1:私の兄は引きこもり(1)
今年の春はいつもより少し暖かい。去年は4月の頭でも暖房をつけていたが、今年は3月中旬には必要なくなったくらいで、私は電気代が少し安くなりそうだとほくそ笑んだ。
しかし、暖かくなるのが早いということは、即ち虫の活動時期も早まるということ。一昨年あたりから毎年、我が家のベランダに住処を作りに来る蜂の存在を思い出した私は、『ハチノスツクラセナーイ』という何の捻りもない名前の殺虫剤を手に、兄、穂高の部屋を訪れた。
何故兄の部屋に入るのかというと、兄の部屋からしかベランダに出られない構造になっているから。決して兄の事を害虫であると思っているわけではないのでそこは誤解しないでもらいたい。
そもそも、たとえ兄が害虫に近い性格をしているどうしようもない男でも、一応生物学上は人間に分類されるので、ハチノスツクラセナーイでは死なない。仮に駆除する必要があるときは闇の組織にでも頼まないと無理だ。
「昔、人を殺して完璧に処理するには3人の人手が必要とか聞いたことがあるんだけど、あれって本当なのかな?」
兄の返事を待たず、部屋に入った私はそんな事を言いながら、遮光カーテンを開けた。
どのくらい長い間このカーテンは開けられていなかったのだろう。それを知る術はないが、兄が太陽の光に怯えるかの如く布団を頭からかぶったことから、5日ぶりくらいだと推測した。
換気もされていない締め切った部屋の空気はどこか埃っぽく不快だ。
「我が家はお兄ちゃんを入れて3人だから一人足りないよね。電話したらお父さんも来てくれるかな?」
「…何?俺のこと殺そうとしてんの?」
「あら?そう聞こえた?」
「そうとしか聞こえねーわ!」
布団の中で兄が叫ぶ。こもった声が部屋に響いた。
「何しに来たんだよ、早く出て行けよ」
「ハチノスツクラセナーイをベランダに吹きかけたらすぐ出ていきますよー。こんな部屋」
「効果あんのかよ、それ」
「さあ?それは夏にならないとわからないわ」
「…何だ?それはアレか?『夏まで生きていられたら良いな』という意味か?それまでにこの世から消し去ってやるということを暗示しているのか?」
「どうしてそういう思考になるのよ。京都人もびっくりなくらい言葉の裏を読むじゃない」
「知っているか?京都人と一括りにすると怒られるんだぞ。京都人でも言葉の裏を読むのは特に市内の人間だけらしい。知らんけど」
「知らんけどって付ければ何を言っても許されると思わないほうが良いよ、お兄ちゃん」
関西に来て以降、この男は語尾に『知らんけど』を付ければ不確かな情報を拡散しても怒られないと思っている節がある。本当に無責任。
「それにしても、今日はいい天気だね。お兄ちゃん」
ベランダに薬剤を吹きかけた私は、チェストの上に綺麗に積み上げられた洗濯物の山の頂上にスプレーを置く。引き出しにしまうだけなのに、それすら面倒らしい。
私は軽蔑の視線を兄に送りつつ、彼の防御壁である布団をめくり上げた。
すると、癖のあるボサボサの黒髪に印象の悪い三白眼が特徴的な、黒のスウェットを身に纏った屁理屈男が不機嫌そうな顔でこちらを見ていた。目をつぶしてやりたい。
「今日で引きこもり歴1100日目だよ。おめでとう。記念にそろそろ外に出てみたら?」
「知っているか?俺は太陽の光を浴びると死ぬんだぞ」
外に出ようと言う私を兄は鼻で笑った。
今すでに窓から差し込む太陽光を浴びてるやつが何を言っているのか。
「太陽光を浴びて死ぬならいっそのこと外に放り出したい」
「殺人だぞ」
「お兄ちゃん殺しても多分執行猶予つくよ。情状酌量の余地有りだもん」
