったの。だから殺された」

 淡々と他人事のように言葉を紡いでいく。

「だから悲しむことじゃないんだけど」

「……」

 青年は黙って話を促す。

「私が家に帰った時にはもうお父さんは死んでたんだけど、お母さんがね、パニックになってて。シオのお父さんを殺そうとして、返り討ちになった。そこはシオのお父さんが悪いと思うよ。関係なかったお母さんに見られたんだから」

「……」

「妹はその時寝てたから何も知らない。それから……私もつい、シオのお父さんをね」

「…………殺した?」

「うん。そうなんだけど殺し損ねて、家まで帰ったみたいだね。帰らないのが正解だったけど、帰巣本能かな? 私も追い掛けて、家の前で止めを刺した」

 そして翌朝ドアを開けると、引き摺ったような死体があったわけだ。少女の話が仮に真実だとして、死因がわかった所で救われるものは何もなかった。

 だが少女の話は辻褄が合わないことだけはすぐにわかった。

「それ十三年前の話なんだけど。お前……精々十歳そこらだよな?」

 どうしても年齢が合わない。少女は表情無く青年を見詰めている。

「その話が嘘じゃないなら、続きがあるよな?」

「思ったより冷静だね。と言うより、まだ実感がないのかな。多く見積もってくれてありがとう。正確には六歳くらいかな」

 余計に計算が合わない。

「関係ないお母さんを殺されたから、お互い様ってことにしようと思った。シオの家に火をつけたのも私だよ。けど凄く抵抗されて、逃げたけど結局私も煙を吸い込みすぎて死んじゃった」

「死んだ……?」

 家の中から焼けた死体が二つ出てきたと噂で聞いていたが、てっきり両親だと思っていた。一つはこの少女だったのか。冷静に考えればすぐにわかったのかもしれない。父の死体がわざわざ家の中に運ばれるはずがない。すぐに警察か病院に引き渡されたはずだ。

「死んだって……焼けた死体はお前か……? じゃあ今のお前は……」

「繭だよ。私、繭になったの。孵化は個体差があるみたいで、私は凄く時間が掛かったみたいなんだけど……だから人生二周目」

 繭は強い怨みを抱いていた者が作り出すものだと先程聞いた。怨みを抱いて死んで繭になり、孵化して殺しに行く。少女も強い怨みを抱いたのだ。その怨みの対象は既に殺している。じゃあ何を怨んで殺しに行くのか。死にかけの人間を追って家まで来るような奴だ。

「俺を殺しに来たのか……」

 感情の乏しい青い目が僅かに見開かれる。

「し……シオを殺す気はないの……」

「じゃあ何で、」

「それはちょっと、考えてる途中なんだけど……」

 急に歯切れが悪い。言いたくないことがあるのか、本当に考えている最中なのか。

「……怨む相手はもういないから、その……シオは私と同じでしょ? 両親がいなくなって、家も失って……だからその、少し興味? みたいな……親近感? って言うのかな……」

「言いたくないことを隠そうとしてる……ように見える」

「殺しに来たわけじゃないことは本当だよ。これは本当……」

 何を何処まで信じるべきか、青年は黙考する。何もかも証拠はない。ただ今の所は破綻している説明はない気がする。得体の知れない繭も、現物をこの目で見てしまっている。この説明を信じ込ませるために自ら用意した物なら、少々手が込みすぎている。

