18:過去の話(1)
事の始まりは藤野結が、まだ春日結がだった頃。中学3年になった5月半ばの話。
いつも通りの帰り道。もうほとんど散ってしまった桜並木の下を歩いていた彼女は、公園内でホームレスの男性に絡んでいる数名の同級生を目撃した。
その同級生グループは、学年でもカースト上位に位置する人物が集まるグループで、派手な見た目の子が多い。
昔から正義感の強かった彼女は、当然その場面を見過ごせるわけもなく、けれどあまり賢くないので、先生に相談するなどせず、あろうことか直接注意してしまった。
そこからは予想通り。
その次の日から、執拗なまでのいじめが始まった。
クラスメイトからの無視に始まり、物を隠されたり、壊されたり。
トイレで水をかけられたりもした。
結の平和だった世界は一瞬にして覆った。
いつの間にか距離を置くようになった親友。積極的にいじめては来ないが、助けてもくれないクラスメイトと担任。全てが敵だった。
とくに担任は結が涙ながらに訴えても、『お互いさま』『お前にも悪いところはあった』などと言って取り合ってはくれなかった。
そして、そんな生活がしばらく続いたある梅雨真っ只中の時期。
結が、いじめのことを親に相談しようかと悩んでいた頃。
梅雨の時期のあの公園で、一つ目の事件が起こる。
その日、帰り道を待ち伏せされていた結はいじめグループに引きずられ、公園の公衆トイレに連れ込まれた。
雨で濡れた汚いタイルの上に転がされ、冷たい水を頭からかけられ……。挙句、髪を切られそうになった彼女は、咄嗟にいじめグループの一人、工藤綺羅という男を突き飛ばしてしまった。
自分の身を守るために、本能的にそうしてしまったのだ。
綺羅は濡れたタイルで足を滑らせてバランスを崩し、トイレの洗面台で頭を殴打。
出血が多く、救急車や警察が来る事態へと発展した。
騒ぎを聞きつけて集まる人々。強まる雨音と赤く染まるタイル。そして血の匂い。
パトカーや救急車のサイレンが鳴り響く中、結は倒れた綺羅を見て、ただただ震えていた。
この件は中学でも大きな問題となり、結の親と綺羅の親が呼び出され、話し合いとなった。
頭に包帯をして現れた綺羅は、頭を3針ほど縫ったそうだ。
綺羅の親は、結の親に謝罪と損害賠償を求めた。
この時、初めて娘がいじめられていた事実を知った両親は困惑していたらしい。
けれど、怯える娘の様子や、娘から話された事故当時の話を聞くと、その困惑はすぐに怒りへと変わった。
『娘の行動は正当防衛に値します!警察の事情聴取でも、娘の行動は故意ではないと証明されました。これは事故です』
『綺羅くんの怪我は綺羅くんたちのいじめが原因で引き起こされたものなのではないのですか』
春日夫妻はそう主張した。
しかし、学校側は『いじめの事実は確認できていない』『だが、結さんが綺羅くんに怪我をさせたのは事実』『結さんは制服が濡れた程度なのに、綺羅くんは頭を縫うほどの怪我をしている』などと言い、全面的に結が悪いとした。
当時、この工藤綺羅の親は区議会議員をしていたのだが、学校に対しては中々のモンスターペアレントで、教師陣から関わりたくないと面倒くさがられていた。
だからだろう。校長は早く終わらせて欲しそうに、工藤家の肩を持った。
春日夫妻は学校側の主張にも工藤綺羅の主張にも納得がいかず、裁判を起こす覚悟でいた。
だが、話し合いを重ねるうちに、度重なる罵詈雑言に耐えかねた当事者の結が『これ以上関わりたくない』と言ったため、夫妻は今後一切、結に関わらないという念書を彼らに書かせて示談金を支払った。
それから結は夏休みに入るまで、保健室登校となった。
春日夫妻は結を転校させることを考えた。