「ねーよ!大体お前はいつも引きこもりであることを理由に俺を貶すけど、まだ1115日だ。年数にすると約3年しか引きこもってない。俺の25年の人生においては些細なことだ」
「本当、屁理屈しか言わないんだから」
「屁理屈じゃない。事実だ」
「論点ずらしてる時点で屁理屈よ。ねえ、もう十分ニート満喫したでしょう。いい加減外に出て働いたら?」
「俺はニートではない!働いている!外に出て働くことだけが労働ではないのだぞ、妹よ」
そう言うと、兄はのそのそと昔懐かしの勉強机の引き出しから彼名義の通帳を取り出し、それを私に押し付けてきた。私は小さく息を吐きながら中を確認する。
「あんなくだらないブログでも15万は稼げるのね」
世も末である。私は日本の未来を憂いた。
兄の収入基盤は『社会不適合者がただひたすらに社会に対しての愚痴をこぼすブログ』で得るアフィリエイトの収入と、ライブ配信アプリで生放送した時に得る投げ銭なのだが、これがびっくり。多い時には50万ほど行くこともあるのだ
もう一度言おう。世も末である。
年中毛玉まみれのスウェットを着て、家に引きこもり、卑屈に生きるこの男の愚痴に賛同する人間が一定数いることが恐ろしい。何で皆、こんな平均的な純日本人顔の屁理屈男にお金を投げるのだろう。
確かに声はなかなか渋くて良い声をしている気がしなくもないが、どうせならもっと可愛い女の子にでも投げなさいよ、とも思う。
私は『はぁー』と3秒ほど息を吐き出すと、出しっぱなしになっていた撮影用の三脚を片付けた。
「おい、大きなため息をつくな。幸せが逃げるぞ。今ので2年分くらい逃げた」
「もう逃げる幸せも残っていないから問題ない」
「何を言うかまだ18の若者だろう。あと、言っておくがお前が『あんなブログ』とこき下ろすブログでも、熱心なファンが結構な数ついているんだからな」
「…ファンというか信者でしょ。大体、お兄ちゃんはやり方がゲスいのよ。コメント欄でアンチと信者を戦わせてPV数稼ぐなんて」
「人聞きの悪いことを言うな。俺はこの国の、もしくはこの世界の行く末を憂いている者たちに熱い議論を交わす場を提供しているだけだ」
「もっともらしいことを言っているけど、社会問題に対するお兄ちゃんの、『一見クズみたいだけど正論にも聞こえなくもない賛否両論分かれそうな極端な意見』を餌に子供おじさんを集めているだけでしょう?」
私は兄の主張を鼻で笑ってやった。
兄のブログはたびたび炎上する。それは兄が燃料となる極論を投下しているからだ。
過激な言葉を用いてアンチを煽り、屁理屈を用いて信者を魅了する。
ちなみに最近よく釣り上げているのがエセフェミニスト。真のフェミニストではなく、とりあえず差別だ何だと騒ぎたいだけの連中だ。
彼らは勝手に盛り上がってくれるから楽だと兄は言う。そう話す兄の顔は本当にゲスの極みだった。顔の皮膚を剥いでやりたい。
「おい。今、顔の皮膚を剥いでやりたいと思っただろう」
「なんでわかったの?」
「そんな顔をしていた。本当に恐ろしい妹だ」
兄は『恐ろしい恐ろしい』と繰り返しながら再び布団を頭からかぶった。
本当に剥いでやろうか、こんちくしょう。
またしても大きなため息をついた私は、ベッドに腰掛けて布団を捲る。しばらくすると、兄が頭だけ布団から出してきた。
それは可愛い女の子がしていたら可愛いミノムシだが、無精髭の三白眼がしていたらただのミノムシだ。要するに気持ち悪い。本物のミノムシの方が何倍も可愛いくらい。
「…ねえ。お兄ちゃんはなんで、内定辞退してまで私たちについてきたの?」
「だから、東京の通勤ラッシュに疲れたからだよ。通学でもしんどかったのに、社会の歯車になるためにアレに耐えるとか…。無理すぎる」
「嘘つき」
「嘘じゃねぇし」