 それに殺すことが目的なら、今まで何度もその機会はあった。寝ている間にでもさっさと殺してしまえばいいのだ。

 怨みを失って本当に行き場なく助けを求めていただけという可能性もなくはない。これは優しさではない。ただの考慮すべき可能性だ。

 何より青年にも怨みを向けているのなら、怨む対象が縛った髪を今もまだ嬉しそうに頭にぶら下げてはいないだろう。

「髪……」

「え?」

 髪で一つ思い出した。

「三つ編みだ」

「してくれるの?」

「写真の」

 少女はくしゃくしゃの紙切れを取り出す。

「これ?」

 後ろから撮られているので背の三つ編みが大きく写っているが、横顔に確かに見覚えがある。

「これさっきの、お前が殺した」

「!」

 くしゃりと紙切れが指に沈む。

「凄いね。顔なんて少ししか写ってないのに。美人だからかな」

「偶然……じゃないのか」

「そこそこ偶然だけど。シオは女の子に興味ないの?」

「こんな所で興味なんて持てると思うか」

「学区が違えばそんなものなのかな。可愛いって大評判だったんだよ。――私の妹」

「え……」

「いつも綺麗に三つ編みしててさ。羨ましかった。私は不器用だから何も結べなくて」

「妹を殺したのか……?」

「そうだよ。別に怨んでたわけじゃないけど……シオの悪口言ってたのは本当」

「……」

「三つ編みね、私もできたらいいなと思って」

 話を逸らそうとする。

 姉妹の溝を詮索するつもりはなかった。この街で何も事情がない人間なんていない。皆何か嫌なものを抱えて生きている。話したくないことはたくさんあるだろう。それを無理に聞くつもりはない。関心を示しても何もできない。

 青年はソファに座る少女に歩み寄る。敵意がないと口では言っても腹の内はわからないが、心臓を落ち着かせながら少女の髪を解いた。

 人生二周目と言うなら、学校に通っていないのに堪能に会話することができることにも納得がいく。もしかすると青年よりも得手かもしれない。

 解いた髪を三つの束に分け、ゆっくりと思い出しながら交差させていく。一度慣れてしまえば単純な作業の繰返しだが、意識していないと順を間違えそうになる。思ったより難しい。均一になってくれない。

 最後は赤いリボンを縛り、解けないようにする。妹の方は赤毛だったので、姉妹だと気付かなかった。顔は……あまり覚えていない。写真と本人が似ていることには気付いたが、顔と言うよりは雰囲気だろうか。同じ髪型だったから気付けたと言える。よく見れば写真も、菓子屋で見た時と同じエプロンを着用している。おそらく新しく開店した店の取材記事か。

「……できた」

「わ、凄い」

 長い三つ編みを背から掬い、少女は愛おしそうに撫でる。こういう所は普通の女の子……なのだろうか。

「本当に三つ編みだ。初めてだよ。見て見て」

 ソファから立ち上がり、床の上でくるくると回って見せる。淡い金色の三つ編みがふわりと浮く。

「どう? 素敵?」

「よくわからない」

「自分の身嗜みは整えるのに他人には興味ないね」

「身嗜みって?」

「髭剃ってる。汚れたスラムで髭まで生やしてたら、市場に行ったら怖がられるもんね」

「……よくおわかりで」

 こんなに喜ぶなら繭になる前に妹に一度でも編んでもらえば良かったのにと思うが、姉妹仲が良いなら譬え他人の悪口を言った程度で殺しはしないだろう。妹の容姿の話はするが、少女は自分の容姿の話をしない。顔の良し悪しというものは青年にはよくわからなかったが、少女の顔も悪くないと思うが。生まれ付いての髪の色も綺麗だと思う。

 話を聞いて緊張して喉が渇いた。青年はマグカップに水を注ぎ、少女の話を嚥下するように飲んだ。とりあえず今は、信じてみる。平静を装うために日常に戻る。

「欲情した?」

「ぅぶっ」

 思い切り水を噴いた。

「……お前、中身何歳だ?」

「何歳で死んだんだったかな……二十五くらい?」

 年上じゃないか。見た目に惑わされないようにしようと青年は心に誓った。

「たくさん話したらお腹空いてきちゃったな」

「ああ……そんな時間か」

 水を飲み干し、窓の外を見る。まだ雨が降っているので時間の感覚が狂いそうだが、少女の腹時計が飯の時間だと言っている。部屋の中に時計なんて物は勿論無い。

「今日は作るの?」

「適当に」

 手元を明るく照らすためにランタンに火を灯し、切れ味の悪い包丁で芋を押し切っていく。今日も大きさは不揃いだ。

 もう少し実感が湧けば冷静に、家を潰した相手に何故食事を振る舞わなければならないのかと考えることもできただろうが、思考を止めてしまった。いつもそうだ。思考を途中で放棄する。答えを出すのが怖いのだ。

