EP-01/今日も世界は事もなし
――ここは、平和な人間界。今日もまた何事なき、天界からも魔界からも侵略なんて冗談な、百年の安心が続く世界。
そんな中で、
「…………うう。はぶうぅぅぅぅぅう……」
心臓を直で鷲掴みにされているみたいな、死にそうな呻き声を上げている少女がいた。
「もうやだ、やっぱむり、だめ、かえりたい、ここ、ひとのいていいくうかんじゃない……」
際限なく溢れ出す弱音、それを励ますように支えるように、ぽんぽんと背中を叩く手。
「ほら、しっかり。大丈夫だよ、リル。根拠だってある」
「に、に、にいちゃぁん……」
「あの部屋から出て、一緒にここまで来れたんだ。それって、すっごい進歩で、勇気だろう? もう君は、胸を張っていいくらい、立派なことができている。レベルアップはとっくにしてる」
胸を張ろう、と穏やかな笑みの青年がいい、それから耳元に口を寄せ、
「……あんまりずっと怯えてると、写真に撮って、あの人にメールしちゃうぜ?」
「――――っ!」
魔法器具を持たない彼が、最近ようやく自分で買ったスマホを、いたずらっぽく笑いながら振るのを見て、彼女は、反射的に背筋を伸ばした。
「……あのな。やめろよ。それだけは、ぜったい、だめ。そんなことしたら絶交だかんな。もう妹でも、にいちゃんでもないからな」
「あはは、はいはい、怖い怖い。まいった、そんな悲しいのは耐えらんないや」
「ふん。わかればいいんだ。許したげるよ、ぼくは何しろ寛大だから。約束だってしたんだから。――これまでは嫌いなものとか嫌なこととか、苦手ばっかりだったけど、これからのぼくは――」
ノックの音が三度あり、それから、「お待たせしました」と応接室の扉が開いた。
「遠路はるばる、マジッター本社へようこそお出でくださいました、ティカラニア様、メタモロンド様。私が本日、御報告を聞かせて頂きます、賢者ギルド第七席イータ・ディマインシーと申します」
美しい角度、整った仕草で礼をする美女。
しかしそういうのが心の準備が整う前に来てしまったので、ひきこもりコミュ障混沌属性魔法使いは勇者の末裔の服の裾をぎゅっと掴み、「混沌かえる」と涙目になった。
★☆★☆★☆★☆
「では、こちらをご覧ください」
十時に始まり、昼までかかった説明。
二人が見せた【変化したアレン記念碑】を確認した後、一度離席したイータを待つこと十五分程度、応接室へと戻った彼女が持参したノートPCを開いて示す。
そこには、
「二十五名の【なりきり魔王アカウント】の凍結解除、確かに完了いたしました」
机の上に身を乗り出し、食い入るように見て。
隅から隅まで、“その名前”を確認し終えると、逆に、椅子の背凭れへ倒れ込んで体重を預けるリルミリア。
――何を隠そう、これこそが今日の、遠征の理由。
彼女たちに託された――“あの二人が人間界に来た目的”の、引き継ぎ。
「ただ、凍結ではなく、削除されたままのアカウントは一点。そちらのほうはご了承ください。あんな危険極まる【暗号呪詛】をマナ・ネットワークに上げたアカウントが無罪放免となると、規約が軽んじられ、秩序の箍が外れすぎる可能性がありますので」
「十分です。どうもお疲れ様でした、お手数をお掛けしまして、ディマインシーさん」
「いえ。私の仕事など、あなたがたの働きに比べれば、とてもとても。まったく微々たるものですよ」
ノートPCを閉じながら、美女は悠然と笑み、
「世界が平和になって、今年で記念すべき百年目――などと、世間でも、ネットでも言われておりますが。ええ、実際はこのようなものです、アレン・ティカラニア――“光の勇者の末裔”様」
「……それ。つまり、あなたたちが“こういうの”をするのが、初めてじゃないってことですか?」
「ありふれておりますが、なにか」
リルミリアの探りに、イータは直截的に頷く。
