その3:先輩はストイックでコミュ障(2/2)
「蝶舞せんぱーい!」
川原に水着姿で腰かけている蝶舞先輩に向かって呼びかけながら駆け寄ります。けれど、蝶舞先輩は全く反応しません。無視とかのレベルではありません。
あたしはそのまま蝶舞先輩の目の前に仁王立ちします。彼女はまだ無反応です。
「先輩、さすがに川で泳ぐのはどうかと思います。そんなに汚くない川とはいえ、まだ肌寒い季節なので、風邪ひいちゃいますよ! だいたい、恥ずかしくないんですか? むしろあたしが恥ずかしいです!」
あたしが大声でまくしたてると、蝶舞先輩はようやくあたしに気づいたようでした。
蝶舞先輩は無表情を崩すこともなく、耳の横に手を持ってくると、ひらひらと動かします。聞こえないアピールです。
腹が立つしぐさですが、すらりときれいな長い指に免じて許します。
「川で泳ぐ、ダメ、ゼッタイ!」
あたしは話を簡潔にまとめて叫びました。
それを物珍しそうに見つめる蝶舞先輩は、スポーツドリンクを少し口に含んでゆっくり飲み込み、舌ったらずな声でしゃべりました。
「ぷーる。まだ。」
この2語から読み取れることは、この時期、学校のプールはまだ掃除もしておらず、利用することができないので仕方なく川で練習をしていました、ということです。
春の川で練習とか、まじめとかストイックを超えてやりすぎです。
「川で泳ぐ、風邪引く! あたし、恥ずかしい!」
コミュニケーションの基本は、相手の話に合わせることです。伝えたいことを彼女のしゃべり方に合わせて叫びます。あ、ちなみに蝶舞先輩は生粋の日本人です。少なくとも、見た目は。身長、手足、長い、除いて。
蝶舞先輩は表情を変えることもなくじっとあたしの目を見つめてきます。完全にロックオンです。恥ずかしくなってきます。
たっぷり30秒後、蝶舞先輩が口を開きました。
「もういちど。」
リピートを要求されました。聞こえなかったのか、聞いていなかったのか、まさか意味が伝わらなかった? ここの判断を誤ると、蝶舞先輩はへそを曲げてしまいます。
私は少し頭を巡らせて、慎重に話します。
「まだ、5月、寒い! 川で泳ぐ、風邪引く! 川で泳ぐ、普通、やらない! あたし、先輩、同じ寮! あたし、恥ずかしい!」
補足情報も交えて、先ほど伝えたかったことを言葉にして投げつけます。もはや、あたしが恥ずかしい理由は別のものになってしまったような気もしますが、気にしているとコミュニケーションが取れません。
蝶舞先輩の視線があたしの顔に釘付けになって離れません。この時間は妙に緊張します。
またまたたっぷり30秒後、蝶舞先輩は口を開きました。
「なんで。」
これはかなりレベルが高いです。隙を見せたらあっという間にディスコミュニケーションになってしまいます。若干ディスコミュってる気もしますが。
まずは、風邪を引く理由とあたしが恥ずかしい理由のどちらを聞かれているのか判断しなければいけません。一応両方理由付けしているのですが、どちらかが蝶舞先輩には納得ができないのでしょう。
寒い時期に川で泳げば風邪を引くのは普通に考えて予想できそうですが、蝶舞先輩がそういう体験をしたことがなければ疑問に思うのも不思議ではありません。
ましてや水泳部で年中水泳の練習をしている人にとっては水泳=風邪を引くということが成り立ちにくいのかもしれません。
一方、あたしが恥ずかしい理由は、同じ寮の先輩がゴールデンウィークに川で泳いでいるという一般常識から外れた行動をしており、同じ寮にいるという共通点からあたしも常軌を逸した行動を平気でとる女の子と一般人から見て思われる可能性があるため、普通の女の子として認知されたいあたしにとってはこの状況がよろしくないからです。自分の気持ちをここまで分析するのも恥ずかしいですが。
蝶舞先輩に常識を振りかざすのが正しい判断かは分かりませんが、普通に考えればあたしが恥ずかしい理由を尋ねている確率が高そうです。
しかし、先ほどのの理由を蝶舞先輩に伝えるのはかなり大変です。
あたしもたっぷり30秒もらうことにしました。この時間を使って頭をフル回転させます。
そして、心に決めました。
「あたし、プールで泳ぐ、先輩、見たい!」
説明を放棄しました。これが将棋の早指しなら、間違いなく悪手です。しかし、投了するわけにはいきません。
今度はこっちから先輩の目を見つめ返します。こうなりゃヤケです。
10秒。
あたしの頭の中でアナウンスが流れます。風流な川のせせらぎが遠くに聞こえます。
20秒。
刻一刻と時が刻まれていきます。あたしの心臓も早鐘を打ち始めます。
25秒。
きっと、先輩も知恵を絞っているに違いありません。ポーカーフェイスですが。
28秒。
その時、先輩の口が動きました。
「わかった。」
伝わりました!
彼女の答えを聞いた瞬間、あたしは心の中でガッツぽーつをしました。結構快感です。
あたしが心の奥からあふれ出す喜びを全身で表現したい気分を必死にこらえていると、蝶舞先輩はスポーツバッグの近くにおいてある靴下と靴を履き始めました。
片膝を立てて靴ひもを結ぶ姿、色っぽいです。たまりません。
そういえば、ずっとスクール水着姿で、着替えも近くにありません。そもそも近くに着替える場所なんてありません。
なんだか、嫌な気がしてきました。
きっと、このままの格好で泳ぎに来たのでしょう。赤銅寮は目と鼻の先なのでまあ許せる範囲なのですが、嫌な気配がぬぐい切れません。
蝶舞先輩はスポーツバッグを肩にかけると、仏頂面のまま小さくつぶやきました。
「はしる。」
この一言を分析すると、仕方ない、あずきちゃんのために川で泳ぐのはやめにします、けれど、トレーニングは欠かせないので少しランニングしてきます、という意味に違いありません!
「先輩、ダメです! さすがにその格好でランニングはまずいです!」
あたしが言うが早いか、蝶舞先輩は走り出しました。もうあたしの言葉は先輩に届いていません。
「ちょっと、先輩! 待ってください!」
あたしも走って追いかけますが、とても追いつけるスピードじゃありません。あたしの言葉ももうとっくに追いつかないと思います。
そういえば、この前先輩が言っていました。まあ一応部活とは別に趣味でトライアスロンやっているんだけど、ランとバイクはおまけみたいなものかな、私は泳ぐのが断然好きだし、やっぱり泳いでいる時が一番生きてるって感じがするんだよね、と。
ここで問題です。実際、蝶舞先輩はなんて発言したでしょう?
その答えが分かる人は、コミュ障なんて全然気にならない人だと思います。
正解は、「とらいあすろん。おまけ。およぐ。すき。」でした。