 具材を鍋に入れて煮る。今日は煮過ぎない。

 出来上がった熱々のスープを器に入れ、パンと共にソファの前に運ぶ。

「今日のスープは芋だね」

 一口分掬い、すぐに口に放り込む。昨日も思っていたが、熱くないのだろうか。

「うん。火の通りきってない芋」

「……」

「美味しいよ」

「褒められてる気がしない」

 青年はスープを吹いて冷ましてから口に入れる。雨で冷えた体に染み渡る。

「シオがクソ野郎じゃなくて良かった」

「は」

 突然何を言い出すのかと思ったがその後に続く言葉は無く、黙々と食事を口に運ぶだけだった。

 食事を終えるとまたすぐに少女はうつらと眠そうに頭を揺らし始める。中身は年上でも体は子供らしい。

 洗い物を台所に置き、ランタンの火を消す。そろそろ外は暗くなるはずだ。

 ソファに目を遣ると、少女はもう半分寝ているのか動かなくなっていた。大人しいのは良いことだ。

 雨でずぶ濡れになったので、シャワーを浴びておく。脱いだ服はまだ湿っていた。

 少女と出会ってから一日一日がとても長い。会話をして人と会って過去の話を聞いて、情報過多だ。処理が間に合わない。とても疲れる。

 食事に関しては作ることは一人も二人も然程変わらないが、食費は単純に二倍だ。そっちの計算にも疲れる。だが無下に追い出さないことは、少女の言うように優しさなのだろうか。こんな複雑な優しさがあって堪るかと思う。

 シャワーついでに服も洗い、タオルを被り湿った服を羽織っていそいそと寝室に向かった。少女はソファに座ったままだった。

 音を立てないように鍵を掛け、ベッドの上を確かめる。少女に鍵は無意味だが、気持ちの問題だ。

(よし)

 今日は潜り込んでいないことに安心し、青年はベッドに静かに突っ伏した。飛び込んで思い切り体重を掛けて床が抜けたら困る。


 少女はソファに凭れ掛かりながら、ずるずると横になった。ソファで寝るのも悪くない。

 目を閉じるとすぐに眠れるほど疲れていた。瞼の裏に今日の出来事を反芻するように記憶が投影される。

 妹を殺した。殺してしまった。

 妹が自分の足で貧民街に来たのは事実だ。そして声を掛けられたことも。その辺でぼそぼそと独り言を喋っている人より、子供の方が話し掛けやすかったのだろう。あるいは子供なら、何かあっても抵抗できるだろうと思ったか。

 妹は父親が薬の売人だったことを知らない。両親は貧民街の強盗に殺されたと思っている。その辺に転がっている自我の乏しい人達は父親の所為でこうなっているとは夢にも思わないだろう。

 見窄らしい格好をした子供に、きちんとした身形で質の良さそうな鞄を提げた妹は蔑むような目をして声を掛けた。

『……あの、ちょっといいかしら?』

『?』

 振り向いた時、少女はすぐに妹だとわかった。目鼻立ちのはっきりとした綺麗な顔と、よく似合っている三つ編みは子供の頃と変わらなかった。大人の姿に成長していてもはっきりと面影はあった。

『この辺りに小汚い……えっと、灰色の目の若い男性はいるかしら? この辺りの人にしてはまだ生気がある方だと思うわ』

 それがシオを指していると少女はすぐに察した。同じような人がいるかもしれないが、その特徴全てが一致している人は彼しか会ったことがない。

『人探し? 見つけてどうするの?』

『質問に答えてくれれば、それでいいのよ。知ってるの? 知らないの?』

『知ってると思う。見つけてどうするか教えてくれたら、教えてあげる』

『…………』

 顔を顰めながら固まるが、こんな所に長居したくないと思ったのか、すぐに口を開いてくれた。

『私、結婚するの。その婚約者がスラムの人と交流があるなんて嫌でしょう? 何か嫌な菌でも持ち込まれても嫌だし、何より死んだと思っていた人が生きているのは気味が悪いわ。だから二度と会わないようにお願いするの』

『お願いなの?』

『そうよ。ああ気持ち悪い。早くこんな所から出たいわ。言ったんだから、早く教えてちょうだい』

『そのナイフでお願いするの?』

『!』

 鞄の陰にナイフを隠していることは最初からわかっていた。治安が悪い貧民街に女性が一人でしかも丸腰で足を踏み入れることは有り得ない。だが護身以上にそれは、お願いに使われる物だろうと少女は察していた。相手は男だ。揉み合うような事態になれば力では到底勝てない。言葉でお願いするだけで安心するなら、わざわざこんな危険な所に赴かない。影の中は無法地帯だ。この中では人間を殺しても誰も咎めない。

