【幕間】なんか、癪
穂高の異変に1番最初に気がついたのは彼の父親だった。
結が退院した頃、事件に関する報道も落ち着いてきた年の瀬のこと。父親はふと気がついたのだ。
そういえば最近、息子がずっと家にいるな、と。
本人に話を聞いてみると、穂高は『もうあとは卒業式を待つだけだから、ずっと家にいるように見えるだけだ』と言った。それに、残り少ない学生生活を満喫するためにバイトも辞めてきたのだと彼は父に説明する。
その時の彼の表情は非常にさわやかで主張にもおかしいところはなく、父もはじめは特に気にしていたなかった。
その異変に気づいたのは年が明けてからのとある日曜日。
引越しの準備で慌ただしい家族をよそに、東京の友人に別れの挨拶をすると言って、随分と久しぶりに穂高が家を出てから、およそ30分後のことだった。
物置の掃除をするために家の外に出た父は家を出たはずの息子が玄関と門の間で蹲っているのを発見した。
駆け寄ると彼の顔は真っ青で呼吸が荒く、体は小刻みに震えていた。
『どうした?大丈夫か?一旦家の中に入ろう』と言うと、穂高は父の腕を掴み、全力で首を横に振る。
そしてどうしても妹の結には気づかれたくないから、家には入りたくないのだと父に懇願した。
父は仕方なく彼を近くの公園まで連れて行き、彼の症状が落ち着くのを待った。
しばらくして段々と落ち着いてきた穂高は、誤魔化すような笑顔で『心配かけてごめん』と、『もう大丈夫だ』からと言った。
だがしかし。明らかにを隠している、誤魔化しているその笑みには流石の父も誤魔化されない。彼は穂高を連れて近くのカフェに入った。
そこで、父は根気強く穂高に尋ねた。
何か隠していることはないか、辛いことがあるのではないかと。
その時期、落ち着いてきたとはいえ、事件の被害者家族として好奇の視線に晒されて、いろんな人に色々と不躾な質問をされることもまだ少なくない時期だったから、父はそういうのが辛いのではないかと考えていたのだ。
しかし、父の迫力に根負けした穂高が話したのは、そんなことよりももっと重い話だった。
『結を残して家から出るのが怖いのだ』
彼はそう言った。
初めに違和感を感じたのは、結が入院して3日くらいたった日の午後だった。
その日は結への面会が許可され、顔が腫れた状態の彼女を見舞った日で、穂高は帰宅後、荷物を置くと家の近くのコンビニに雑誌を買いに行った。
その時、穂高は妙な胸のざわめきと息苦しさを感じた。
だが、彼は自身の体に感じた違和感を一連の出来事で精神的な疲れが溜まっているのだろうと考え、特に何もしなかった。
それからしばらくは、妙な息苦しさや倦怠感が続いた。
外出が億劫になり、見舞い以外の時間を家で過ごすようになった。
そして、彼がよく分からない違和感を感じてからひと月近く経った頃。記憶を無くした結が退院した。
穂高の感じていた違和感がただのストレスではないと明確になったのは、結が退院して家に戻ってきた翌日だった。
彼女を置いて、自宅から300メートルの位置にある自動販売機にコーヒーを買いに行った時だ。
玄関を出て一歩二歩、歩いたあたりから徐々に冷や汗が止まらず、呼吸が荒くなり始めた。
なんとか自動販売機にたどり着き、お金を入れることができたが、結局買ったのは絶対誰も買わないのに何故か季節問わずに置いてあるコーンポタージュだった。
手が震えてボタンが押せなかったのだ。
穂高はコーンポタージュを抱えて急いで家に帰った。
ガチャガチャと音を立てて鍵を開けて帰ってきた冷や汗が止まらない兄を見て、結はキョトンと首を傾げた。
汗をかいているのにアツアツのコーンポタージュなんて持っているから、おかしかったのかもしれない。
屈託のない笑顔で結は『おかえり』と言った。
彼女のその笑顔を見た瞬間、手から震えは消え、汗もスーッと引いた。
そういうことが何度かあって、結が家に戻って数日後には、流石に穂高も自覚した。
自分はあの事件がトラウマになっているのだと。
しかし、あの事件の被害者は妹であって、彼は直接的な被害者ではない。あくまでも被害者家族という立ち位置だ。
あの事件で記憶を無くすほどに傷ついている妹がいる家で、自分の不調などとてもじゃないけれど言えなかった。
だって、妹を危険な目に合わせたのは自分の浅はかな判断のせいだから。
穂高の意識の中には常に、そういう妹に対する罪悪感があった。
穂高の事情を知った母親は、もっと彼のことも気にかけてやれていればと後悔した。
彼が妹を自分のことよりも大切に思っていることは、十分に知っていたのにそんな妹があんな事になって、ショックを受けないはずがないとなぜ気がつけなかったのかと、自分を責めた。
トラウマを抱えた兄。
子どもたちを守れなかった母。
家族を守れなかった父。
そして、記憶を封じた妹。
各々自分を責め、互いに気を遣いながら、色んなことを誤魔化しながら、春日家は分裂して兄妹は兵庫へと渡った。
兵庫に来てから結は以前のように明るく、楽しそうに高校へと通った。
結の通う高校は良い人ばかりで、毎晩夕食時に楽しそうに学校の話をする彼女の姿に、母と兄は心から安堵した。
一方、穂高については、新しい土地に来て症状は軽くなったものの、相変わらず引きこもりのままだった。
環境を変えて心機一転、一から頑張ろうと就活もしてみたが、結局何も変わらなかった。
相変わらず、家を離れるのが怖い。
穂高は早々に、もう自分は家から出られない運命なのだと、就職することを諦めた。
そして家にいてできる仕事で、ある程度の収入基盤を作り、外に出なくても生きていけるよう環境を整えた。
妹に昔のことを感づかれないように、クズみたいなそれっぽい理由をつけて引きこもりを正当化したりもした。
妹に何を言われても、適当に誤魔化し続けた。
*
(最早、外に出れなくてもあんまり困ってないんだよなぁ…)
小雨が本降りになってきた夕方、本格的な雨音で目を覚ました穂高は隣を見た。
そこには膝を抱えて小さくなって眠る妹の姿があった。
彼は妹にブランケットをかけてやると、空いたグラスを持ってキッチンへと向かった。
そして洗い物をしながら、ぼーっと考える。
本当に、田辺の言うように、自分は前へ進む必要があるのだろうか。変わらなければならないのだろうか、と。
自分を変えるにはきっかけが必要になることが多いが、穂高にとってのきっかけとやらは、おそらく今だろう。
今回の工藤との再会をきっかけにすればいい。
特に、妹も兄がお日様の下で生きることを望んでいるだろう。昔から兄を外に出そうと頑張っていたから。
けれど…。
「癪なんだよなぁ」
捻くれているとは思う。
けれどあんな奴らに触発されて自分を変えるのは、なんだか癪なのだ。
変わるきっかけを、許したくない男に作られるのが許せない。
穂高は両手で顔を覆うと深くため息をこぼした。




