最終話:小さくて、大きな一歩
誹謗中傷は許されないけれど、批判は許されるという独自の理論で『これは批判だ』という建前を手にした名前も顔も知らない人物が、今日も兄を『批判』する。
読み手がどう受け取るかも考えずに、強く厳しい言葉で、相手が傷つくような言葉で書き手を責め立てる行為に何の意味があるのだろう。
彼らの生息地であるネットという仮想空間では、相手を思いやって発言するという配慮は必要ないらしい。
しかしながら…。
兄が好戦的な人だから画面の向こうの彼、もしくは彼女は相手にしてもらえるだけで、これが大人の対応ができる人なら、無視か、もしくは『そうですねー。ご指摘ありがとうございますー♪』で終わりだ。
そんなこともわからず、今日も彼らは右手には言葉という剣を、左手には建前という盾を手に朝から兄のブログに戦争を仕掛けにやってくる。
愚かだと思う。
何故なら兄は、向かってくる彼らをPV数を稼ぐための駒としか思っていないから。
そう、彼らは相手にされていないのだ。その剣も盾も兄の前では無いも同然。兄は何のダメージも受けていない。
だから兄はソファに寝そべり、テレビを見ながら応戦する余裕があるのだ。
この光景を画面の向こうで鼻息を荒くして、顔を真っ赤にして、書き込んでいるであろう彼らに見せてやりたい。
「なんか、アレだわ…。意外とメンタル強いよね、お兄ちゃん」
私は軽蔑の視線を兄に送った。
兄は名前も顔も知らない人に対しては本当にメンタルが強いと思う。
私だったら、自分のブログに好き勝手書かれたら普通に傷つくし、コメント欄も多分閉鎖するだろう。
「私はお兄ちゃんのこと好きだけど、お兄ちゃんのたまに出てくるクズみたいな性格の悪さはあまり好きじゃない」
「何を言うか!こんな場所でしか威張れない哀れな子羊たちを可愛がってやっているだけたろうが」
「知ってると思うけど、お兄ちゃんもその画面の向こうにいる人たちも、共に社会不適合者の烙印押されてる仲間だからね?」
「知っている!だが、それがどうした!という感じだ」
「自覚はあるんだ」
「俺は社会不適合者だが、その自覚はあるのでセーフ。ないやつがアウト」
「その線引き、謎すぎるわ。ところでお兄ちゃん」
「何ぞ?」
「何でまだ寛いでるの?」
「……」
「わざわざ人材派遣会社の面談をキャンセルしたのに、無駄になるよ?」
「……わかってる」
兄はデジタルの置き時計を目の前に突きつけられると、わかりやすく目を逸らせた。
今日は大志の本当の誕生日。
そして兄が一人で外に出る練習をする日だ。
今日までの間、兄は私や母と外食したりして、家の外に出る練習を繰り返してきたおかげで、兄もだいぶ外の空気に慣れてきた。
「この前、結局食べ損ねた誕生日ケーキ。二駅先のケーキ屋さんまで買いに行くというおつかい!やるって言ったのはお兄ちゃんじゃん!」
「…服着替えたら出られるもん」
「もんとか言っても可愛くないから」
私は呆れてため息をこぼした。
行けないと思うのなら行かなくても構わないが、これは面倒だから行きたくないという態度だ。
それは許されない。なぜなら兄がお使いに行くと言ったから。
そんなことを言っていると、チャイムが鳴る。
多分大志だが、私はちゃんとカメラを確認して鍵を開けた。
「いらっしゃい!」
「お邪魔します」
「穂高さんは?」
「今着替えてる。さすがに毛玉のスウェットで新しくできたおしゃれなお店には行かせたくないわ」
「なるほど」
ドタバタと部屋から出てきた兄は、ずっと前から準備万端でしたけど?みたいな顔で私の彼氏を出迎えた。全くもって腹立たしい顔である。
「こんにちは」
「はい、どうもこんにちは」
「今日はどうすればいいんっすか?」
「まあとりあえず、上りたまえ」
そう言うと、兄は大志をリビングへと連行した。
そして養生テープを床に貼り、畳一畳分くらいのスペースをつくると、そこに座布団を敷いて彼を座らせた。
「俺が帰るまで、君はここから出ないこと」
「何言ってんのよ、お兄ちゃん」
「うるさーい!年若い男女が密室で1時間も一緒に居れば、子どもできるんだよ!?保健体育の基本!お兄ちゃんは結にはまだ早いと思うな!」
「お兄ちゃん、保健体育だけ中学からやり直したら?」
私はまた呆れ果ててため息をつきながら、兄の背中を押して玄関へと連行する。
途中、大志に何か耳打ちしてたけど、多分あまり良いことではないので私は聞こえないふりをした。
そして保冷剤の入ったエコバッグを渡して笑顔で言う。
「いってらっしゃい、お兄ちゃん」
「…行ってきます」
兄は大きく深呼吸すると、背筋を伸ばし、グッと顔を上げて家を出た。
ドアノブを掴む彼の手は微かに震えていた。
これは多くの人から見たらくだらない事だろうけれど、兄にとって大きな一歩だ。
きっと兄は今、色んなものと戦いながら駅まで歩いている。
外は快晴。少し蒸し暑いが汗だくになるほどじゃない。
場所は人のあまり降りない二駅先のケーキ屋さん。
イチゴのショートケーキを4つ買ってくるだけの簡単なおつかい。
決して難しいことじゃない。
けれど彼にはとても難しいこと。
だから別に、ケーキは買って来れなくてもいい。
無理なら帰ってきてもいい。
どんな状態で帰ってきても、私が笑顔で出迎えるから。
そんなことを言っていると、大志は後ろからぎゅっと私を抱きしめる。
「大丈夫やから」
「うん。ありがとう」
私は首元にある彼の腕をぎゅっと掴んだ。
しばしの沈黙。妙な緊張感が走る。
そういえば、今は家に二人きりだ。
「……」
「………大志?」
「…なあ、穂高さんがさ、誕生日プレゼントは妹に預けたとか言うてたけど」
「……うん」
「それっていつ貰えるん?」
「…今」
私は後ろを振り返ると少し背伸びをして、目を閉じた。
彼の右手が私の左頬に触れ、髪を耳にかける。
何だかくすぐったい、変な気分。
私はその日、人生初のキスをし…。
「財布忘れた!」
「……」
「……」
「……」
勢いよく再び開いた玄関のドア。生温い風が廊下の向こうから入り込んでくる。
テンプレの如く、財布を忘れて戻ってきた兄は本当に気まずそうな、申し訳なさそうな何とも言えない顔をしていた。
「た、大志、離れよう…」
「……」
「私、お兄ちゃんの財布とってくるか…ひゃっ!?」
ぐいっと腕を引かれた瞬間、チュッという音がした。
何が起きたかわからない。でも間違いなく唇に何か触れた気がする。
余裕の笑みを浮かべる彼を見つめながら、私は両手で唇を押さえて顔を赤くした。
「うおおお!行き先変更!駅前のエリシオンに行って、秒で帰ってきてやるからな!!」
30秒ほど呆然と突っ立っていた兄は、また財布も持たずに家を飛び出した。
まあでも、あのお店はバーコード決済ができるので、大丈夫だろう。
こうして、私たちの日常は少しだけ変わり始めた。