『ねぇ、そのナイフで殺すの?』

『だっ……だって何をするかわからないのよ! スラムの人間は頭がおかしいの! 皆死ねばいいんだわ! あっ、あなただって……こ、こど、子供だからって……こど、も……』

 鞄の陰からナイフを抜いて震える手で構える。両親が貧民街の強盗に殺されたと思っているのだから、災いの芽を摘んでおこうとする気概は構わないが、少女から見れば今この瞬間、この妹が災いとなった。

『お姉……ちゃん……?』

 死んだ時は大人だったが、子供の姿になっても顔が変わったわけではない。他人の空似だと思ってしまえばそれまでだが、気付くのは時間の問題だった。

『え……? でも、まさか……まさか、繭に!?』

 噂好きな女子なら繭の怪談話を聞き齧っている者は多い。占いなどもよく信じていた妹なら、噂話の一つや二つすぐに信じるだろう。占いに一喜一憂して可愛い格好が似合ってとても綺麗な顔で家事も得意で、口には出さないが少女にとって自慢の妹だった。

 よく似合っている三つ編みを少女もしてみたくて頼んでみたこともあったが、お姉ちゃんには似合わないと拒まれて諦めたり、歳が離れてはいるがよく姉妹で比べられて突き放されることもあったが、あまり気にしたことはなかった。事実なのだから。

『と、止めないでお姉ちゃん! 私は、私は……幸せになるの! そのためには殺さなっ……』

 最後まで聞かず、少女は妹からナイフを取り上げ腹を刺した。

『お姉……ちゃん……? どう、して……』

『頭は緩かったもんね、昔から。何も知らなくても家のことをよくお喋りして、それで怪しまれて、お父さんいなくなっちゃったね』

『え……?』

『何度も私の幸せを奪おうとしないで』

『っ……』

『言葉でお願いするだけなら見逃せたのに。殺すのは良くないよ。とても良くない。外面で勝手に決めつけて悪者にしないで』

『やっ、やだ……! たす、たすけっ……』

『もうさよならしよ』

 そして死ぬまでナイフを刺した。降り出した雨がか細い声を掻き消した。殺しきれていないことに気付かず青年の前に引き摺っていってしまった。いつもそうだ。いつも詰めが甘い。止めを刺しきれていない。

 青年が本当に悪い人だったら、あの一家全員皆殺しでも良いと思っていた。だが青年はよく知りもしない少女を助けてくれた。埋もれていたゴミから引き抜いてくれたことや雨宿りさせてくれたこともそうだが、何より拒まれないことに心が救われていた。三つ編み一つできなくて料理もお仕事もできないのに受け入れられて――いると言い切るのは些か傲慢な気がするので撤回しておくが、拒まれないことは嬉しかった。

 殺しきれていなかったことが原因だが最期に妹が青年に助けを求めたことには少し、誇らしい気持ちがあった。


 ――ふふ。

 繭から生まれてまだ日が浅く感情表現がまだ追いついていない少女はぼんやりと目を開ける。口元が笑っていることには気付かなかった。

「やだなぁもう――」

 半分まだ夢の中にいた少女の頭に、がつん、と衝撃が走った。

「ぁいたっ」

「こっちの台詞だ」

 頭を押さえながらソファに座り込み背凭れの向こうに目を遣ると、青年が顎を押さえてソファの背に手を突いて立っていた。

「急に立ち上がるな……」

「え? 立ち上がってた? それは無意識だったな」

「どんな良い夢を見てたか知らないけど、にやけてたぞ」

「あらやだ。無意識って凄いね。ぶつけたってことは、キスでもしようとした?」

「蝿が留まってたから払ってやろうとしただけだ」

「色気のない返答だわ。ありがとう」

「適当に朝飯食う」

 青年はさっさと台所へ行き、棚からパンを取り出して少女に放り投げる。受け取ったかは見届けずにマグカップに水を注ぐ。窓を見るが雨は降りっぱなしだ。厚い雲が退こうとしない。

