2:私の兄は引きこもり(2)
午後6時。お風呂に入った私は不器用なりに髪を巻き、お気に入りの白の小花柄ワンピースに袖を通して、シトラスの香りのオードトワレをつけた。
鏡で何度も自分の姿を確認すると、浮かれ気分でリビングに降りる。
別に、行き先がおしゃれなレストランだと期待しているわけではない。あの兄のことだ。目一杯おしゃれしておけなんて言いつつも、多分行き先は近くのファミレスだろう。
だが、そうわかってはいても、私はおしゃれせずにはいられなかった。
たとえ行き先がファミレスだろうと回転寿司だろうとファーストフード店だろうと、私は家族での久しぶりの外出に浮かれていたのだ。
「何…これ…」
リビングに向かった私は、そこでようやく自分の勘違いに気がついた。
兄は『美味いものを食うか』と言ったが、『外に食いに行くか』とは言っていない。
『用意できたら声をかける』とは言ったが『何時にどのお店に行く』とは言っていない。
ダイニングテーブルに並べられたSNS映えしそうな料理を見て、私は叫んだ。
「騙されたぁぁぁ!!!」
崩れ落ちる私の姿に、兄は悪い笑みを浮かべた。
「誰が外食するって言った?」
言っていない。一言も言っていない。
「ほら座れ、母さんももうすぐ帰ってくるから」
ニヤニヤと口角を上げて私を見下ろしてくる。腹立たしい。
兄はオマール海老のテルミドールのお皿を置くと、濃紺のエプロンを脱ぎ、そして大学の卒業式以来着ていないスーツを羽織った。
スーツを着るならせめて無精髭と死んだ魚の目をどうにかしろ、この野郎。
「…オマール海老なんていつ用意したの?」
兄が引いた椅子に渋々腰掛けた私は、テーブルに並んだ豪華な料理を見て、ふと疑問に思った。
我が家は極々普通な家庭だ。間違ってもオマール海老やシャンパンを常備している家ではない。
「はっ!もしかして買い物に行った!?外に出た!?」
「残念。ネットスーパーです」
「嘘ね、だって今日の午後に頼んだのに今日中に来るわけないもの」
「前もって頼んでおいたんだよ。そろそろお前が『外に出なさい』と言い出す頃だと思ってな」
兄はふふんと鼻を鳴らす。
どうやら私が外に連れ出そうとするのを見越して、先手を打つためにわざわざ食材を用意しておいたらしい。
いつも料理は兄がするから私が冷蔵庫を開けることがほとんど無いのを逆手に取り、彼は着々とこの日のための準備を進めていたのだ。
今回ばかりは流石にしてやられた、と私は項垂れた。
「…私のために私の好物を用意することで、私が非難しにくい状況を作り上げるとは本当に策士だな!」
「なんだよ、お前のために作ったのに。不満なのか?」
「強いて言うなら態度が不満」
「俺もお前の態度が不満」
そう言うと兄は私の髪に触れ、薄く笑みを浮かべた。
「お前の入学祝いにと、『家族でご飯が食べたい』というお前の密かな願いを汲み取り、かつお前の好きな料理を腕によりをかけて作ってやった兄に対して、その態度はいかがなものだろうか」
「私のためとか言いつつ、外出を回避するためでしょうが!」
「結果としてお前のためになってるんだから、動機はどうあれお前のために作られた料理には変わりない」
「それは!そうだけど…。そうかもしれないけど…」
兄は私の毛先を弄ぶと、悪代官のように囁いた。
「俺は、施しを受けておいて『ありがとう』の一つも言えない妹など持った覚えはないぞ」
「うっ…」
痛いところをつかれた私は、思わず唸り声をあげてしまった。
外出を回避するためにここまで凝ったことをするより、すっと外に出る方が数百倍も楽だろうに。本当に変わった男だ。
「ありがとう、は?」
「あ、ありがとうござい、ます…」
引きこもりクソニートの正論に屈してしまった私は、声を絞り出した。悔しい。