中三のこの時期に転校は、受験を控える娘にとってマイナスにしかならないかもしれないが、それでも彼女の心の健康を考えると、このまま今の学校に通い続けるのは厳しいことは明白だったからだ。
しかし、結の兄である穂高は、妹に戦うことを求めた。
あんな奴らのために、お前が逃げる必要はない。去るべきはあいつらだから。
穂高はそう言って、悪意に立ち向かえと妹を鼓舞した。
彼も、今ならその声かけが間違っていたとわかるが、その当時は妹が理不尽に屈する姿を見たくないあまりにそう言ってしまった。
結は兄の言う通り、立ち向かう決意をした。
*
二学期の始業先の朝、穂高に送ってもらい、学校に着くと皆が結に視線を向ける。
侮蔑、嘲笑、同情…。さまざまな感情を含んだ視線に押しつぶされそうになりながら、結は教室の扉を開けた。
すると、そこに広がっていたのは、いじめのターゲットが綺羅になったことを表す光景だった。
破壊された綺羅のペンケース。見るに耐えない落書きをされたノート。クラスメイトから嗤われる綺羅の絶望した顔。
結はその光景に絶句した。
教室の片隅で呆然た立ち尽くす結に声をかけたのは、いじめが始まって以来、久しぶりに話す親友の女の子だった。
彼女は嬉しそうに、スマホの画面を見せてきた。
それはあの日、公衆トイレでの出来事を撮影した動画。
そこのコメント欄にはこう書かれてあった。
『厚顔無恥。反撃されて怪我をした男はいじめていた同級生から100万巻上げた』
示談金のことだ。
この動画が学校の誰かの手によって、夏休みの間に動画サイトに公開され、綺羅は虐めておいて金を請求する厚顔無恥な男と非難されているらしい。
まだ名前は伏せられているそうだが、もうそろそろ、モザイクをかけられた人物がどこの誰だか、ネット上に晒され出すからだろうと親友は言う。
『良かったね!立場逆転じゃん!』
『やり返してやれよ!』
『今までの恨みを晴らしてやれば良いのよ!』
良かった?何が良かったのだろう。
やり返せ?犯罪者になれとでも言うのか。
今までのことがなかったかのように接してくるばかりか、自分がやられた事を綺羅にやり返せと囃し立ててくるクラスメイトたちに、結は絶望した。
結のいじめに関する一連の出来事は全て、彼らにとってはただのエンターテインメントでしかない事を悟ったからだ。
結はされた事をなかったことには出来ないし、かといって自分がされた犯罪紛いのことを誰かにする気にもなれない。
その時、結局うまく言葉が出てこなかった結は、『そうなんだー』と周りの言葉を愛想笑いで流し、始業式が終わると急いで学校を後にした。
工藤綺羅をいじめようと誘ってくるクラスメイトも。
相変わらず何もしない教師も。
お前のせいだと言わんばかりの目で睨みつけてくる工藤綺羅も。
そして、『いじめはやめよう』とクラスメイトを諌めることのできない汚い自分も。
全部が嫌いになった。
特に、目の前で起こるいじめに何も言えない自分を結は一番軽蔑した。もしかしたら、心のどこかで自業自得だという思いがあったのかもしれない。
毎朝、学校が近づくと心臓の音が大きくなり、息苦しさ、嫌悪感を感じていた。結の体は確実に学校を拒否した。
けれど、彼女はそんな体の不調に耐えながらも。学校に通い続けた。
兄の穂高が自分を応援してくれているからだ。
穂高は毎日送迎を買って出てくれて、毎日自分の好きなおやつを作ってくれて、バイトして貯めたお金で心が安らぐ香りのアロマを買ってくれたりした。
そんな兄の姿を見ていると、とてもじゃないけど『辞めたい』なんて言えなかった。
家族を心配させまいと笑うものの、結はストレスフルの生活の中で、確実に追い詰められていた。




