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【完結】引きこもりの兄と私  作者: 七瀬菜々


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26/32

24:キッカケ

 家に着いたのは昼過ぎだった。

 肉体的にはそうでもないが、精神的にはかなり疲れていた私と兄は、荷物をそのままに二人してソファに倒れ込む。

 体が鉛のように重い。


「動きたくない」

「わかりみが深い」


 兄はソファの上に置いてある、水戸さんという名の猫のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。

 水戸さんは引越しと同時にこの家に迎えいれたのだが、ここに来た当時のようなフワフワとした肌触りも、ふっくらとしたやわらかな膨らみをなくして、すっかり厚みを無くしてしまった。

 兄の枕としての生活が長いせいか、経年劣化の黒ずみが目立ち、かなり哀愁が漂っている。私は水戸さんに時の流れを感じた。 


(…あ、テレビテレビ…)


  私は手探りでソファの近くにあるサイドテーブルの上に手をやり、ガサゴソとテレビのリモコンを探しす。

 静かな空間が嫌で、私はいつもすぐにテレビの電源入れてしまう。雑音がないと何だか落ち着かないのは、多分現代を生きる若者特有の悩みだ。…知らんけど。

 兄は『横着するな』と呆れ顔で言うと、重たい体を起こしてリモコンを取ってくれた。


「あ、ありがと…」

「何見る?」

「何でも…どうせちゃんと見ないし」

「何でもって言われても、何にもやってないなぁ。ニュースは見たいけど情報バラエティは好きになれないし…」

「同感」


 兄はソファに体を預け、退屈そうにカチカチと一通り、全てのボタンを押した。

 だが、この時間は自分の主張を押し通そうとするMCと、専門家でもなんでもない芸能人がコメンテーターとして好き勝手言う時間帯だ。だからあまり好きじゃない。

 それが彼らの仕事なのだから、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれないが、もう少し自分の影響力を考えて発言してほしいと思うことは多々ある。

 彼らの『個人的な意見』は、電波にという風に乗って多くの人に届けられるのだという事を自覚してもらいたい。


「不倫のニュースばっかだな」

「どこかの国がミサイルを打ち上げた話よりも視聴率が取れるからね」

「そういうことか」


 兄はハッと小馬鹿にしたような乾いた笑みをこぼした。

 テレビに出ている人をぼーっと眺めながら、私は拭えない違和感をそのままにする。

 ああ、このコメンテーターはついひと月前、子どものいる男性芸人が不倫すると笑い話のように扱っていた人だ。けれど今月の初めに報道された子どもをもつ女性タレントの不倫については、まだしつこく非難しているな、とか。

 MCの子どもがかわいそうみたいな発言とか。子どもの精神状態を心配するなら大々的に報道しなければいいのに、とか。

 突っ込んでも仕方のないことだけど、世の中は納得できないことだらけ。


「お兄ちゃん」

「何?」

「みんな勝手だね」

「そうだな」


 兄はため息をつく私からリモコンを奪い取り、テレビの電源を切ると、キッチンへと向かった。

 何が飲みたいかと聞かれたので、濃いめ白い乳酸飲料と答える。

 ちょっと疲れている時に飲むと不思議と元気が出るやつだ。


 兄は私に飲み物を手渡すと、隣にドカッと腰掛けた。

 手に持っているグラスが少し揺れてこぼれそうになる。


「お前、今何考えてる?」

「…お兄ちゃんは?」

「俺?俺は、そうだなぁ…結局、田辺のやつ一言も謝らなかったよなぁ、とか?」

「…ああ、確かに」


 そういえば謝りたいからと言って連絡をもらったのに、結局彼女からは何も言われていない。別にいいけど。

 …….いや、正直に言うとあまり良くはない。『あの女、許さん!脳みそカチ割ってやりたい』くらいは思っている。

 まあ、今更何を言っても遅いけれど。


「あとは大志に今度、うまいもん食わしてやらねーとなーとか…」

「間違いない」

「それと……、俺はこの3年半ほどの間、一体何をしてきたんだろう、とか?」


 兄は自嘲するように笑うと、コーヒーを啜った。


 約3年、兄が何もしてこなかったわけじゃない。

 ちゃんと引きこもりながら出来る仕事で収入基盤も安定させたし、家にいるからと積極的に家事をしてきたおかげで料理はプロ並みに出来るようになった。

 最近ではハンドメイド作家もやり始めたらしいし、十分に色々やってきている。

 何より過去に囚われながらも、過去を覚えていない私に最大限気を配りつつ、ずっと一人で恐怖心と戦っていた。

 兄が過ごしたこの3年の日々は決して無駄ではない。私はそう断言できる。


 でも、それでも、私に許されたら後はもう最愛の人とその子どもと幸せになるだけの工藤さんと比べると、兄はどうしても惨めな気持ちになってしまうのだろう。多分、私も同じ気持ちだ。


 金銭的な面や自分を取り囲む周りの人々、自分自身の能力。

 誰をとっても、客観的に見れば工藤さんよりも私たちの方が遥かに恵まれているのに。

 あちらの方が幸せに映る…。


 だから多分、このタイミングなのだと思う。これをキッカケにして顔を上げ、一歩踏み出せば良いのだと思う。


 私はジッと兄の横顔を見つめた。


 本格的にリハビリをしてみよう。

 外に出る訓練をしよう。

 大丈夫だから。わたしの身には何も起こらない。

 

 色んな言葉が頭に浮かんでは消えていく。

 だって、全ての元凶は私なのに、当の本人が彼に何を言えるというのだろう。

 何を言っても『お前が言うな』となるに決まっている。

 私はうまく言葉を紡ぐことができず、グラスをダイニングテーブルの上に置くと、視線を逸らせた。

 隣からは、疲労感の漂うため息。窓の外からは急に降り出した小雨が窓を叩く音が聞こえる。

 沈黙した私はその音に耳を澄ませて、目を閉じ、少しだけ眠った。


 全部、夢なら良いのに。


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