せめて生贄になれませんか
「シルフィアナ、話がある」
髪の毛に白いものが混じりはじめた伯爵は、夕食を終え、席を立とうとした娘を静かに呼び止めた。
「は、は、はい。な、な、なんでしょうかっ」
シルフィアナは、極度のあがり症だ。
伯爵令嬢として幼い頃から人前に出ることを余儀なくされていたものの、家族以外の前に出ると赤面して、言葉を発することができなくなる。俯いたまま、震えてしまう。
唯一彼女が勇気を奮ったのは5歳の頃。
家族や護衛と海岸を散策していたとき、反対を振り切って、傷ついていた大きな亀を助けたことくらいだ。
幼少期ならば極度の人見知りであると微笑ましく見守られていたが、思春期に入る頃には「令嬢のくせに人前で話せない」という望まない陰口を叩かれるようになっていた。それが彼女のあがり症に拍車をかけ、社交の場に現れることもなくなった。
さらに引っ込み思案のシルフィアナにとって、いや、伯爵家にとって最大の悲劇は、どこの家からも求婚がなかったということだった。
18歳となった彼女は、伯爵領の民から『行き遅れ』と揶揄されている。
豊かな金髪、大きく縁取られた青い瞳。外に出ないおかげで肌は陶器のように白く、透き通っている。決して美しくないことはないシルフィアナだったが、背中を丸めて俯く様は、彼女の評判を下げるには十分すぎるものだった。
父親の険しい声と表情にすっかり萎縮したシルフィアナは、まともに顔を上げることすらできない。
「最近、雨が降らず日照り続きなのは知っているな?」
シルフィアナは激しく何度も頷いた。
時間だけはたっぷりあるため、窓の外を眺めるのが日課なのだ。
晴天も続けば草木は枯れる。地面は乾き、人々の飢えにも繋がる。シルフィアナとて愚鈍ではないため、いつ雨が降るのか気にかけてはいた。
「占い師にこの地の行く末を見てもらったところ、海辺の洞窟におわす水の神に、未婚女性を捧げるようお告げがあった。とはいえ、民の誰かにそんな一生を賭すようなことは強制できない。そこで」
伯爵はシルフィアナの肩に手をかけた。予期せぬ父親の行動に、シルフィアナは大きく体を震わせた。だが一方で、父親の次の言葉は容易に想像がついた。
「シルフィアナ。お前を行かせることにした。こうすることで民もお前に感謝するだろうし、伯爵家の体裁も保てる。利益しかないのだ、分かってくれ」
(お父さま。わたくしにとって、利益は何ひとつないように思えるのですが……?)
反論したい気持ちはあるものの、うまく言葉にすることができないシルフィアナ。
唯一『利益』がもたらされるとすれば、生贄となって領地に雨が降れば――民が、おそらくはじめて、シルフィアナの存在に感謝するであろうことくらい。
(伯爵家に生を受けた以上、せめて生贄にはなれるように努力しましょう。それがわたくしの存在価値であり使命……)
澱みはじめた感情を、歯がゆさを、シルフィアナは発せない言葉と共に飲み込んだ。
・・・
腰まで伸びた艶のある金髪は真珠を編み込みひとつに纏められ、肌は隅々まで磨きあげられた。
唇には光沢のある紅が引かれ、爪の形も美しく整えられた。
そして纏うのは、純白すぎる絹のドレス。体のラインをすっきりと見せる流行のデザインではあるものの、絹は最上級のものを使用しているし、ダイヤモンドが刺繍されて眩いほどの輝きを放っている。
シルフィアナは今や、この地の誰よりも美しい花嫁となっていた。
惜しむらくは本物の花嫁ではないということ。今彼女が座っているのは、水の神の洞窟である。つまり、これは彼女にとって死装束なのだ。
(わたくしだって花嫁のドレスに憧れていないわけではなかったのよ)
整えられた爪を眺めて、シルフィアナは小さく息を吐き出した。『行き遅れ』という不名誉な二つ名に諦めていたかつての夢は、皮肉な形で叶ってしまった。
ここまでシルフィアナを届けてくれた者は皆、とうに去ってしまっている。母親こそ涙を見せてくれたが、父親に促されてすぐにいなくなってしまった。