「なあ、その顔でお兄ちゃん大好きですって言ってみて」
「死ねクソ兄貴」
屈辱的な扱いを受けて悔しそうな表情をしている妹を、さらに追い討ちをかけるように辱めようとするなど人間のすることじゃない。こいつは悪魔だと私は思った。
***
「昔はお兄ちゃんと結婚するって言ってたのにねぇ」
午後6時30分、いつもより少しだけ早く帰宅した母は、オマール海老のテルミドールを食べながら昔を懐かしむように呟いた。
正しい作法かどうかわからないけど、それっぽい食べ方で食べる母を横目に見ながら私も同じものを食べる。
「昔の話はやめて。本当に黒歴史だから」
確かに、昔は本気で兄と結婚する気だった。兄とは法律上結婚できないと知ると、法律を変えるために政治家になると言い出したこともしっかりと覚えている。
ちなみに私の小学校の卒業文集の『私の夢』という欄には政治家と書かれている。今となっては消し去りたい過去No. 1。立派な黒歴史だ。
過去を思い出し、苦い顔をする私を見て、兄はフッと乾いた笑みをこぼした。
「その程度を黒歴史とは言わないぞ」
「ではどんなものを黒歴史というのでしょうか」
「それはだなぁ…」
何でちょっと偉そうなのだろう。黒歴史とはどういうものかを説明し始めた兄の顔はとても腹立たしいものだった。
「要するに、お兄ちゃんの右手が疼いていた時代を黒歴史と言うってわけね」
「ぐふっ!」
「そういえば引っ越し準備のとき、お兄ちゃんが書いた魔導書が何故かお母さんの宝箱から出てきたよね」
「ぐふっ!」
「なつかしー。お母さん、あのノートまだ置いてるわよ?出してこようか?」
「え!?何で置いてるの!?あの時ちゃんと捨てたはずなのに!」
「ふっふっふっ。そのままゴミ箱に捨てるやつが悪いのよ。ああいうのは切り刻まないと」
詰め寄る兄に、母はゴミ箱に捨てられていたものをこっそり拾っていたのだと話した。息子の黒歴史すらも宝物にしてしまえる偉大なる母の愛に敬礼。
自分から黒歴史について語り出したくせに、これ以上自分の黒歴史については語られたくない兄は無理矢理に母のお茶碗を奪い取ると、おかわりを注ぎにキッチンへと逃げ込んだ。
そんな兄を見て、私も母も『馬鹿だなぁ』と笑った。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「結局さ、何で離婚したの?」
「どうしたのよ急に」
「いや、何となく…。今日お兄ちゃんとそんな話をしたから」
正確には私が一方的に話題にしただけだが。
突然の私の質問に、母は少し困ったような笑みを浮かべて『性格の不一致だ』と言った。
私は『ふーん』とだけ返したが、やっぱり今でも不思議で仕方がない。私の記憶では二人はかなり仲が良かった。現に、今でも大型連休には毎度父に会うために東京に行くほどに仲が良い。両親の離婚は我が家の7不思議のうちの一つだ。
ちなみに最大の謎は兄がなぜ引き籠ったのか、である。
(…むしろ性格はかなり一致してたと思うけどなぁ)
納得できていない私は無意識に口を尖らせていたらしい。兄は母にお茶碗を渡すと、私の唇を指で摘んできた。
「ぶっさいくな顔」
「何すんのよ」
兄はひとしきり私の顔で遊んだ後、3秒だけ目を閉じ、そして真剣な瞳で私を見据えた。
「結。親にも事情ってもんがある」
「それは…そうかもしれないけど…」
「深く踏み込んでほしくないことだってお前にもあるだろう。あまり母さんを困らせるな」
「…うん。そうだね…」
いつになく真剣な目で真剣な声で正論をいう兄の迫力に気圧され、私は素直に母に謝った。
家族といえど踏み込まれたくない部分はある。その通りだ。
3年前、両親の間には私が知らない何かがあったのだろう。だが、私は今後それに触れないでおこうと思った。