その4:先輩が料理当番を代わってくれない(1/3)
人は社会と関わって生きていく以上、何らかの役割を担っています。
それは家族、学校、地域社会、ひいては国家、世界まで、あらゆる社会に適応されます。
それは、人が人として生きるために必要であり、また、自分が自分であるために必要でもあるのです。
ただ、この役割というものは意外と厄介なもので、人の行動を制限するばかりか、人間関係にも歪みを与えてしまう力があります。
それでも、あたしたちにできることは、与えられた役割を全うすることだけなのです。
ゴールデンウィークも後半戦に入り、籠女ちゃんの練習にさらに熱が入ります。
「ウィリアム・シェイクスピアよ! 我がキャビュレット家に受け継がれしこの聖剣エクスカリバーの切っ先に賭けて、決闘を申し込む!」
籠女ちゃんの凛々しい声が四畳半を迸り、右手に持った金属バットがこたつに入ったあたしの頭の上で空を切ります。
どうしよう、ここまでツッコミどころが多いと逆に困ります。
シェイクスピアは作者の名前ですし、キャビュレット家はジュリエットの方ですし、エクスカリバーは別の物語ですし、そもそも原作には決闘シーンなんてありませんし、諸行無常もインターネットもどこか行っちゃいましたし、朝からずっとパジャマ姿ですし、部屋で叫ぶとご近所迷惑ですし、四畳半で金属バットを振り回すのは危ないし。
そろそろ、限界です。
「籠女ちゃん、あたしには難しすぎて話が分からないんだけど」
あたしはこの1か月間、溜めに溜めた想いを、ついに口にしてしまいました。
それを聞いた籠女ちゃんは、ぴたっと動きを止めたかと思うと、きょとんとした顔であたしの方に向き直りました。
「すみません、脚本創ったの私じゃないので、私も分かりません」
「ええぇーっ!?」
あたしは思わず叫びながら勢いよく立ち上がってしまいました。この瞬間、あたしの方がご近所迷惑でした。
衝撃です! あの一貫性のない意味不明なキャラ設定はてっきり彼女の素の姿だとばかり思っていました。しかし彼女は演劇部の期待の新人、ただただ台本のとおり演じていただけだったのです。
「でもこの前、ロミオとジュリエット両方演じてたでしょっ!?」
「えっと、配役はまだ決まってないので、どの役が与えられても演じられるように練習していたんです」
「でも! 朝起きた直後もご飯の時も宿題やってる時もお風呂の時も寝る前もずっとあんな感じだったじゃん!」
「すみません、世界観の把握と役作りのために常にこういう時はこうかなー、って想像しながら演じていただけなんです」
この子、かなり意識高いです! もはやプロです。
ストイックでコミュ障な子がここにもいました。
あたしが目を白黒させていると、籠女ちゃんはばつが悪そうな、照れ笑いしているような表情を見せました。
きっと、これが彼女の素の姿なのかもしれません。
あたしはずっと誤解していました。独特な世界観を持った一癖も二癖もある変な子だとばかり思っていましたが、本当は素直でまじめで、演劇に一生懸命な一途な女の子でした。
「ごめん、籠女ちゃん。あたし、少し誤解していたみたい。初めて会った時からずっと演技の練習だったんだね。じゃなきゃあんな変な自己紹介しないもんね」
こちらもばつが悪くなってきてしまったので、ごまかすように頭をかきながら素直に謝りました。
「あ、あの……」
籠女ちゃんも頬を紅潮させました。
「あの時は、その……素でした。私、緊張しちゃうと、その……え、エッチなこと、言っちゃうんです」
訂正します。やっぱりこの子は変な子でした。
そして、演劇本番の時がものすごく心配になりました。
部屋の中がなんだか変な空気になったところで、こんこん、と襖を叩く音がすると、間髪を容れず襖が開きました。
1年生の証である赤いセーラー服の女の子が顔をのぞかせます。確か、二ノ宮さんだったと思います。
「すみません、栗原さん、ちょっといいですか?」
「いえ、栗山です」
「そんなの、四捨五入したら一緒じゃないですか! そんなムッとしないでくださいよ!」
そういえば、この子は遠慮を知らない子でした。さらに言えば思慮も配慮も知らない子でした。
だいたい、四捨五入したら一緒とか意味分かりません。むしろこの子を四捨五入したらゼロノ宮さんです。