「魔界戦争の時代より、我々賢者ギルドは常に是、【世界の中間管理職】でしたよ。“上”と“下”からの板挟みに、頭痛を覚えながら、文句を言いながらも、“退屈なくらいの平和”を維持して行く為に最善を尽くす――必要であらば時に強引な手段、毒を以て薬とするようなやりかたも用いることがございます。迂遠かつ不本意ではございますが、天界にも、聖天教会にも常日頃見張られている我々は、公に動くと、余計な介入まで誘引してしまいかねないので、こっそりとエージェントに仕立てさせて頂くパターンも」
「……あなた、一体、何を何処まで知ってて図面を引いていたんです。“あの二人”が来ることがわかってて、今回の事件に絡ませる為に、アウラルバに差し向けたと?」
「元はと言えば、魔界のやりすぎのせいで、天界が勢力を、信仰を強め過ぎたのですから。その始末は、やはり、代が変わったとしても、責任者にとって頂かないと。しかし、本当に幸運でございました――マジッターで、このような方法で世界を救えるとは。ふふ、まさかあんな大物たちを召喚できるなんて。ひょっとしてマジッター、召喚術式としての効果も、申請したほうがいいかしら?」
――いくつかの雑談の中で、彼女は『人間界のほうが余程こわい』というようなことをしきりに言っていた。
その言葉はまったく正しいと、おっかないことをしれっと言ってのけた、賢者ギルド第七席を見ていると納得させられる。
「並べて世は事もなし。今回の騒動も、単なる【マジッター規約違反者のいたずらが起こしたアカウント凍結騒ぎ】。実によろしいですね。人間界は、今日もこうして平和です」
大人の余裕というべきか、老獪の手管というべきか。――そもそもこの女、賢者ギルド第七席、本当は一体何歳なのか。考えても、Magipediaをググっても、答えなど得られまい。
そうして、託されていた用事も済み、二人は応接室を後にする。地上までの転移エレベーターまで付いてきてくれたイータは、再度、深々と礼をした。
「この度は、弊社へのご足労、並びに貴重なご意見の提供をありがとうございました。賢者ギルド、マジッター運営、アカウント管理部は――皆様からのフィードバックを参考に、これからも、人間界が健やかであるよう、社員一同、術者総勢、努力して参りますので、どうぞ変わらぬ御愛顧を」
アレンは馬鹿丁寧に「今日から僕も初めて見ようと思います、マジッター」と頭を下げ、リルミリアは警戒を露にしながら、イータを睨みつつその影に隠れていたが、
「メタモロンドさん」
エレベーターの中に入り、扉が閉まる、寸前。
「お受け取り下さい。こちら、今回の御活躍――世界を救ったことに対するお礼で、本社までのご足労に対する、心ばかりの粗品でございます」
豊満に膨らんでいる胸ポケットから摘まみ上げられた、一枚の折り畳まれた紙片が、隙間から投げ入れられた。
受け取ったその表面を見て、彼女の身体が、一瞬固まる。
――表面に書かれた、魔族研究者だけが読める特殊な文字を、リルミリアは、一瞬、息に詰まった後で読み上げた。
「魔族研究者メタモロンド夫妻、現在の賢者ギルドでの秘匿保護地点……」
エレベーターの降下する音だけが聴こえる、二人だけの空間。
しばしの静寂の後、地上へと到着するその前に、
「喜ぼう。もうひとつ、勇気の理由が増えたね、リル」
三分の一ほどが再び魔力の色を取り戻した、紫と緑に染まってきている、リルミリアの髪と頭を撫でた。
★☆★☆★☆★☆
旅に出たい、と打ち明けられた時。
アレンは、七年間を共に過ごした相手の決意を、手放しに喜んだ。
「結局。ぼくも、御先祖も――きっと人間界も、よく、わかってなかったんだって思う」
休憩の為に訪れた、マジッター本社ビル内の喫茶店で、人混みにおどおどと忙しなく目を動かしながらも、リルミリアはどうにか話す。
「魔族って、何なのか。魔界って、どういうトコなのか。ああいう争いが、一体どうして、起きたのか」
感じた疑問、放っておけない、いくつもの謎。
――ネットを調べただけじゃあ追い切れない、部屋に籠っていては、受け継いだ務めだけを見ているのではわからないことを、自分の眼と、耳と、足で調べに行きたいと。
あの、夕暮れの山頂で。
少女は、自分の心の中にあったものを、魔王に告げた。