「今日も雨だね。雨期だから仕方ないね」

「……あ、そうか。今雨期か……」

 道理で雨が止まないはずだ。わかってて雨宿りの約束を呑んだのだと青年は今更気が付いた。季節感がない街なので気付くのが遅れた。

 マグカップを机に置き、青年もソファに座る。雨期ならばパンに黴が生えないように気を付けないとと考える。買い置きが厄介な季節だ。冷蔵庫に入れよう。

 パンの状態を確認しながら齧り付き毟る。


「×××!」


 外で何か叫ぶ声が聞こえた。静かな街に雨音を掻き消す大声が響くのは珍しい。声は少しずつ移動している。

 様子を窺おうと窓の脇にしゃがみ込み、ゆっくりと顔を出す。少女も倣ってパンを咥えながら窓の脇にしゃがんだ。

「……」

 雨の幕で見にくいが、知った顔が見えた。手に女物の鞄を持っている。

「……ヨウ。昨日お前の妹は鞄を持ってたか?」

「持ってたね。シオの所に連れて行く時に落としたけど、お金になる物だった?」

「あれ」

 先程ぶつけた顎で窓の外を指す。少女は目を凝らして大声の主である男の手元を見た。

「あれだ」

「彼女が帰ってこないから探しに来たって所か」

「もしかしてあの人が婚約者?」

「そう」

「あんまり大声は良くないよね」

「まあそうだな。でも鉢合わせても面倒だな。どう説明するか」

「適当な嘘で大丈夫だと思うけど、放っておかないの?」

「一応……友達だったから」

 女の方は好意的ではなかったが、男の方は結婚式に呼ぼうとしていた。社交辞令だとしても、何も言わない選択肢もあったはずなのに。

 青年はフードを被り、部屋を出て階段を駆け下りた。少女は青年の背を見送り、パンを貪りながら窓の外へ視線を戻した。

 家から青年が飛び出し、男を追う。壁に阻まれ姿が見えなくなったので、錆び付いて固い窓を軋ませながら力尽くで開けた。硝子が割れなくて良かった。

 身を乗り出して雨に打たれながら覗き込む。見えなくなっていた姿が後退してくる。

「?」

 落ちないように目一杯身を乗り出すと、やっとその向こうが見えた。青年と男が引き返して走っ――

「あ」

 逃げる男の背が、その後ろから追う者に切り裂かれた。鮮血が雨の中にぶちまけられる。

 少女は躊躇なく窓から飛び降りた。そのまま地面まで一直線に落ちてしまえば死ぬかもしれないが、各階の窓に生えた小さな屋根に足を掛け、最後はナイフを構えてそれに飛び掛かった。

「アアアアァ!」

「シオ!」

 青年の無事を一瞥で確認し、全ての体重を掛け深々と肩に突き立てたナイフを引き抜く。だが抜くより速く、その手が伸ばされた。

「!」

 ふわふわと掴みやすく揺れる少女の金色の髪を掴み、強く引かれる。地面か壁か、叩きつけられる。その前に自分のナイフで髪を切り落とした。三つ編みが力無く解けた。

 すぐに地面を蹴って青年の腕を引き距離を取る。切り裂かれた男は地面に倒れたまま動かない。

 充分に距離を取って振り返る。そこには肩から血を流す少女の妹が立っていた。白い糸が体中に垂れている。切り取った三つ編みがばさりと地面に落ち、雨で散けていく。

「ねぇシオ。処理したって言ってなかった?」

 雨に濡れ背に貼り付く短くなった淡い金色の髪を見、青年は睫毛を伏せた。

「……言われた通り、口に土を詰めて処理した」

「口に土? ……ああそうか。やりたいことはわかるけど。それじゃ処理できない。って言うより、糸吐きの止め方ってあるのかな? 繭になったら煮沸すればいいけど」

「それは聞いてない」

「蚕の繭って、煮て中身を殺すでしょ? それと同じ」

「じゃあ、孵化したら……?」

「普通の人と同じように殺せるはずだけど、理性は飛んでるからね。だって婚約者もわからず殺すくらいだから」

 この場合の怨みの対象は姉である少女になるのか、探していた青年になるのか。

 女は何処かで拾ってきたのだろうナイフを手に駆け出す。銃ではないことは不幸中の幸いか。ナイフなら適切な距離を保って目を離さなければ対処できる。

 再び走り、距離を保ちながら青年もナイフを抜く。

「糸を吐いて攻撃してくるとか?」

「糸は繭を作る時だけだよ。私そんなの吐けないし。身体能力が急に上がることもないよ。ただ箍が外れるだけ」

 そうだこの少女も繭から生まれたのだ。普通の人間と見た目の違いもないため忘れていた。と言うことは窓から飛び降りた身体能力は元々備わっていたと言うことか。何もできないと言っていたが、ピッキングと言いできることがあるじゃないか。