響くのは波のくだける音のみ。生き物の息吹は何ひとつ感じられない。
辛うじて光は差しているが、陽が沈めば視界は塞がれてしまうだろう。
ざぷん、と、ひときわ大きな音が反響した。それから、ぽたぽた、ひたひたと何かが水滴を滴らせながら近づいてくる音も。
シルフィアナはゆっくりと肩越しに振り返って、息を飲んだ。
目の前には淡く青く光る輪郭。
人間のかたちをしているものの、それは人ならざる存在だというのがひと目で理解できた。普通の人間は、青く光を帯びたりはしない。
「……お前が生贄に選ばれた娘か」
音が意味を結んで声となり、シルフィアナの耳に届いた。男性の低音だ。そして、柔らかく、なぜだか慈愛に満ちたものだった。
「は、は、はい」
事もあろうにシルフィアナのあがり症は完璧に発揮された。神を前にしての失敗に彼女の頬は朱に染まり、一気に耳まで色を変えていく。ぱくぱくと口を開いたり閉じたりしてなんとか呼吸を保とうとしても不可能で、今度はたちまち青ざめていった。
「面白い」
ちっとも面白くなさそうな感想だった。
ところが水の神はシルフィアナを両腕で持ち上げ、あたかも『お姫さま抱っこ』のような状態になる。シルフィアナは今度こそ完全に硬直してしまい、そのまま洞窟から連れ去られてしまうのだった。
・・・
「よく似合っていますわ」
「とても映えていますわ」
「実にすばらしゅうございますわ」
シルフィアナの周りで薄布をまとった半魚人たちがくるくると踊る。上半身は鮮やかな魚、下半身は人間のもの。
最初こそ恐れおののいたものの、半魚人たちは決してシルフィアナへ危害を加えようとはしなかった。
それどころか、豪奢な館に突然連れて来られて戸惑いの極限にあるシルフィアナをもてなし、伯爵家の館よりも立派なベッドに眠らせ、豪勢な食事を用意し、豊かな水で彼女の身なりを整えてくれた。
牢に閉じ込められるかと思いきや、館のなかは自由に歩くことができた。窓の外から見える景色はどれも水中だったので、シルフィアナはそういうものなのだと理解することにした。
ここは水の神の館。ふしぎなことが起きない方がおかしいのである。
時間の経過は壁の時計で確認した。
朝や夜がない分、規則正しく生活することを心がけた。
食事は初めこそ半魚人が用意してくれていたが、いつしかシルフィアナは進んで調理場に立つようになった。伯爵家でもごくたまに料理をすることがあったが、止める者がいない今は好きなように料理をして、着実に腕を上げていった。
清掃用具の場所を聞き、広い館の探検を兼ねて掃除もはじめた。慣れないうちは埃や水を被ることもあったが、苦ではなかった。
忙しさはあるものの、地上にいた頃よりも穏やかな日々。
自らで決めた日課を終えると、書庫で見たことのない本に触れたり、水のない中庭で花を眺めたりもした。紅茶の缶を見つけて、静かなお茶の時間を楽しむこともあった。
穏やかに過ごせているのは、衣食住が保証されていること以上に、誰も彼女のことを笑ったり、陰で話題にするようなことがなかったためだ。
シルフィアナは、ゆるゆると緊張が解けていくのを感じていた。
その間、水の神の姿を見ることはなかったから、というのもある。
ゆえに彼女はまだ生きている。
「「「旦那さま」」」
半魚人の声にびくりと反応して視線を向けると、シルフィアナに向かって青い輪郭の男性が近づいてくるところだった。
数日ぶりに、そして、光源の下では初めて目にする水の神。
背が高く、人間であればたいそうな力持ちであろう筋肉質な体型。神なのだから、それを遥かに超えるのは想像に難くない。
彫りの深い顔立ちの中心、すっと通った鼻梁は彫刻の柱のよう。耳は大きく、複雑な装飾で彩られていた。
輪郭こそ青いものの肩に届く髪の毛は宝飾品に負けない銀色をしていたし、同じく瞳は金色の輝きを湛えている。