平然と嘘をつく兄を私はナメクジを見るような視線を送る。
実は3年ほど前、兄はこの国の最高学府…より少し下のそれなりに有名な私立大学を卒業した後、それなりに名の知れた企業に就職する予定だった。
しかし、気がつけば内定を辞退していた。その時に語った理由は『東京の通勤ラッシュが怖すぎる』というくだらないもの。もしそれが本当なら、大人としてどうかと思う。
当時、兄の卒業を待って離婚する予定だった両親は大パニックだった。
絶対にそんなことはないのに、自分たちの離婚が兄の決断に影響したのではないかと悩み始めた母と、兄の将来を心配して自分の勤め先を紹介しよう奔走していた父。そして能天気に荷造りする兄に囲まれながらした引越し準備は、中々にカオスでしんどかった。精神的に。
結局、両親の説得も虚しく、兄は生まれた時から都会にいるから田舎の良さなど知らないはずなのに、『都会に疲れた』とか言って私と母と共に母の実家がある兵庫までついてきた。先に言っておくが、引っ越し先も住所は西宮なので多分田舎ではない。東京に比べれば田舎かもしれないが、少なくとも都会に疲れた奴が目指す『田舎』とはかけ離れている。
(….ほんと、何考えてるんだろ)
兵庫に来てしばらくは就活していたみたいだが、今ではもうただのクソニートだ。
「21にもなって、わざわざ離婚する両親に合わせて苗字まで変えて、何がしたかったの?もしかして向こうでやばい犯罪にでも手を染めてた?」
「なぜそういう結論になる。お兄ちゃんを安易に犯罪者にするのはやめなさい」
「だっておかしいじゃん。私は高校に上がるタイミングだったからちょうど良かったけど、お兄ちゃんは別にお母さんについてくる必要なかったのに…。犯罪を犯して逃げてるなら納得できるけど、そうじゃないなら納得できない」
「何でそう兄を犯罪者にしたがるんだ。ほら、アレだ。人生やり直したかったんだよ。俺の人生ほぼ黒歴史だから」
「それはまあ、否定はしないけど」
「そこは否定しろよ」
「むしろ、現在進行形で黒歴史」
なぜなら現在進行形で残念な引きこもりだから。
そう言われた兄はぐぬぬっと文字にしにくい声を出して私を睨みつける。
だが否定できないのか、最終的には無理矢理話を逸らせてきた。
「つーか、お前大学は?もう4月に入ったぞ?」
「10日が入学式。まだ春休みですー」
「そういやぁ、そうだったな」
聞いておいて興味のなさそうに返す兄に私は苛立った。興味ないなら聞いてくるな。
しかしそう思っていると、このどうしようもない兄からまさかの発言が飛び出した。
「入学祝いになんか美味いもん食うか?」
「え?」
「だから、入学祝いに美味いもん食わしてやるって言ってるんだよ」
「…まじ?」
「まじ」
「嘘ぉ…」
私は目玉が飛び出しそうなくらいに目を見開いた。
こんなことを言われたのはいつぶりだろうか。最後に兄と外食したのは、彼が大学生になり始めてバイトしたお金で家族に中華をご馳走してくれた時以来かも知れない。
「…い、行く!」
「よし、じゃあ母さんには今日残業せずに帰ってこいって言っておく。また用意できたら声をかけるから、それまでに目一杯おしゃれしておけ」
「うん!うん!わかった!!」
今日は金曜日、母の仕事も早く終わる日だ。
どこに連れて行ってくれるのだろう。私は嬉しさのあまりハチノスツクラセナーイを置いたまま兄の部屋を出てしまった。
「…お、おおおお兄ちゃんと、家族で、外食!!」
廊下の端までスキップした私はそのままお風呂場に直行した。
久しぶりの家族での外食。そんな些細なことでも私にとっては何事にも変え難いほどに嬉しいものだったから…。本当に嬉しかったから…。
だから、私は色々なことを失念していた。