「俺が処理できてなかった所為だ。俺がやる」

「かっこつけるのはシオらしくないなぁ。元は私が蒔いた種だし、私が汚れ役になるよ」

「汚れならお互い様だろ。スラム歴は俺の方が長い」

「張り合わないでよ。じゃあこの子との家族歴は私の方が長いよ」

「は?」

「普通の人と同じだとわかった途端、強気に出ないで……よ!」

 飛び掛かる女の腕を切りつける。少し浅い。

「一応友達の仇でもあるからな」

 ナイフを弾き、蹴り飛ばす。

「そんな義理堅い人だとは思わなかったけど」

 体を起こす女にナイフを突き立てる。

「俺も」

 少女にナイフを振り上げて抵抗しようとする腕を切り裂き、青年は女の頭を踏みつける。

「もう一回繭を作るかわからないけど、念のため喉切っておいて。それで糸吐きが止められるかわからないけど」

「……ああ」

 女の白い喉元にナイフを当て、青年はぴたりと止まる。

「……」

「できないならできないって言っていいよ」

 やんわりと青年のナイフを退け、少女は微塵も慈悲無く女の喉を切り裂いた。

 格好つける気はないが、今一締まらないと青年は思った。死体を見るのは慣れたが、自分の手で終わらせるのは躊躇ってしまう。

「……集積所に持って行く」

「手伝うよ」

 女は少女が引き摺り、青年は男の傍らに跪く。確認するがやはりもう息はなかった。

 転がっていた女の鞄を開けるが、中には何も入っていなかった。財布は服のポケットに入っていたのだから、入れる物はないかと納得した。ただナイフを隠すための物だ。

 男の服も弄る。慌てて飛び出してきたのか、金目の物は持っていない。

 視線を流し、左手を見る。輝く石はついていないが、指輪が光っていた。濡れた手で指輪を外し、数秒ぼんやりと見下ろした後ポケットに捩じ込む。

「何か良い物あった?」

「指輪だけ」

 青年は死体の腕を掴んで立ち上がり引き摺る。いつものように死体を片付ける。やはり雨の日は碌なことがない。

 死体集積所は何も被害がなかったようで、いつもと変わらぬ姿でそこにあった。何なら繭が作られたことにも気付いていない。怨みの対象を殺しに行くのなら、関わらなければ無害なのかもしれない。

 死体置場の近くに破れた薄い繭があった。短時間で孵化したからかペラペラで、あちこちに破片が散っていた。本体にも無数に糸が垂れていたので、不完全だったのではないかと思う。手を掛けると簡単に繭が破れてしまう。

 処理に失敗したと気付かれると今後ここが利用できなくなるかもしれない。見つからないように繭は細切れにして、女の死体は他の死体に埋もれさせておいた。

「そう言えば、繭から出てくるのは子供だって言ってたな」

「普通はしっかり繭作って中で新しく体を作るみたいだけど、今回は時間が短すぎるから、死体の修復をしたみたいだね」

「やっぱり不完全ってことか?」

「だと思うけど」

 男の死体の金銭は小窓から受け取る。いつもはいない少女が後ろに控えているので一瞥を投げられたが、詮索はされなかった。

 止まない雨の中家へ帰り、少女を浴室に放り込んで青年はやっと一息ついた。中身は人生二周目の大人なのだから、一人でシャワーくらい浴びられるだろう。フードを脱ぎ、マグカップに水を注いで立ったまま一口飲む。

 ポケットから指輪を取り出し、入れたままになっていた女の指輪と共に台所に転がす。

(雨が止んだら換金に行くか)

