25:梅雨明けはまだ遠い(1)
あれから1週間。兄とは何だが微妙に気まずい。
相変わらず兄は屁理屈をたれているし、私はそんな兄に突っかかる毎日を過ごしているから、傍目から見たら何も変わっていないように見えることだろう。
けれども、今までやってきた『引きこもりクソニートが!』からの『うるせぇ、女子力皆無のクソ妹』という会話が無くなった。
2人の間で3年前のことや、引きこもっていることに関して何か話すことはない。
それに、ふとした瞬間に兄は険しい表情をするようになった。
私たちの間に流れる空気はいつもと同じで、少しだけいつもと違う。妙に張り詰めた重たい空気が家の中にずっと漂っている。
「ほい。弁当」
「ありがとう。あ、また大志の分?」
「ああ。この間の礼も兼ねて弁当箱を新調してやったぞ」
「ほんとだ。タッパじゃない」
玄関で渡されたお弁当袋の中にはお揃いのお弁当箱が二つ入っていた。
わざわざ私の分も新しくしなくて良かったのに。
お揃いの二つのお弁当箱を眺め、私は何とも言えない気持ちになった。
何となく、兄の私に対する態度が前より優しくなった気がするのだ。
気がするだけで、本当は気のせいなのかもしれないけれど、話し方とかが柔らかくなったと思う。
それがどこか他人行儀な気がして、逆に怖くて、そして寂しい。
「あの、さ。お兄ちゃん…」
「何だよ」
「あの…ね?その…」
今、何を考えているの。
何を思っているの。
私のこと、どう思っているの。
聞きたいのに、やはり言葉が出てこない。
うまく伝えられない。
私は顔を伏せ、もじもじと手元をいじった。
「……結。早よ行け。遅刻すんぞ」
「あ、やば」
「傘持って行けよ」
「う、うん。行ってきます」
「おう。行ってらっしゃい」
兄は私の頭をぽんぽんと優しく撫でると、傘を手渡し、背中を押した。
半ば追い出されるように玄関を出た私は、後ろを振り返る。
いつもならエレベーターに乗るまで見ていてくれるのに、今日は早々に扉を閉じられた。
ガチャンと鍵を閉める音が、静かな廊下に響き、何だか寂しい。
私は傘を握りしめ、エレベーターへと足を動かした。
「……」
雨の音がうるさく感じる。
*
学校は地味に遠いところにある。直線距離ではそこまで遠くないくせに、電車一本ではいけなくて、地下鉄への乗り換えが必要だ。
私はこの乗り換えがとても面倒くさい。特に雨の日はダメ。通路が滑る。
過去に一度、盛大に転んで恥をかいたことのある私は雨の日の通学がどう頑張っても好きになれなかった。
そもそも、雨の日は濡れた傘を持って電車に乗るのは気を使うし、そもそも傘は邪魔になる。それに靴や荷物は濡れるし、おしゃれもできない。
「あれ?そう考えると良いところないな…」
あの週末の東京での雨は嬉しいことが多かった気がしていたが、あれは勘違いだったのかもしれない。
私は傘から手を出し、サーッと降る雨に触れてみる。すると、冷たい雨粒がすぐに手のひらに溜まった。
無色透明の汚れを知らない水のようで実は汚い雨水。私は指を開き、その水を下に流した。
「何してんねん」
大学の正門を抜けた先の初めの坂道で、1人ぼーっと佇んでいた私に声をかけてくれたのは、やはり大志だった。
彼はカバンのポケットからタオルを出すと、私の手を丁寧に拭いてくれた。
私がありがとうと微笑むと、彼は眉間に皺を寄せて難しい顔をする。
「何かあったんか?」
「何かって?」
「兄貴のこととか」
「別に何もないよ?どうして?」
「元気ないから」
「元気だよ?」
「嘘つけ。笑顔が嘘っぽい」
「嘘っぽいって何よ」
「貼り付けた笑顔ってこと」
大志は私の両頬をつまむと、横に伸ばした。痛い。
「何かあるなら言えば?」
「…別に大したことじゃないよ」
「大したことやなくても、俺は聞きたい」
「…じゃあお昼に。お弁当あるから」
「おう」
私がお弁当袋を見せてそう言うと、彼はその袋をヒョイっと持ち、先を歩いた。
「彼氏みたいなことするじゃん」
「彼氏やからな」
「ああ、そういえばそうか」
「…まだ実感ないなら強硬手段に出るけど、ええか?」
強硬手段って何だろう。
振り返った大志の目は、少しギラギラとしていたので、私は目を逸らせた。
「ちゃんと実感あるので大丈夫です。遠慮します」
「そうか。それは残念やな」
彼は悪戯な笑みを浮かべて、また、私の斜め前を歩き始めた。
急に雄になるのはほんとやめてほしい。そういうの、ちょっと弱いから。
*
「果たし状?」
昼食時。大志が空き教室でお弁当を開けると、海苔やハムを使って白いご飯の上に『日ヨウ日 15:00 イエニコイ』と書かれていた。
