隣の患者
俺は、田野部京介、32才。
ごくごく普通の会社員だが、最近、残業続きで少し疲れ気味だった。
そんなある日、俺は腹に痛みを感じて、会社を休んで病院へ行った。
「盲腸ですね」
医師が言った。
「やった!休める!」
急性虫垂炎、これなら大手を振って休むことが出来る。
手術のために入院となり、妻の加奈に電話をして、入院の準備をして来るように頼んだ。
普段は小言ばかりを言い、子供の世話とパートの仕事で、俺に構う暇がない。
「本当なの?」
加奈の第一声だったが、嘘ではない。渋々パートの仕事を切り上げて、夕方には病院へやって来た。
「入院代が安く済むように、6人部屋にしてもらったから」
恩着せがましく言った。
本当は、個室でのんびり過ごしたいが、加奈がそんなお金は無いと、大部屋にするに決まっていた。
「じゃあ、着替えがあれば、一日一回くらい来ればいいわね。私も忙しいから」
そう言って、準備が済むとさっさと帰って行った。
病気のうちに入らないと、なんだかんだ言われたが、翌日の手術まで、ゆっくり出来る。
さらに嬉しいこともあった。
入院当日から翌日まで、手術前の処置をしてくれた看護師が、俺より年上ではあるが、奇麗で優しくて、久しぶりに幸せな気分だった。
手術が済むと、看護師の至れり尽くせりの世話を受け、その看護師に恋をしそうだった。
6人部屋と言っても、入院患者は、俺を入れて4人だった。
俺は、特に人付き合いが良いわけでもないので、一週間後には、もう会うことのない他の患者と親しくなる必要もないので、入り口側の隅だったから、動けるまでは、カーテンを閉めて、ゆっくり本を読んでいた。
そして二日目の夜だった。
加奈に買って来てもらった週刊誌を隅々まで読んで、やっと眠くなり、うとうとし始めたころ、俺のベッドのカーテンが開かれた。
シャーッ!
「わっ!」
俺は、ビックリして閉じかけた目を開けた。
「だ、誰?」
枕元のカーテンが開き、薄暗い部屋の隣のベッドに座っている男の顔が、白く光っていた。
「お化けじゃ、ありませんよ」
その白い顔の男が言った。
「誰ですか?」
また聞いた。
「あなたの隣の患者ですよ」
ここに入って、一度も顔を合わせることが無かった、隣のベッドの患者だった。同室は、5人だったのか。
「今日、入院されたんですか?」
話したくなかったが、とりあえず俺は聞いた。
「いや、あなたが来る前からいますよ」
白い顔の隣の患者が言った。俺より二回りくらい年上だろう。
「そうなんですか?昼間、全く見ませんでしたね」
確かにそうだった。
「もう長いから、病室なんかにいるのは嫌だから、あちこち見て回ってるんですよ」
笑いながら言うが、その笑い方が、薄気味悪い。
「それより、あなたの反対側の患者さん、明日、死にますよ」
俺は、ビックリした。お前は、何者だ?
「急に何を言い出すんですか!聞いてたら怒られますよ、死ぬなんて・・・」
俺は、急に汗が出た。
「信じませんか?」
また笑顔で言う。やっぱり気味が悪い男だ。
「昼間、挨拶をしたけど、ただの検査入院だって言ってましたよ」
親しくする気は無かったが、反対側のベッドの患者とは、挨拶のついでに話をしていた。
「それが、死ぬんです」
その言い方に、背中が涼しくなった。
「もう寝ますから、おやすみなさい」
俺は、腹が痛くなって、掛け布団を被った。
「死ぬんですよ・・・」
シャーッ!
隣の患者が、俺のベッドのカーテンを閉めた。
翌日、俺はカーテンを閉めたまま過ごしていた。
昼過ぎだった。
「うっ、ううっ!」
反対側のベッドの方で、苦しむ声が聞こえだした。
「あなた、どうしたの?」
付き添いの奥さんが、声を掛けているようだが、苦しむ声は収まらない。
呼び出しボタンを押したらしく、すぐに看護師がやって来た。
「すぐに運びます!」
慌ただしい声が響いた。
「まさか、本当に・・・?」
元気そうだった反対側のベッドの患者。
「すみません、向こう側の患者さん、何か、あったんですか?」
夕方、例の奇麗な看護師に聞いた。
「それが、急に亡くなったんです」
俺は、背筋が凍った。
「本当ですか?」
声が裏返ってしまった。
「心筋梗塞で、突然。別の検査で入院されてたんですけどね」
総合病院だから、いろいろな患者が居るのは知っている。
この奇麗な看護師さんも、人の死を慣れているのか、平気な顔で言う。
少し距離が出来た。
「僕は、ただの盲腸ですよね?」
心配になって聞いた。
ちなみに、俺は友達以外の人間には、おおよそ僕と言う。
「田野部さんは、盲腸で、手術も無事に済んでいるので、数日で退院ですよ」
素敵な優しい笑顔で言ってくれた。
やっぱり、奇麗で優しい看護師さんに見えた。
四日後の夜だった。
シャーッ!
