1-1 彼への依頼
梅雨も明け、うだるような暑さが立ち込める暁市美明町。
とある雑居ビルの地下の、一見すれば店があることなどわかりそうもない古寂れた場所に、そのバーはあった。
中にいたのは数名の客と、店主のバーテンダーのみ。
客の中に一口も酒に手を付けずただただ俯いている男がいた。
名はダニエル=ウィルストン。
既に現役を引退した元軍人だが、10年経った今でも当時の肉体は維持されている。丸太のような太い腕がその証拠である。
時には死と隣り合わせの状況だったこともあったが、そのような修羅場を乗り越え、精神的に卓越したベテラン。
そんな彼が一口も酒に手を付けずにただただ俯いている。既にグラス内の氷は溶けきっており、それだけの時間彼が考え込んでいたことを示していた。何か悩み事を抱えているというのは自明であった。
マスターは、グラスに汚れがついていないか各々チェックしながらもそんなダニエルの様子を横目に窺っていた。
他の客も、2メートル近くある巨体が長時間身動きひとつしない様子を不審に思っているようだった。
そこへ、カランカランという、客の来訪を告げるベルが鳴ったと同時に誰かがバーの中へと入ってきた。ダニエルが顔を上げる。
その者は顔全体を覆う髑髏の被り物のせいか不気味さを醸し出しており、明らかに異質な存在感を放っていた。
「こんな時間に呼び出して、どうしたんだ。急な仕事か?」
外見とは裏腹に、至って普通の男声。しかし、真夜中の1時に呼び出されたためか、若干不機嫌な声色をしていた。
「まあそう急くな。とりあえず座れ」
そう促され、男は渋々背もたれのない回転椅子に腰かける。マスターは何も言わずにカクテルを作ると、彼の目の前へと置いた。
「あと、その不気味な被り物は外しておけ。客がビビってる」
「ああ……わるいわるい。さっきまで仕事だったからな」
そう言うと男は一度周囲を見渡すと、被っていた髑髏が少しずつ薄れ、やがて透明になっていく。
露わになった男の顔をみたダニエルは、彼がまだだいぶ若い青年であったことに驚いた。
男の顎と鼻筋はシュッとしており、端正な顔立ちをしているものの、寝不足気味なのか、鋭い目つきをしており、人相が悪く見える。
男は出されたカクテルを飲みながら、再度言った。
「要件を聞きたいんだが」
「ああ。だが、今日は俺からじゃない」
そう言うと、マスターは顎をクイッとダニエルの方へとむける。
「……へぇ、そういうこと」
理解した男は、カクテルの入ったグラスを持つと、ダニエルの座るテーブルの椅子に対面するようにして腰かけた。サングラス越しにダニエルと目が合う。
「あんたが俺を呼び出したのか?」
「……そうだ」
男はダニエルを軽く観察したのち、こう言った。
「それで要件は?」
「その前に聞きたい。お前が本当に吉良 秋人で間違いないか?」
「ああ。なんだ、疑ってるのか?」
「……いや、疑っているわけではない。言質を取りたかっただけだ」
「思い切り疑ってんじゃねーか」
「…………」
ダニエルは一度咳ばらいをすると、改めてこう告げた。
秋人の突っ込みは思い切りスルーされる形となる。
「吉良 秋人。私がお前を呼び出したのはほかでもない。お前にある人物の護衛を頼みたい」
「……護衛ときたか。そりゃまたどーしてだ? 見たところ、あんたも護衛のようだが」
「元々その人物の護衛には、私が付いていた。しかし、私だけではもう手に負えないと判断したのだ」
ダニエルの声の調子が下がる。
「手に負えない?」
「色々あってな」
どうやらその事についてはお茶を濁すらしい。何か訳ありなのは間違なさそうだった。
「もし受けてくれるのなら報酬はこれだけ出そう」
ダニエルが電卓を取り出し、その金額を見せると、それまで飄々《ひょうひょう》としていた秋人の目の色が変わった。
「ただの護衛にしては高すぎる。……一体あんたは俺に誰の護衛をさせたいんだ?」
恐る恐る聞くと、返ってきた答えは想像を絶するものだった。
「柊財閥の社長、柊誠様の末娘だ」
「…………!!」
秋人が目を見開き、動揺の挙動を見せる。柊誠と言えば、今年の日本長者番付の第1位の企業の社長でもあり、世界長者番付でも日本初となる10位以内を達成した大富豪。秋人のような凡人とはどうあがいても接点の持ちようがない雲の上の存在。そんな彼の末娘を護衛するとなると、その責任は限りなく重い。
ダニエルが手に負えないと言ったのも、そう言った意味の可能性も考えられるかもしれない。
しかし……。
「何処へ行く」
秋人が立ち上がると、ダニエルがすかさずそう言った。
「帰るんだよ。眠いからな」
「まだ話は終わっていないが」
「あのな……そんな話を信用できると思うのか?」
いくらマスターから連絡を受けたとはいえ、まだ目の前にいる人物の詳細も不明。