身に着けているのは絹よりも極上な素材の布で、腰は金色のベルトで締められていた。靴は履いておらず、大きな足は素のまま。
(美しいものを目の前にすると、人間って、死んでも悔いがないという気持ちにさせられるんだわ)
畏怖と同時に見惚れていると、水の神はシルフィアナの前で片膝をついた。
潮の、においがした。
「足りないものはあるか?」
まるで凪のような問いかけだった。
ふるふるとシルフィアナは首を横に振る。しかし、すぐに考えを改めた。
(わたくしはまだ生贄にするには力不足なのだわ。条件が満たされなければわたくしは殺されないし、伯爵領に雨は降らない)
「あ、あ、あの、何なりと仰ってくだしゃい」
あなたさまの望むままに。
そう言いたかったシルフィアナだったが、噛んでしまったことで言葉を閉じてしまう。
すると水の神は左腕を伸ばし、シルフィアナの頬にそっと触れた。
ふしぎな感覚がシルフィアナを襲い、満たしていく。自然と唇は開かれていた。
「いえ。どうか骨の髄までお召し上がりください。そしてあなたさまが満足された暁には、彼の地に恵みの雨がもたらされることを、わたくしは心より願っております」
シルフィアナが一語も噛まずに言葉を紡いだのは数年ぶりのことだった。それに、本人が最も驚いていた。
水の神の黄金に、目を丸くするシルフィアナがはっきりと映る。
「そうだな。美味しくいただくことにしよう」
人ならざる者は口角を上げ、シルフィアナの頬から手を離す。次に恭しくシルフィアナの右手を取り、滑らかな甲に唇を寄せた。
(~っ!)
頬から水の神の手が離れて惜しい気持ちが生まれたのに、一瞬にして感情が複雑に上書きされたシルフィアナは、何回目かの硬直状態に陥る。
「私は、嬉しかった」
何度も何度も、啄むように水の神は手の甲へ口づけを繰り返した。
「雨が降らぬのは私の意志ではない。故に人間どもの勝手な裁量で生贄が選ばれたと聞いたときは憤慨したが、洞窟に佇むお前を見たとき、歓喜に打ち震えた」
(歓喜、ですって……!?)
「およそ10年前。海辺で動けなくなっていた私を助けてくれたな」
唐突な答え合わせ。シルフィアナは雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。
(まさか、あのときの、亀)
子どもの頃、傷ついていた亀を助けた。両親には放っておけと言われたけれど、見捨てることはできなかった。しばらく面倒を見て、傷が癒え、海へ帰るまで見守った。
シルフィアナの思考を読むかのように、水の神は首肯した。
「その通り。私はあのとき、亀の姿を取っていた」
次に、水の神はシルフィアナの腕を取り、引き寄せ、自らの胸元へと納めた。
「生贄になどしないし、一生この館で大事にしよう。望むものはすべて与える。絶対に悲しませたりなどしない。故に、そろそろ」
とくん、とくんと。
人間と、そうではないものの鼓動が重なり合う。
規則的に、段々と速まっていく。それは音楽を奏でるような美しい調べだった。
「名前を教えてはくれぬか? 人間の娘よ」
シルフィアナは顔を上げた。もはや背中は丸まっておらず、背筋はすっと伸びていた。
「シルフィアナと、申します」
彼女は、ゆっくりと綻んだ。
蕾は開く。
その瞳には、満開の青い花が映っているようだった。
――やがて伯爵領には再び雨が取り戻されたが、それは水の神が生贄を得たからなのか、はたまた人間の考えの及ばない気まぐれによってだったのか、正しく知る者は地上にひとりもいなかった。
しかし、シルフィアナは確かに民の犠牲になったと悲しまれ、噴水広場に『水の乙女』という名で彫像が飾られるのは、遠くない未来の物語である。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
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