20:兄の後悔
兄は後悔したのだろう。
6月の時点で転校させなかったことを。
私にいじめに立ち向かうように言った事を。
ーーーーあの日、私を置いて家を開けた事を。
「あの日、穂高さんは結の看病をするために家にいるはずやった。けれど結の熱が下がったこともあり、田辺っていう女に呼び出されて少しだけ家を空けてしまったそうや。1時間ほど、近くの公園で彼女と話をした後で帰宅したら、リビングで血を流して横たわる結を見つけたらしい…」
だから、それ以来、兄は家を出るのが怖くなったらしい。
玄関から出ようとすると、あの光景がフラッシュバックするのだ。
そういえば兵庫に来て初めの頃、兄は二ヶ月ほど就職活動をしていた。けれどすぐに飽きたと言ってやめてしまった。
私は本当にどうしようもない人だと、急にだらしなくなってしまった兄を叱責したが、今ならわかる。
あの時の本当の理由は、通勤がめんどくさいとか社会の歯車になりたくないとか、そんな話ではなく、家から出ると不安に襲われて過呼吸になるから。
3年経った今も、兄の頭にはリビングで横たわる私の姿がこびりついている。
そう考えると、私は胸が痛くなった。
私がこれっぽっちも思い出せないことで、兄は今も苦しんでいる。
(お兄ちゃんのせいではないのに。気にしなくていいのに…)
あの日だって、兄は家を出る前に私に声をかけたはずだ。
兄が家を出たのは、きっと私が『大丈夫だよ』と言ったからだ。
兄は私がそばにいて欲しいといえば、必ずそばにいてくれる人だから。
いじめに立ち向かうと決めたのだって、鼓舞したのは兄でも、そうすると決めたのは私だ。
兄はずっと私を支えてくれていた。たとえ記憶が戻ったとしても、決して兄のせいだなんて思わない。
私は後ろで眠る兄の髪をそっと撫でた。
「私、どうすればいいのかな?」
どうすれば良いのか、全くわからない。
私と兄では立場が違うし、そもそも私は何も覚えていない。だから、兄のために何ができるのかがわからない。
そう言うと、大志は静かに首を横に振った。
「無いんだよ。お前にできることも俺にできることも、何も無いんだ。こればっかりは、お兄さんが自分で克服するしかない」
できることと言えば、いつもと変わらずに結が元気で笑顔でいることだ。自罰的な彼の心を和らげてくれるのは、大切な妹の元気な姿だと、彼は言う。
本当にそれだけでいいのだろうか。
田辺さんは兄が家から出られないのは私のせいだと言っていた。
もちろん、私だって今聞いたこの一連の事件に関しては自分が悪かったとは思わない。
けれど、兄が家から出られなくなったことに関しては原因が私にあるのだから、それは私のせいだと言っていいと思う。
「自分を責めるなよ」
大志は私の両手を自分の両手で包み込むように、ぎゅっと強く握った。
彼の優しさが、今は少し辛い。
「責めないよ。でも、後悔はするよ…」
あの時、困っているおじいさんを無視していれば。
あの時、辛いからと早々に転校していれば。
あの時、反撃なんてしなければ。
あの時、いじめはダメだと工藤綺羅を庇っていれば。
あの時、風邪なんて引かなければ。
あの時、防犯カメラをちゃんと確認していれば。
私の頭の中でそんな『たられば』は尽きることなく溢れ出てくる。
今日だってそうだ。
私が無理に結婚式に行かせようとしなければ、兄は彼と会うこともなかった。
「…ごめんなさい、お兄ちゃん」
兄は今までずっと、私のことをとても大切にしてきてくれた。いつも守ってくれていた。
そんな大事な兄に、私は何もできない。