そんな状況下で巨額の金額と共にいきなり大役を任せられるとなれば、胡散臭く感じるのも無理はない。
だが、その事がかえってダニエルに好感情をあたえたようだった。
「ふむ。どうやらお前は私が想像していた以上に疑り深い性格のようだ。だが、むしろそれでいい。騙されやすい性格の人間は、自らのせいで窮地に陥りやすいからな。そういったリスクを下げる面でも、ますますお前を雇いたくなった」
そう言うと、内ポケットからダニエルは1枚の古びた手紙を出した。
「お前宛だ」
受け取った秋人はその中身を見ると、始めこそ無表情だったものの次第に眉間にしわを寄せ始めた。そして全てを読み終わった後、何かを悟ったのか、上を向いて目を瞑りながらため息をつき、こういった。
「…………1つ聞きたい。これは誰から貰った?」
「残念だが私もわからない。そいつは頭にフードを被っていたからな……。ただ、お前に渡してくれと頼まれた」
「あんたは読んだのか?」
「ああ。悪戯である可能性も否定できないが、もしも本当だった場合大変な事だ。だから本当だという前提の元、お前に協力を要請した」
「素性もよく知らない相手に、大事な柊家の末娘の護衛を任せると? 」
「いいや、素性は全てこちらで把握済みだ」
秋人の眉がぴくっと動いた。
「それを踏まえた上で、お前を信用たる人物だと判断した」
「……」
一体彼はどこまで探りを入れたのか定かではないが、それを聞くのは少し恐ろしくも感じた。
しかし、ここまでして秋人を雇いたいというダニエルの熱意は本物のようだ。
その事が秋人にも伝わったのか、
「……そうか。そこまでして俺を雇いたいというのならわかった。その依頼、引き受けよう。だが、2つほど質問させてくれ。まず、俺を雇うということは、そういうことでいいんだな?」
「ああ。お前がもつ後継者としての力を私は期待している」
後継者、それは即ち神によって授けられた人知を超えた力を持つ人の事を指す。今からおよそ10年前に現れた、神の後継者と名乗る人々は、その力を以って各地を荒らし回った。音速を超える弾丸を躱し、ミサイルを撃ち込んでもほとんど無傷な彼らに、治安を守る警察や軍ですら戦慄した。
そんな彼らを抑えることができたのは、同じく神の後継者だった。毒をもって毒を制するとはまさにこのことである。彼らが悪さをする後継者を抑え込むことで現在までどうにか秩序が守られている。
「ふむ、ならあともう一つ。俺以外にももっと優秀な後継者はいたんじゃないか? 最近だとPECとかいう組織が頭角をあらわしているらしいし」
後継者達が集まる組織――PEC。正式名称はPeace of Public Special Elite Corpsであり、日本語名は治安特殊精鋭部隊。彼らが取り締まっているおかげで国の治安は守られている。非常に優秀な者が多い精鋭集団だが、人知を超えた力を持つという事もあって、住人達の中には不気味がったり、畏怖したりするものも少なくない。そういった存在を理解はしていても納得はできないのだろう。それは人間の感情としてはなんら不思議でないあおう。
「PECには何回か頼んだことがある。しかし、妙な事に皆数日で辞めていったのだ。その件が明らかになるまでは、彼らを雇う事ができない」
「なるほどな……」
「では早速だが、明日から頼めるか?」
「本当に急だなオイ。俺明日は普通に学園なんだけど?」
「その件については問題ない」
「え?」
「お前は明日からお嬢様のいる学園に編入してもらう」
◇◆◇
バーを出た秋人は、まっすぐ家へと向かう。
真っ暗で街灯もあまりない道を10分ほど歩くと、橋が見えてきた。その橋を越え、河川敷を越えていくと住宅街が見えてくる。
住宅街に入ってから更に進んでいった場所に、秋人が現在住んでいる〝鳴橋寮〟はあった。
コンビニで適当に食べ物を買い、寮の前にあるポストを確認する。
「……お人好しもいたもんだ」
そこには、学園の行事や授業関係のプリントなどが入ったファイルが入っていた。ここ最近は学園にほとんど行っていないため、毎日届けられている。誰が入れたのかはわからない。大方、クラス委員長が無理に押し付けられたのだろう。
家の中に入ると、出迎えてくれたのは大量の散らかったゴミだった。片付けをするのが面倒な秋人は、いつも後回しにしているうちに部屋が散らかってくるのである。その度に一度掃除をして綺麗にはするものの、1週間経てば散らかった部屋に逆戻り。そんなサイクルをかれこれ3年は続けていた。
床に落ちた本やら衣服類を蹴飛ばしながらリビングへと進み、冷蔵庫の中へと食べ物を入れると、着替えもせずそのままベッドへと倒れこんだ。
「ふぅ……」
ここ数日の寝不足と疲れがたまっていたためか、横になった瞬間、秋人の意識は暗闇に包まれていった。