また枕元のカーテンが開いた。
「こんばんは」
見たくない顔が、また現れた。
「本当に、隣の患者さんですか?この前、覗いたらいませんでしたよね」
隣のベッドの患者だと言っていたのに、昼間まったく顔を見ることが無く、食事も出てこない。
「そうですよ。私は、この病院の常連だから、時々、家に帰ったりもしてるんですよ」
本当なのか、嘘なのか?人の死を予言した、この気味の悪い白い顔の男。昼間は、全く入院している気配がない。
とにかく、俺は気味が悪くて、顔を見たくなかった。
「何か用ですか?」
俺は、つっけんどんな口調で聞いた。
「本当に死んだでしょ。私の勘は当たるんですよ」
また不気味な笑顔で言う。
「たまたまでしょ。あの人の病気を知ってたんじゃないですか?」
まるで死神のようにも見えるこの男。早く消えて欲しい。
「じゃあ、私のベッドの向こうの患者さんが、明日死ぬんですけど、嘘だと思います?」
やっぱり死神だ。
「そんなこと、どうでもいいです。寝ますから、ベッドへ戻って下さい!」
シャーッ!
今回は、自分でカーテンを閉めた。
「あら、食欲がないんですか?」
翌日の昼、せっかく、粥から普通食になったのに、食が進まない俺を見て、見回りに来ていた別の看護師が聞いた。
「夜中に、隣の患者が睡眠の邪魔をするんですよ」
俺は、言ってやった。
「えっ?隣?ああ、窓際の患者さんですか?あの方なら、今朝お亡くなりになりましたから、この大部屋も2人になって、静かになりますよ」
そう言って、他の御膳を片付けて出て行った。
「2人じゃないだろ、反対側の一人と、俺と隣の死神の3人だろ!」
言葉には出さなかったが、患者の数くらい、ちゃんと把握していて欲しい。
ああ、いつもの看護師さんは、休みなのだろうか?顔が見たい。
シャーッ!
退院を翌日に控えた夜中に、カーテンが開く音がしたが、俺の所ではなかった。
「また死神か?」
俺の中では、あの白い顔の不気味な男は、死神だった。
俺は、自分のベッドの仕切りのカーテンを、そっとずらした。
「・・・」
反対側の真ん中のベッドの患者と、その横に死神がいた。
「・・・」
何やら、こっちを見て何かを言っている。
「・・・」
死神の口の動きを見て、俺は解読しようと目を凝らした。
「ちっとも解らないや」
無理だった。しかし、確かにこっちを見て、死神は何かを言った。
「まさか、俺のことじゃないだろうな?」
そんなことがよぎって、俺は慌てて横になった。
「俺が死ぬとか言ってるんじゃないだろうな?」
布団を被っても、あの男の顔が消えなかった。
「確かに、俺のベッドの方を見て、何かを言っていた」
そう呟きながらも、それが、何かではなく、俺が死ぬと言っているようで、気になって眠れない。
「いや、俺は、ただの盲腸で、今まで大きな病気もしたことが無く、健康診断でも、悪い所は無かった。俺が死ぬわけがない。あの男は、預言者ではない。ただの偶然が重なっただけだ。俺は死なない。明日退院するんだ・・・」
「ああ、眠い・・・」
欠伸をしながら手続きを済ませ、荷物を持って病院の表玄関に立った。
「じゃあ、気を付けて帰って下さいね」
あの奇麗な優しい看護師さんが、見送りをしてくれた。
加奈は忙しく、一人で帰るように言われた。
しかし、それで良かった。あの死神男に予言されたとしても、俺は無事退院。こうして恋しい看護師さんとの別れの時間を過ごすことが出来ている。
「さようなら」
手を振る看護士さんが、やっぱり奇麗。
俺も手を振って病院を出て行った。
通りのバス停に向かっていた。加奈が、タクシーは勿体ないから市バスで帰れと言ったからだ。
それでも今の俺には、それも苦にならなかった。
「また、会いたいなあ・・・」
歩道を歩いている時だった。
「あそこのベッドの患者、明日死ぬんですよ」
急にあの死神男の顔が浮かぶと、昨日の夜、こっちを見て話したことが聞こえて来た。
「俺は、退院したんだ!」
俺は、急に怖くなって、病院から少しでも遠くへ行こうと走った。
「あのバス停だ!」
一角越えた通りへ出ると、反対側に、家の方へ向かうバス停があった。
「青になってる!」
交差点の横断歩道が青信号になっていた。
俺は、急いで渡ろうとした。
「病気じゃないから、外で死ぬんだ」
横断歩道の真ん中で、あの死神男の声が、また聞こえた。
キイイイイイイッ!
ドンッ!
俺が宙に舞った・・・。