「それで、何か用ですか?」
「用ってほどじゃないんだけど、あたしたち今から旅行に行くから、料理当番代わってね、ってことで!」
少し怒気を含ませた声にもゼロノ宮さんはどこ吹く風で、要件をさらっと言うとすぐに踵を返してしまいました。
用ってほどじゃない用にしてはあまりにヘビーです。
「ちょっと、何勝手に決めてるの!」
「寮長と軍曹には話通しといたから、よろしくねー!」
あたしの制止も馬耳東風にゼロノ宮さんは春風のように去っていきました。
そもそも、なんでゴールデンウィークに制服着ているんでしょうか。今から旅行って、セーラー服で行くんですか。どんだけスクールラブなんですか。あれ、スクールラブって意味違う気がするけど、まあいいや。
大きなため息を1つし、時刻を確認しました。微塵も納得はできませんが、任された以上、やらなければいけません。――やっぱり、納得できません。
現在の時刻は午後5時40分。そろそろ向かわないと怒られてしまいます。理不尽です。
そうそう、先に言っておくと、軍曹というのが料理当番を代わってくれない先輩のことで、みんな軍曹って呼んでいるのであたしもそう呼んでいます。
重い足取りで板張りの長い廊下をとぼとぼ歩き、食堂を通り過ぎ、厨房の前の準備室に向かいます。
準備室の引き戸の前に立つと、もう1つ大きなため息が出てしまいました。
覚悟を決め、扉に手を掛けようとした瞬間、勢いよく引き戸が開きました。
「二ノ宮1年兵の代理の者は貴様かァッ!」
「はひいいぃ!」
耳をつんざく怒号に、あたしは戦慄して体が直立したまま固まってしまいました。
この左目に海賊みたいな眼帯を付けたボブカットでコック服の女性が軍曹です。
身長150センチもないのにこのドスの利いた87デシベルの声を出せるなんて、想像できません。ちなみに87デシベルは実測値です。
「所属と名前ッ!」
「はひぃ! 1年D組、美術部の栗山あずきですぅっ!」
軍曹はめちゃくちゃ怖いので、あたしはただただ命令に従うのみでありますっ! あたしは敬礼とともに所属と名前を答えました。うちの高校では、所属を聞かれた時は学年と組だけでなく、一緒に部活か委員会を答えるのが通例なのでありますっ!
「栗山1年兵だとォッ! 貴様ッ! よくもまあノコノコ現れたなッ!」
「はひぃっ! 申し訳ありませんでありますっ!」
普通、軍曹みたいに見た目小学校低学年の女の子に怒鳴られたってかわいいもので恐怖なんて感じないと思います。なのに、軍曹の罵声は人の本能的な恐怖心を揺り動かし、心の大事な部分をえぐり取ってしまうような、世界大戦を彷彿とさせる怒号です。
あたしはもう怖すぎて一刻も早く立ち去りたくなるくらい軍曹のことを鮮明に覚えているのに、軍曹はあたしが所属と名前を名乗るまであたしと認識してくれていませんでした。というか、二ノ宮さんが話を付けた時に気づかなかったのでしょうか?
「貴様のような者には用はないッ! 部屋に戻れッ!」
それなのに、この有様です。
軍曹があたしに向ける人差し指は、まるで銃口です。このままだと殺されてしまいます。
「はひぃ! しかし、二ノ宮さんが言うには、寮長の許可も取ったと――」
「口答えするなァッ!」
「はひいぃぃっ! 失礼しましたでありますぅっ!」
あたしが全力で謝罪した直後、勢いよく引き戸が閉じられました。
今日も軍曹は料理当番をさせてくれませんでした。しかも、二ノ宮さんの代打にもかかわらず、です。
えっ、別に先輩が料理当番を代わってくれないってことじゃない? 違います。料理当番は普通1週間ごとに交代なのですが、軍曹はもう2年以上料理当番をやっているそうです。
つまり、ずっと誰にも料理当番を代わっていない、ということです。あたしにだけ代わってくれないのではなく、誰も代わってもらえていないということです。
どうしてそんなに料理当番をしているのか、あたしには分りません。ただ、軍曹はかなりの美食家で、かなり腕のいい料理部の部長らしいです。
部活で料理作って、寮に帰っても料理作って、もう下手したら授業中も料理作ってるかもしれません。
そんな軍曹に嫌われてしまったのは、忘れもしません。新学期が始まって1週間後の料理当番の日のことでした。