 ぼんやりと汚れた天井を見上げる。二人で始めたと言っていたあの菓子屋はどうなるのだろうか。店を閉めるならウィンドウにあった菓子は廃棄されるかもしれない。捨てられた物に対価は必要ない。拾いに行っても良いかもしれない。そんなことをぼんやりと考える。

「シオ、終わった」

「ぅぶっ」

 短いタオルを体に巻いた少女が堂々と浴室から出てきた。小さい体なのでぎりぎり隠せるらしい。青年はまた水を噴いた。タイミングを考えてほしい。

「うぇっ、げほ、げほっ」

「大丈夫?」

「…服」

「濡れてる」

「濡れてても着ろ」

「ちゃんと隠してるしいいでしょ。それとも欲情?」

「しない」

 一度目を逸らし、もう一度少女に目を遣る。体ではなくて、髪にだ。

「……短くなったな。あれだけ三つ編みにしたがってたのに」

「あー……そうだね。あれは解けちゃったけど、まだ編める長さはあるよね? また編んでよ」

「まあ、それくらいなら」

「いっそここに住んでもいい?」

「雨が止んだら出て行け」

「雨期はまだ続くし安泰ってことだね」

「……」

 墓穴ばかり掘っている気がする。青年はそう思った。

「今日は疲れた。寝る」

「早いね。ごはんは?」

「食べる気分じゃない」

「仕方ないな。私も寝る」

「パン一個なら食べてもいい」

「撤回。食べて寝る」

 青年は飲み干したコップを置き、浴室に向かう。

 少女は棚からパンを取ろうとし、無造作に転がっている二つの指輪が目に入った。女の指輪にだけ、小さいが輝く石が嵌っている。

(無理に強請(ねだ)ったな、あいつ。予算なくて彼女にだけ石をつけたかな)

 石の嵌った指輪を指に通してみる。すとんと付け根まで落ちた。子供の指では大きすぎた。

(似合わないな)

 だが何と言うか、気分が踊るような感覚はある。キラキラとして綺麗だ。


「欲しいのか?」


「!」

 そんなに指輪に夢中になっていたのか、背後に青年が立っていることに気付かなかった。思い切り肩が跳ねてしまったが、振り返ると頭にタオルを被った青年が何も気付いていないように少女を見ていた。服は着ている。

「財布に結構金が入ってたし、欲しいなら持っていっていい。物が物だしな」

 紆余曲折はあったが、そうだこれは妹の形見なんだと一瞬だけ少女は思ったが、すぐにどうでもよくなった。形見だからと言うわけではなく、単純に綺麗だから。持っていようと思った。少女には似合わないが、何となくプレゼントを貰ったような気分だ。

「ありがとう」

 青年は一人で寝室へ行き、いつも通り鍵を締めた。

 少女はパンを手にソファに座り、一人で齧る。湿っているが、服は着た。料理の一つでも覚えれば居場所を提供してもらえるだろうかと考えるが、食材を大量に無駄にしそうで、できそうにない。人生一周目に一つくらい料理を覚えておけば良かった。

 パンをぺろりと平らげ、少女は鍵の掛かった寝室の前に立つ。今日は時間が早いので、窓の外はまだ黒くない。

 先の曲がった細い金属の棒を取り出し、ドアと壁の隙間に差し込む。料理はできないが、ピッキング行為は父親から教えてもらった。玄関の鍵とは異なるが、この古いドアは棒の先をラッチボルトに引っ掛けて押さえながらドアノブと共に引くと、簡単に開く。この貧民街ではよくあるドアだ。

 音を立てないようにドアを開くと、青年はぐっすりとベッドで眠っていた。

 少女はベッドに上り、眠る青年の顔を見下ろす。何も知らないような顔だ。

(焼けた死体が私だと思ってるみたいだけど、私はあそこから逃げたから)

 何も覚えていない。いや思い出せないだけか。

(私と貴方は同じ)

 雨音がサラサラと窓を打つ。

 少女は無意識に口元が嬉しそうに笑っていた。

 あの時、火に飛び込んだ。あの死体は――


「――あの繭は貴方だよ。シオ」



゜.。.゜・゜.。.゜・゜.。.゜・゜.。.゜・゜.。.゜・゜.。.゜・゜

読んでいただきまして、ありがとうございました!


隙間時間に、ゆるーく書いてたお話です。

廃墟が好きなので、また廃墟です!楽しく書けました!

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