4:今年の桜はもうすぐ散る(2)
端的に言うと、『最強の防犯とは家に人がいるということである。だから俺は家を守るために家から出ない』というのが兄の主張だった。
今までのブログ記事の中で過去1番にくだらない内容だ。私は私の貴重な時間を無駄にしたことを後悔した。
「ほんと、屁理屈しか言わない」
思わず声に出してしまい、私は慌てて手で口を塞ぐ。そして何食わぬ顔でベンチに腰掛けた。
(…少し外に出るだけでも、世界には癒しが溢れているというのに)
駅から徒歩2分のマンション。私たち家族が住むそこの敷地内にある公園には、今日も癒しが溢れている。
無邪気に遊ぶ幼な子たちの可愛らしい姿や、風が吹くとひらひらと舞う桜の花びら。
赤く染まった空に、もうすぐ夕飯だとベランダから子どもを呼ぶ母親の姿。
そして、今にも転びそうな拙い歩き方、走るたびにぷるぷると揺れるもちもちの頬の幼女と、その幼い妹を抱き上げる兄。
(かわいい…)
かわいいの権化。子どもは本当に癒しだ。最強である。
妹を可愛がるあのお兄ちゃんは小学校4年生くらいだろうか。妹の抱き方がもうプロのそれだ。日頃からお世話をしているのだろう。
その光景を見ながら私はふと、母の言葉を思い出した。
その昔、兄はあんなふうに私を抱き上げてくれていたらしい。
兄が小学校に行くときは自分もリュックを背負い、玄関まで行って靴を履かせろとせがんでいたそうだ。
一緒には行けないと言うと、毎度今生の別れであるかのように泣き叫ぶものだから、兄は私を登校班の集合場所まで連れて行き、泣き止むまであやしていたという。
引っ越しのための荷造りの時、昔のアルバムを見つけた母は懐かしそうにそう話した。
絶対嘘だと思いたかったが、卒業文集の黒歴史がある私が彼女の記憶違いだと否定できるわけもなく、その話は二度としないでほしいと懇願した。
「いいなぁ…」
兄に手を引かれ、よちよちと歩く幼女の背を眺めながら、私は無意識にそう呟いていた。
私だって、本当は兄と出かけたい。桜の下を歩きたい。
「何が『いいな』なんだよ」
ぼーっとしていた私は、突然後ろから声をかけられて驚きのあまりビクッと体が跳ねた。
後ろを振り返ると、そこにいたのは社会不適合者の兄。
「え?お兄ちゃん?」
相変わらず毛玉のついたスウェットに、セットをしていない癖のある黒髪と死んだ魚の目をしているが、確かにそこに兄が立っている。夕陽を背に立っている。
「なんでここに?」
「このマンションに住んでるからだよ。駅に迎えに行ったのに、すれ違ったみたいだな」
「へ?迎え?」
マンションの敷地から出たことのない彼がさりげなく、敷地内から出た事を告げてきて、大きく目を見開いた。
「なんで?どうして急に迎えなんて…」
「何となくだよ。悪いかよ」
「悪くはないけど…びっくりしたわ」
驚いた様な私の反応に、兄は不服そうな顔をする。
「…敷地の外に出たくらいで、そんな顔すんな。すぐそこの駅に言っただけだろ」
「…そんなって、どんな顔してる?」
「泣きそうな顔」
「うそよ。泣いてないわ」
「うん、うそ。間抜けな顔してる」
「やかましいわ」
私は兄の足を踏んづけようとした。
しかし彼はそれを軽くかわすと、どこぞの県のクマのゆるキャラがプリントされたエコバッグを私に差し出した。中を見ると、そこには三色団子と牛乳プリンが入っている。
「食うか?」
「…食う」
マンションの敷地から出ただけなのに、私は何故だかとても嬉しくて、自然と顔が綻んだ。
***
それから私たちは子どもたちが家路につく中、ベンチで三色団子を食べた。
兄は三色団子の一番下、緑の団子を一つ残し、頭上の桜を見上げた。そしてボソッとつぶやく。
「…これ、花見だな」
「ん?まあ、そうかも?」
「そうだよな。これは花見だよな。団子片手に桜見てんだから花見だよ」
「うん?そう、だね?」
花を見てることを花見というのならこれは間違いなく花見だ。
兄は最後の緑の団子を口に含むとプラスチックのパックに串をしまい、立ち上がる。
「じゃあ、今年の花見には付き合ってやったということで!」
今年はもう、花見をしたいと言ってくるなということだろうか。兄はニヤリと口角を上げて私を見下ろした。
「…別にまだ何も言ってないじゃん」
「でもどうせ言ってくるだろ?俺さ、気づいたんだよ。お前が去年花見をしたいと言った時に、普通にベランダで三色団子でも食べてればそれでよかったんじゃねぇかと」
「今更気づいたんだ…」
遠い目をして、もう折り紙で桜は作りたくないと兄は言う。知らんがな。そもそも、私は別に折り紙で桜を作って欲しいなどと一言も言っていない。
「なんであんなに頑張ったんだろう」
「馬鹿だからじゃない?」
「馬鹿言うな。学力的には馬鹿じゃない」
「じゃあ、可愛い妹のため?」
「…そういうことにしておこう」
「ではその可愛い妹のために、このままハローワーク行く?」
「残念ながらハローワークの営業時間はもう終了しました」
「チッ」
「舌打ちすんな。品がない」
「お兄ちゃんの妹だからね」
「俺の妹ならもっと品があるはずだ。それこそどこぞの社交界にデビューできるくらいに」
「あ、私カーテシーできるよ」
「え?カーテン?」
「カーテシー。見て、ほら」
舞い散る桜の下、私は一時期異世界ものの恋愛小説にハマっていた頃に何となくで勉強したカーテシーを披露した。
スカートの裾をつまみ、片足を斜め後ろの内側に引き、もう片方の足の膝を軽く曲げ、背筋は伸ばす。我ながら実に見事なカーテシーだと思う。
「なんだろう。なんか違う。多分社交界デビューは無理だ」
優雅さが足りないらしい。やかましいわ。
「あ、母さんからだ」
兄は膨れっ面の私から目を逸らすと、スマホの画面を見せてきた。
仕事を終えた母がもう少しで最寄駅に到着するらしい。
「どうする?迎えに行く?」
「任せる」
「じゃあ行こう」
「ういっす」
私は三色団子を急いで口に放り込むと、串を兄に渡して駅の方へと向かった。
口いっぱいに団子を詰め込んだ私の顔を見て、兄はリスみたいだと大爆笑だ。そんなにおかしい顔をしていただろうか。
けれど、久しぶりに腹の底から笑う彼を見れたから、今日は失礼なその態度も許してやろうと思う。
駅につき、特急が一本通り過ぎるのを見送った。
そして次の鈍行で電車を降りてきた母を兄とともに出迎えて、3人で桜並木の下を歩いた。
今年の花見はこれで終わりだろう。でも、悪くない気分だ。