キャラ弁はまだ勉強中らしい。絶妙に下手くそなそれは、果たし状にしか見えなかった。
私も彼も、とりあえず写真を撮る。
「日曜の15:00に家に行けばいいってこと?」
「そうみたいね」
「何で?」
「さあ?」
私は首を傾げた。
大志は怪訝な表情で私を見てくるが、私だって何も聞いていないんだ。聞かれても困る。
とりあえず、兄にどういうことなのか説明を求めるメッセージを送った。
「穂高さん、あれから調子はどうだ?」
「うーん。なんか変な気がするけど、何が変なのかと聞かれたら何が変なのか、具体的に説明できない」
「何やそれ」
私の返答に、大志は首を傾げた。そりゃそうだ。自分でも何を言っているのかわからない。
私はお弁当を突きながら、最近感じる違和感を説明した。
そしてポツリと愚痴をこぼす。
「なんかさ、お兄ちゃんと何話していいのかわからなくなってきたの」
「何で?」
「事件のこととか今後のこととか、色々話したいと思うけど、話していいのかわからない」
「それは、自分が何も覚えていないからか?」
「うーん。どうだろう…。そうなのかな?」
「自分のことやろうに…」
「自分のことだからよくわかんないのよ」
多分、話をした方がいいと思う。今後のこととか、色々。お互いに思っていることをぶつけるべきだろうと思う。
けれど、苦痛を共有できない私が放った言葉で、無意識に兄を傷つけてしまいそうで怖い。
兄は『引きこもりクソニート』などと言うわたしをどんな思いで見ていたのだろう。それを考えると、少し泣きたくなってきた。
しかし、私がそう話すと、大志はうーんと眉間に皺を寄せて難しい顔をした。
「俺はそこまで気にすることないと思うけどな」
「どうして?」
「だって、苦痛を共有できないのは誰だって同じやろ?他人の痛みなんて、誰にもわかるわけないんやから」
「…それは、そうかもしれないけど」
「相手を思いやる心を持っていれば、無意識に傷つけてしまうことってそんなにないと思う」
大志は例えに出して悪いけれど、と前置きしつつ田辺さんの話をした。
彼女の東京でのあの暴挙は、兄を思うが故の行動だった。間違いなく彼女の善意で、彼女には兄や私を傷つける意図はなかった。
しかし、結果的には兄や私を傷つけた。
では、何故傷つけてしまうとわからなかったのか。それは彼女の深層心理の中にある、彼女の自己中心的な願望だ。
自分が昔の兄が好きだったから、自分の為に昔のような兄に戻ってほしいという願望。
それが表に出てしまったから彼女は無意識に兄を傷つけたのだと彼は語る。
「結は今、それだけ穂高さんのことを配慮しようとしてるんやから、よっぽどのことがない限りは兄貴が傷つくような言葉はお前の口から出てこんと思う」
「そうかなぁ」
「それにな、そもそもやで?昔だって、何も知らんけど『引きこもりクソニート』って言ってたんやろ?」
「まあ、そうだね」
「その時、穂高さんはいちいち傷ついとったか?」
「うーん、どうだろ」
「俺はお前ら兄妹のそのやりとり見たことあるけど、あの人は結構楽しんどったと思うぞ?」
昔の光景を思い出したのか、彼はクスッと笑った。
確かに、なんだかんだと、あのやりとりはお互い楽しんでいた気がする。
毎日毎日、お決まりの口喧嘩にもならない喧嘩は私の日常で、大切な時間だったような気がする。
「今はさ、変にお互いに気を使ってるところあるやろ」
「多分」
「そういう所から関係ってこじれていってしまうと思う」
「それはわかる」
小さな亀裂だったものが、気づいたら大きな溝になっていたなんて良くあることだ。
「いいか、結。そもそもの事件の被害者はお前なんや。そのお前が気を使って申し訳なさそうにしてたら、それこそ穂高さんは何も言えんくなる。罪悪感があるのはあっちも同じや」
「うん」
「だから、気にしすぎるのは良くない」
「うん」
「思い切りぶつかっていけ。お前の兄貴は妹命の、それこそこっちが引くほどのシスコンなんやから、その妹が飛び込んできたら絶対受け止めてくれるはずや」
「うん…」
兄と私の絆はそんなことでは崩壊しない。大志はそう言い切った。
心がフッと軽くなった気がする。彼の言葉がその通りだと思えたからだろうか。
「……うん。うん。そうだよね」
そもそも、別に喧嘩をしたわけじゃないのに、どうして兄とこんなふうに気まずくならねばいけないのだろう。なんか、段々と腹が立ってきた。
「私、今日話してみるね」
「おう」
大志は自分の分の卵焼きを私のお弁当に入れると、優しく微笑む。
「やる。好きやろ?」
「うん」
「元気出た?」
「うん、ありがと」
私は兄の作った甘い卵焼きを口に放り込み、兄に話したいことをスマホのメモにまとめた。




