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【完結】引きこもりの兄と私  作者: 七瀬菜々


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26:梅雨明けはまだ遠い(2)

 兄とちゃんと話をしようと決意したその日の夕方。

 小雨が降る中、私が学校から帰宅すると不自然なほどに家が静かだった。

 いつも通りに玄関の鍵を開け、いつも通りに大きな声でただいまと言ったのに、いつもの鬱陶しいくらいの出迎えがない。リビングからテレビの音も聞こえない。


 私はシンとした家に嫌な予感がした。


 慌てて、兄の名を呼びながらリビングや兄の部屋、私の部屋、母の部屋にトイレに風呂場まで、至る所の扉を開けるが……。兄がいない。


「…お、お兄ちゃん?いないの?」


 どっと、表現し難い恐怖心が押し寄せて来た。

 兄が家にいないなんて、あり得ないことだったからだ。

 多分普通の家なら、ただ外出しているだけだろう、で済むのだが、我が家ではそうはならない。

 焦りからか、心臓が早鐘を打つ。

 私は震える手ですぐに兄に電話した。呼び出し音が、いつもよりも長く感じる。

 いつもなら3コール以内に出てくれるのに、今日は全然出てくれない。

 …結局、電話はつながらなかった。

 私は留守電話を残して、メッセージも送った。


 『今どこにいるの?大丈夫?』


 そうメッセージを送ってから5分待った。だが、まだ既読がつかない。

 兄は絶対に5分以内に既読がつく人なのに。こんなこと、普段ならありえない。

 私は無意識にスマホを操作し、助けを求めるように大志に電話をかけていた。


「大志…お兄ちゃんがいないの…」


 そう言った私の声は震えていたのだろう。

 大志は優しく、大丈夫だ、落ち着けと言ってくれた。

 すぐそばで背中をさすってくれているような暖かさを、電話の向こう側から感じる。

 大志はスマホのGPSアプリを見てみろと私にアドバイスした。

 もしかすると、私のスマホからも兄のスマホの位置情報が取得できるかもしれないと言うのだ。

 GPSアプリを自分で使ったことのなかった私は、その手があったかと電話を切り、急いでアプリを起動した。

 

 それは兵庫に来てから入れたアプリ。

 多分、恋人同士が互いの位置を知る為に入れるようなものなのだが、兄は私にそれを入れるように言った。

 あの時、兄はどんな思いでこれを入れろと言ったんだろう。

 私はふと、そんなことを思った。


「あ!位置情報が取得できた!えーっと、西宮の阪急の線路近くの…カフェ?」


 GPSが示したのは自宅から徒歩10分程度の距離にある、阪急神戸線の路線近くのカフェだった。

 数年前にできた場所で、私も一度行ったことがある。


「どうしてこんな所に?」


 兄が行きそうな場所でもないのに。

 私は大志に兄が見つかったとメッセージを送ると、急いでそのカフェに向かった。

 小雨の中、傘もささずに雨水が跳ねるのも気にせず、私は走った。


 カフェに着くと、カウンターの端で青い顔をした兄がアイスティーを飲んでいた。

 店員さんの話では、店の外で蹲り動けなくなっていたらしい。

 呼吸が荒く、顔色も悪い為、救急に連絡しようとしたが兄に拒まれたので、とりあえず店の中に入れて様子を見る事にしたのだとか。

 私は保護してくれた店員さんに深々と頭を下げ、兄の隣に座った。


「…何してんの?お兄ちゃん」

「…お前こそ、何してんの。傘は?」

「忘れた」

「馬鹿じゃん」

「馬鹿って何よ。家にお兄ちゃんがいないから探しに来たんだからね?」

「どうやって場所がわかったんだよ」

「お兄ちゃんと同じ方法だよ。便利だね、GPSアプリって」

「俺みたいな事してんじゃねーよ」

「妹ですから。似るのは仕方がないかと?」

「ははっ…」


兄は私の方を見ずに、疲れきった顔で乾いた笑みをこぼした。

 

「…悪いな。心配かけた」

「うん。心配したよ。とっても」

「……」

「…お兄ちゃんはいつも、こんな気持ちなのかな?」

「…さあな」

「……」


 会話が続かない。私はホットコーヒーを持って来てくれた店員さんに軽く会釈して、砂糖を2本入れた。


「甘党」

「うるさい」

「…ごめん、結」

「何が?」

「東京行くまでは、徐々に外に出られるようになってたのに、なんか、ごめん。また無理になったわー。あー。情けない」

「そっか…」


兄は顔を覆い、椅子の背もたれに体を預けて大きなため息をこぼした。

 東京で工藤さんに会ったことで、昔のことがフラッシュバックしたのだろうか。

 外に出てみたら、自分で思っていたよりも体に異常が現れてしまったらしい。


「……」

「……」

「……あの…さ…」

「…大丈夫だよ、お兄ちゃん」

「……」

「とりあえず、さ。お家に帰ろ?」

「……ああ」


 多分、兄は今日、ここに至るまでに何があったのかとか、彼の今の複雑な心情を話そうとしたのだと思う。

 だけど、兄の顔があまりにも悪いから、私は彼の言葉を遮り、席を立った。

そして私たちは、後日改めてお礼に来ると店員さんと店長さんに伝え、カフェのケーキを3つ買って店を出た。

 

「あ、傘ないんだった」


 外に出て、辛い空を見上げる。

 すると、後ろから大きなビニール傘が視界に入ってきた。

 

「相合い傘だね、お兄ちゃん」

「気持ち悪い事言ってんじゃねーぞ、ばか」

「気持ち悪いの?トイレ行く?」

「その気持ち悪いじゃねーわ」


 兄は私の頭を後ろから小突いた。

 それから、大志に電話して兄の無事を伝えたり、他愛もない話をしながら帰路についた。

 

 帰ってから、兄は気まずそうにしながらも私に日曜日の予定を聞いて来た。

 私は何もないよ、と返した。


「…少し、話をしよう」

「うん。私も、そう言おうと思ってた」


私たちは顔を見合わせてぎこちなく笑った。

 

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