共に来ないかという話を、断った理由を。
『ごめん。一緒にはいけない』
『ぼくはまだ、人間界で、気になってることがある。こっちがどれだけ生き辛くても、投げ出したら、気が済まないことがある』
『――だけど』
『たくさんの冒険の終わりに、今度はちゃんと、自分から、きみのところへ向かうから』
『その時は――ぼくのこと、百年振りの勇者みたいに、本気で相手にしてくれますか?』
「……こわくないって、へっちゃらだって、言ったらそりゃあウソだけど。楽ばっかりじゃないし、危ない道もあるだろうし、正直、いまもう既に、自分の部屋が恋しかったりするんだけど」
席の横には、彼女の丈の半分ほどあるスーツケース。旅の荷物と、ひきこもりにひきこもって続けてきた研究の成果が詰め込まれた、道なき道を行く連れ合い。
「そういうのも、ひっくるめて。楽しんじゃおうって、考えることにした」
自分は別に、どこにいってもひとりではない。
からっぽになっても、芯が残った。
きっと。
人生に、生きるということに、まったくの無駄で、役立たずなことなど、そうそうないのだ。
格好悪い失敗も。
泣きたくなるような停滞も。
その時間も行動も無ではなく、どこかのなにかに繋がって、思いもよらなかった、愉快極まる騒ぎを起こす。
――それについて。
別れ際に、あの彼女は――こんなふうに、言っていた。
『混沌とは、可能性だ』
『雑多でよい。散漫でもよい。人類が、安定の秩序から外れ、時に迷い、時に揺れ、己にすら制御出来ない衝動、愚かさを持ち合わせていればこそ――汝は明日、何にでもなれる。それは誰にも、神にだろうが邪魔出来ぬ』
『リルミリア・メタモロンド。自ら選びし、その困難に祝福を。汝が勇者の如き大望を抱き、千里の茨を越えるなら――余は次元の果ての果て、幻夢魔城の玉座にて、到来を待とうとも』
『また会おう、人間の友、世界に弓引く我が同士。666代魔王ヴィングラウドが、汝の野望にして欲望、達成を見届ける終点になると誓おうぞ』
「――うん。つまりさ、にいちゃん」
部屋の中で、画面越しに見て、“終わらせた気”になっていたもの。
美しき自然の風景。
平和が生んだ文化。
美味しい食べ物。
楽しそうなこと。
「やりたいなって思ったりとか、やらなくちゃって感じたりとか。そういうのは、まあ、色々、理由であるんだけど」
魔族と人間と、天界の関係の、真実の探求。
生き別れた両親との、再会。
やる前から諦めていた、自分の中の夢を、ひとつ、ひとつ、叶える挑戦。
「言っちゃえば、結局、すっげぇ単純な話で」
先程していた注文が届く。
――モニター越しの画像ではなく、実物を目にしてみれば、何ともまあ圧巻な――マジッター本社カフェ名物、世界樹パフェ。
「ともだちのうちに、遊びに行くんだ。お世話になった分、手ぶらじゃあなんだから、今度はたっぷり、いい格好が出来るくらいのお土産を用意して」
リルミリアは、大きなパフェの頂上の、魔法で枝葉のように形状を固定された緑色のクリームにかぶりつき、表情を輝かせる。
その様子を、アレンはスマホで撮影し、成程、と頷く。
「めでたい日の、嬉しかった瞬間の思い出が、誰でもとっておけるんだ。素敵だねえ、こういう魔法」
そんなふうに顔を緩め、ハンバーグプレートを食べ始めてアレンを、おかえしとばかりにリルミリアが撮り返し、
「だろぉ? はーぁ、ようやくわかったのか、使わず嫌いの魔法オンチ。そっちもさっさとスマホを持ち始めてれば、ったく、一緒に過ごしてた間も、色々コミュニケ楽だったろうに。――ま、でも」
これから十分役立つし、きっと遅くはなかったと――リルミリアは、少しだけ、遠い目で笑み、
「……今更だけどさ」
「うん?」
「にいちゃんの、言ってた通り。――ごはんって、人と食べると、おいしくって、楽しいな」
「ああ。それに気付いたのも、まだ全然、遅くなんてないさ、リル」
二人。
これから別れる家族との、最後の食事を、楽しんだ。
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